「与えられた自由を互いのために」 9月第二主日礼拝 宣教 2020年9月13日
ガラテヤの信徒への手紙 5章2節〜15節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も、皆さんとご一緒に礼拝堂で、またインターネットを通して、礼拝をおささげできる幸いを喜び、この恵みを与えてくださる神様に感謝いたします。
先週は、恐れていた台風10号の大被害からも守られました。ここ数日は雨も降り、暑さも和らいでいて感謝です。しかし、地球のいたるところでは苦しみや痛みや悲しみ、絶望を感じてしまうようなことが起こっています。アメリカ西海岸も北のワシントン州から南のカリフォルニア州など、広大な地域で山火事が続いていて、日本での大型台風もそうですが、これらはすべて地球温暖化が原因とされています。コロナもなかなか収束しません。
そういう中で2020年も後半となり、秋となり、そして冬を迎え、インフルエンザの時期を迎えます。心を尽くして神様に祈るべきことがたくさんあります。教会の家族の中にも病と戦っておられる方や手術を控えておられる方、様々な困難と向き合っておられる方がおられます。皆さんの中にも、それぞれ人生の課題や悩みを抱えておられる方々がおられると思いますが、希望をイエス様に抱き、主に信頼してまいりましょう。必ず主が助けてくださいます。
今朝も神様のみ言葉をご一緒に聴いてゆきたいと思います。今回は、ガラテヤの信徒への手紙5章2節から15節をテキストに、「与えられた自由を互いのために」という主題で、イエス・キリストを通して神様から与えられた「自由」を誰のために用いることが神様の御心かということをご一緒に考え、聖書からその答えを得てゆきたいと願っています。
さて、今朝の宣教は、先週の宣教とつながっていますので、少し振り返りながらお話を進めてゆきたいと思いますが、先週は4章21節から5章1節までを聴きました。そしてそこに記されている2つの重要な言葉、「自由」と「奴隷」という言葉に注目しました。特に5章1節の「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」というパウロ先生の言葉の真意を聴きました。
今朝は、今回の箇所をできるだけ分かりやすくお話ししたいと思ったので、スクリーンに出るような写真を何枚か撮って見ましたので、ご覧いただきたいと思います。
パウロ先生は、ガラテヤの異邦人クリスチャンたち、そして今日を生かされているわたしたちに対して、「あなたがたは、イエス・キリストを救い主と信じるまでは、偶像礼拝、欲、怒り、不和、妬みなどの罪の奴隷となってつながれていて、自分の力や努力だけではこの罪から自由になること、救われることはできなかった。しかし、イエス・キリストを救い主と信じる信仰が神様から与えられた。それがこの「鍵」です。この鍵は、神様が与えてくださった信仰です。わたしたちが作ったものではなく、神様が憐れんで与えてくださった恵みです。
イエス様がわたしを罪の奴隷から解放してくださるために、わたしの身代わりとなって十字架に架かってくださり、贖いの死を遂げてくださり、その血潮によって罪を洗い清めてくださった。そしてこの救い主を三日目に死より神様が甦らせてくださり、死に勝利し、永遠の命への道を開いてくださった。わたしの罪はイエス様によって贖われ、神様に赦されていると信じる信仰・鍵によって、わたしたちは奴隷の身分から解放され、自由を得ているのです。救い主イエス・キリストの犠牲によって、わたしたちは罪から解放され、赦し、愛、自由、平安、希望、恵みが与えられ、救われているのです。ですから、「奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」とパウロ先生は語調を強く言うのです。
パウロ先生は、「この素晴らしい福音を聞いて、イエス様を救い主と信じる者は誰でももれなく救われるのです。神様の愛と憐れみによって救われているのです。信じるだけで良いんです」と励ますのです。しかし、ユダヤ教の影響を強く受けたユダヤ系クリスチャンたちから、「いや、イエス様を救い主と信じることだけでなく、モーセの律法を守る必要がある」という間違った教えが吹き込まれてしまいます。その言葉を鵜呑みにしたガラテヤのクリスチャンたちは、異邦人であるにも関わらず、律法と無縁であったにも関わらず、イエス様を信じること プラス モーセの律法を守ることによって救いを完成しようとしたのです。それがユダヤ教の「割礼を受ける」ということでした。割礼を受けるということは、神様の憐れみを受け、イエス様の十字架の死と復活によって自由にされた者が、今度は律法の奴隷になってしまう、人の思いと行いの奴隷になってしまうとパウロ先生は大きな間違いを指摘するのです。
