宣教 「神はそれを善きに変え」 大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫 2020/08/30
聖書:創世記50章15~21節(p93) 招詞:申命記7章7~8節
「はじめに」
聖書の神は、私たちが今、生きている「私の人生そのものに働く神」だということを、今朝はお伝えしたいと願っています。
皆さまが「自分の人生と信仰」ということをお考えになることがあると思います。
皆さまおひとりおひとりの人生、それが長かろうとあるいは短くても、振り返ってみれば他の人にはない歴史があることだと思います。ぜひ、そうした一瞬、一瞬のことを大事にして歩んでまいりたいと思います。
今年の夏は、東京オリンピック・パラリンピックで、大変な賑わいになるはずでしたがご承知のように延期になりました。
今から30年近く前、1992年のことですが、スペインのバルセロナでオリンピックが行われました。その時の日本チーム・水泳陣で、日本人でただ一つの金メダルを獲得したのは、当時中学2年生14歳の岩崎恭子(きょうこ)さんでした。世界ランキング14位、誰も期待していなかった200メートル平泳ぎの決勝での快挙で、最年少の金メダル保持者としては、未だに破られていないそうです。
そのレース直後の、彼女のインタビューの言葉が印象的でした。
「この金メダルは、自分がこれまで生きてきた中で、一番幸せです」、そうに答えました。「自分がこれまで生きてきた中で」この言葉に私も驚きましたが、この言葉を聞いた皆さんが大変驚いたのが印象に残っています。
皆さんが「まだ14歳なのに・・・」、「これまで生きてきたなかで・・・」だなんて!と感じたのでしょう。
彼女はその後もしばらくは水泳選手を続けたのですが、14歳でオリンピックで出した記録を上回ることはなかったように記憶しています。人生とはそういうことなのかもしれません。
皆様にとりましても、それぞれに、人生の転換点ありましたでしょうし、これからも起きてくることでしょう。
私個人にとって、人生の転換点は、25歳の時の父の死です。正子との結婚を正式に決めるため、双方の両親と、証人合わせて8人でお会いしたのですが、その二か月後に、父が亡くなったのです。私はもとより、家族は大変なショックを受けました。
しかし、これからは自分たち子どもの世代が独立していくのだと促される、転換点であったことは確かです。それ以降、25歳の時の出来事以上のことは、この年まで経験してこなかったと思います。私自身は、信仰をもって、人生の転換点に立たされた忘れられない日となりました。
「神はそれを善よきに変かえ」
この礼拝の宣教題を「神はそれを善よきに変かえ」としました。創世記50章のヨセフの言葉からいただきました。
「それを」とは、末っ子のヨセフに対して兄たちが犯してしまった「悪だくみ」のことです。「悪だくみ」というよりは「罪」といったほうがふさわしい事件でした。神は「罪」すらも「善きに変えてくださる」のです。
- スライド1 聖書朗読では、創世記50章の終わりの個所をお読みしました。本来ですと、8月と9月の私の宣教は「出エジプト記」からですが、「創世記」37章から50章にかけての「ヨセフ物語」が「出エジプト記」と密接に関連しているため、今朝は、この箇所から示されたことをお伝えします。
「ヨセフ物語」
“なぜヨセフがエジプトにいるのか”、“なぜイスラエルの民がエジプトにいるのか”、そうした歴史の背景はヨセフ物語を読んでいただければすぐにわかることですので、短く、スライドで、ヨセフ物語を辿ってみます。
ヨセフは、父ヤコブの最愛の妻、ラケルによる11番目の子として生まれました。まず、何といってもヤコブにとって「ラケルは最愛の妻」であり、ヨセフは「最愛の妻ラケルによる、最初に生まれた子」であったのです。そのため、父ヤコブはことのほかヨセフを可愛がりました。
「偏愛へんあい」という言葉がありますが、他の兄弟たちが憎しみを覚えるほどの愛情を、ヤコブはヨセフに注いだのでした。ヨセフもこれを善いことに、兄たちを見下して育っていきました。
- スライド2 ある日、遠く離れた野原で、羊を飼う10人の兄たちのもとに、父ヤコブの命令で、一人で偵察に遣わされました。やって来たヨセフを、先に見つけたのは兄たちでした。兄たちはその時、「向こうから、あの、夢見るやつがやってくる」。「あの憎らしいヨセフを殺してしまおう」と相談を始めます。
- スライド3しかし殺すことを思い止まり、服をはぎ取り、穴に投げ込んでしまいました。しかしそれでもヨセフの死につながりかねません。
そのように迷っている間に、ほかの人たちによって、穴の中のヨセフは、エジプトに向かう「隊商」に売り渡されてしまいまったのです。
- スライド4 家に帰った兄たちは、殺した羊の血で汚したヨセフの服を見せ、父ヤコブにこう報告しました。
「ヨセフは、私たちのもとに着く前に獣に襲われて死んでしまいました。」と。
その時の父の悲しみは、どれほど深いものがあったでしょうか。
- スライド5 「隊商」に売られてしまったヨセフは、エジプト王に仕える侍従長ボティファルの奴隷となりましたが、牢屋に入れられるなど、つらい出来事に繰り返し遭遇しました。しかしヨセフは忍耐し、神もヨセフを守りました。
ヨセフはやがて「夢を解く人」として用いられ、エジプト王の夢を解き、その王に次ぐ地位、総理大臣にまでもぼり詰めていきました。やがて総理大臣ヨセフはエジプトで予想される将来の飢饉に備え、食料を備蓄するという政策を取り始めていました。