5章の2節の後半にこのようにあります。「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」と。また3節では、「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そう言う人は律法全体を行う義務があるのです」と。つまり613もある律法の奴隷になるということ、再び奴隷生活に戻るということです。与えられた信仰という鍵をどこかへ捨ててしまい、イエス様と関係がなくなってしまうということです。
4節にこのようにあります。「律法によって義とされようとするなら、あなたがたは誰であろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みを失います」と。パウロ先生は声を大にして訴えます。「自分の力で、自分の行いで、自分の努力で神様に対して義とされようと考えるならば、あなたがたはイエス様と関わり合いがなくなり、イエス様の十字架と復活を通していただいた罪の赦し、救い、信仰、平安、希望などすべてを失いますよ」と。
しかし10節でこうも言います。「しかしまだ遅くない。まだ大丈夫。イエス様からいただいた信仰にしっかり踏み留まり、イエス様につながり続けなさい。」、「あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています」と。もう一度、前の写真をご覧ください。わたしたちはイエス様を救い主と信じる信仰によって罪赦され、救われ、自由を得ているのです。イエス様を通して神様の愛、平安、希望を恵みとして受けているのです。
ただ、神様の愛・憐れみを信じて、救い主イエス様を信じ、イエス様に聴き従ってゆけば良いのです。この恵みのうちに招かれているのですから、素直に感謝して、この恵みのうちに生かされ続ければ良いのです。この恵みのうちに生かされ、傷ついた心が癒され、疲れが癒され、心が回復してゆく時、わたしたちは初めて気付かされるのです。「今までは自分のために、大切な家族のために生きてきた。自分の力や努力で幸せになろうと頑張ってきた。でも、イエス様を通してやっと分かった。わたしが罪から自由にされたのは、自分のために生きる者から他者のために生きる者となるためであった」ということを。
13節と14節にこのようにあります。「兄弟姉妹たち、あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」と。わたしたちがイエス様によって救われ、自由が与えられているのは、隣人のために生きるためです。何にもしばられないで、自ら進んで隣人を愛し、隣人に仕えてゆくためです。隣人には家族や友人・知人も含まれます。同級生や同僚や趣味やサークルの仲間も含まれます。日々の生活の中で出会ってゆく人たちも含まれます。そのような人たちを愛するか、愛さないか、その自由も与えられています。わたしたちに大切なのは、この自由を与えてくださった神様、イエス様はわたしたちにどのように生きて欲しいと願っておられるのかということです。
15節をご覧ください。律法や法律、習慣や伝統、校則や社会のルールを守ることに囚われている人、また自分の頑張りようで幸せをつかもうとすると、周りの人のことが気になり出します。周りの人たちのひそひそ話に耳を立ててしまいます。愚かな背比べや競争や裁き合いが始まります。パウロ先生は、「互いにかみ合い、共食いすることになり、互いを滅ぼすことなる。だから注意しなさい」と忠告をしてくれます。つまり自分の知恵や努力や行いで幸せを得ようとすると、どうしても人間関係に摩擦が生じ、ストレスで心が一杯になり、苦しみや悩み、怒りや憎しみが生じます。それは肉の思いに囚われ、奴隷になることと同じことです。
しかし、神様の約束の言葉を信じ、神様の愛だけに寄りすがる人、イエス様だけを見上げて、イエス様を救い主と信じて従う人には、神様の愛がさらに豊かに注がれ、心に喜びや平和、希望、生きる力が与えられます。肉の思い、罪の奴隷からわたしたちを救い出すためにイエス様はわたしたちの身代わりとなって十字架に架かって贖いの死を遂げてくださいました。イエス様の流された血潮とささげてくださった命によって、わたしたちの罪は洗い清められ、救いが与えられ、自由が与えられています。ただイエス様を救い主と信じるだけで、その愛を受けるだけでわたしたちは救われ、自由にされているのです。主イエス・キリストを通して神様から与えられた自由を、自分のためではなく、隣人を愛するために、互いに愛し合い、仕え合うために用いてゆく時、ささげてゆく時、神様はさらに祝福してくださり、聖霊の実を結ばせてくださいます。
最後にもう一度申します。イエス様を通して与えられている自由を自分のためではなく、隣人を愛するために、仕えるために用い、ささげましょう。わたしたちの救い、喜び、平安、希望はイエス様にあります。コロナや自然災害や病気や様々なことで不安や恐れを抱くようなことがあっても、イエス様に希望を持ち続け、イエス様につながり続けましょう。