- スライド6 あるとき、世界規模の大飢饉が繰り返して起きるようになり、ヨセフの故郷、父ヤコブや兄たちが暮らすパレスチナも例外ではありませんでした。やがてヤコブの子供たちは、度々エジプトを頼って食料を買い取りに訪れるようになっていました。
しかし、そうした取引で、食料を調達してしのぐことに限界が近づくころ、ヨセフは人々の中に、自分の十人の兄たちがいることに気づきました。そしてヤコブ一族を救うため、エジプトに迎える方策を考えていきました。
「兄たちの恐れ」
ヨセフの計らいによるエジプトでの初期の生活の中で、やがて高齢の父ヤコブが召されました。お読みしました創世記の最後の章では、兄たちがこれからのことを恐れている言葉が綴られています。
50:15 ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。
兄たちは、昔自分たちが犯してしまった罪を忘れることはなかったのです。罪とはそういうものかもしれません。「ことによると、ヨセフが仕返しをするかもしれない」と、その後もずっと苦しんできたことでしょう。
兄たちは恐れて、ヨセフの前に立つことすらできなくなり、代理人を立ててヨセフに赦しを願ったのでした。
『確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。
どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。
50:18 やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、
50:19 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
50:20 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善(ぜん)に変え、多くの民の命を救うた
めに、今日のようにしてくださったのです。
「ヘブライ人」としての生活
そのようにしてイスラエルの人たちのエジプトでの生活が始まりました。
エジプト人には、他にも飢饉を逃れて他国から流入した人たちが大勢いました。そうした人々はみな「ヘブライ人」と呼ばれました。「ヘブライ人」、その意味は「よそ者」です。エジプト人は彼らをそう呼んで、こうした人たちを見下していったのです。
このエジプトでの生活は430年続いたと聖書に書かれています。この430年の生活がどのようなものであったのかということですが、ナイル川の河口・デルタ地帯であったことで、水と食料に恵まれていたのです。パレスチナに比べれば、生活の面では恵まれた環境でした。しかし強い日差しの中での労働を強いられました。特に、厳しいエジプト人の監視の下での備蓄倉庫の建設の記録が残されています。あくまでも奴隷としての過酷なエジプトでの生活でした。それにも拘らず、イスラエルの人たちはエジプトの国中に溢れていったと記されています。
そして時代が進み、ヨセフを知らない新しい王が出て、国を支配するようになったと、出エジプト記のはじめに書かれています。やがて王は「ヘブライ人」が増え広がることに恐れを抱くようになりました。
不思議なことですが、良いと思われた時代、幸せであった時代の後に、思いもよらぬ困難な時代が巡って来るものです。
今朝は「神はそれを善(よ)きに変(か)え」というタイトルですが、初めに申しましたように「それ」とはヨセフの兄たちがしてしまった「悪だくみ」のことです。許しがたい行為でした。
しかし聖書の神の本質は「憐れみ」であり「恵み」であります。神は恵みをもってすべての人に伴ってくださいます。神はヨセフのみを保護されるのではなく、兄たちを含めて一族を保護していかれました。
ヨセフの生涯を読みながら、人間は神の前に、他と取り換えることのできない「個」(一人)として造られているという厳かな事実を知らされます。末っ子ヨセフの個性について、兄たちはそうした理解を持つことができなかったようです。兄弟たちに限らず、誰にとっても難しいことでもあるのでしょう。
人間はお互いに他とは違った「個」として造られ、それぞれの違いを持ったままで、与えられた時に、与えられた場所ともいうべき「自分の人生」を耕すのです。
兄たちはエジプトでの生活によって、自分たちの犯した罪に改めて恐れを持ちました。やがてその罪から解放されたいとの思いに至りました。そして兄たちは新しい人間として変えられていきました。ヨセフも、心から兄たちを赦す思いに至ったのでした。
招詞:申命記7章7~8節
7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
イスラエルの民は、いつの時代にあっても、決して豊かな平安の中で歩んでいたのではないのです。神はむしろ逆境の中にあるイスラエルを助け、「ご自分の民」として用いていかれました。
父ヤコブの背後には神がおられました。エジプトに売られたヨセフの背後にも神はおられました。その神は、後になって祝福のしるしとしてのキリストを与え、私たちを「神の子」としてくださいました。
たとえ、私たちの目に「神の善き思いのしるし」がみえなくとも、また、今の私たちに「祝福のしるし」が無いように思えても、さらには、たとえ私たちが持つ「罪の性質」に深く悩んでいても、イエス・キリストによって私たちは既に「神の子」とされています。
若い世代の方々は特に、今与えられている場所で、それぞれの人生を耕していきましょう。それが神の前で実(みの)りをいただく源泉となるのです。命のある限り、神の与える実りを、忍耐をもって待ち望み、受け取っていきましょう。
【祈り】