「霊の導きに従って歩む中で」 9月第四主日礼拝 宣教 2020年9月27日
ガラテヤの信徒への手紙 5章13節〜26節 牧師 河野信一郎
おはようございます。9月も最後の主日となりました。今朝も、礼拝堂で、またインターネットを通して、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを得ていることを神様に感謝いたします。今日は、この朝の礼拝と夕べの礼拝をおささげできる日です。夕方5時スタートの夕礼拝では裵讃植宣教師がメッセージをしてくださいます。出席いただきたいのは山々ですが、出席できなくてもライブ配信をぜひご視聴いただければと思います。
さて早いもので、今週木曜日から10月に入りますが、3月末から休止されていた教会学校が約半年ぶりに次の日曜日の4日の朝から再開されます。通常45分の時間を30分に短縮して、聖書の学びと分かち合いをいたします。教会にいらっしゃることができる方は教会学校から日曜日を過ごしていただき、まだまだ出席が叶わない方々は、たとえ出席できなくても、主に希望を抱きつつ、教会学校の時間が恵み豊かな時となりますようにお祈りいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
2月から続くコロナ禍にあって、様々なご事情で教会に戻ることが叶わず、もどかしさや寂しさ、孤独感を味わっておられる方々が多くおられます。このカメラの向こう側におられると思いますが、どうぞサタンの誘惑に負けて信仰生活・教会生活を諦めることなく、礼拝ライブ配信、ビデオを通して、神様の愛に、イエス様に、そして教会につながり続けていただきたいと心から願いつつ、お祈りしています。決して内向きにならずに、心を主イエス様に開いて、主の伴いとお守りと祝福を祈り求めてください。イエス・キリストを通して神様が与えてくださった信仰という恵みに踏みとどまってください。今、本当に辛く、悲しく、苦しい時期であると思います。もう諦めて手放す方が楽だと思うかもしれません。しかし、イエス様を救い主と信じる「信仰」が、神様の祝福を受ける鍵です。この信仰という恵みを決して捨てることなく、イエス様に信頼して、イエス様と歩んでください。主を慕い求めてください。そのように主を求める人に、主イエス様の霊が、ご聖霊がいつも共にあります。
さて、今朝もご一緒に神様のみ言葉を聴いてゆきたいと思います。今回の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙5章15節から26節です。「霊の導きに従って歩む中で」という主題で、神様の霊であり、イエス様の霊であるご聖霊の導きに従って歩む中で、わたしたちは初めて神様の御心、御旨に沿って生きることができる幸いをいただけるということを共に聴いてゆきたいと思います。
しかし、その前に、前回の宣教を少しだけ振り返りたいと思います。前回の宣教は5章1節から15節から聴きましたが、その中で最も重要な箇所は、5章13節と14節でした。このようにあります。「兄弟(姉妹)たち、あなたがたは、自由を得るために(キリストによって)召し出されたのです。(つまり、救われたのです。)ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、(神からいただく)愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」とあります。この箇所に、わたしたちの存在の意義、理由、生きる目的が明記されています。
わたしたちがイエス様によって救われ、罪と死から解放されて自由が与えられているのは、自分のためでも、何か他の事柄のためでもなく、わたしたちの隣人を愛し、隣人を祝福するために、隣人の幸いのためですと聖書は語ります。今まで縛られてきたものに縛られないで、自らの意思で、自ら進んで隣人を愛し仕えてゆくために、あなたは、わたしは、わたしたちは主イエス様によって罪赦され、救われ、生かされているということを前回聴きました。
「隣人」というのは、家族や友人・知人、同級生や同僚や趣味やサークルの仲間、日々の生活の中で出会ってゆく人たちです。また、自分を愛するように隣人を愛するか、愛さないかという自由、選択も、わたしたちに同時に与えられていることを聴きました。わたしたちが常に大切にすべきこと、それは大きな代償をもってこの自由を与えてくださった神様、イエス様は、わたしたち一人ひとりにどのように生きて欲しいと願っておられるのかということを考えること、聖書に求めること、そして祈りと導きの中で示されたことを愛をもって誠実になしてゆくこと、それが大切であるというチャレンジを前回受けました。
イエス様は、わたしたちを自由にするためにご自分の命を十字架上でささげ、与えてくださいました。この愛を信じて、感謝して受けた時、わたしたちは同時に今までしがみついていたものをすべて明け渡し、すべてを主にお委ねしました。人生の主導権は、私たちから神様に、戻るべき方に戻りました。イエス様を信じるとは、そういうことなのです。聖書に記されている「信仰」とは、イエス・キリストを救い主と信じる者の人生を神様が取扱い、神の霊であるご聖霊が導き、主の御用のために神様が用いるということを信じるということです。
使徒パウロは、わたしが生きるのではなく、神が、キリストが、ご聖霊がわたしの内に生きて働いてくださると信じています。パウロ先生は、ガラテヤという地方、地域に生きるクリスチャンたち、その多くは異邦人でありましたが、彼ら、彼女らに、「ユダヤ教の律法につながれて不自由に生きるのではなく、イエス・キリストによってすべてから自由にされ、主から受ける愛によって互いに仕えて生きなさい、それが神様の御心、願いです」と手紙を書き送ります。それがイエス・キリストにつながるということであり、イエス・キリストを救い主と信じることであり、神様の御心を全うすることであり、キリストの「自由」が互いに愛し合い、仕え合って生きる重要なプラットホームであると教えるのです。
このパウロ先生が5章16節でこのように書き送ります。どうぞご覧ください。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と。つまり、「神様がわたしたちの心のうちに与え、わたしたちのうちに内住してくださるご聖霊の力強い導きに従って歩みなさい。そうすれば、自分の欲のためだけに生き、自分の心を満たすためだけに生きることは避け、隣人のために生き、隣人の心を神様の愛で満たすように生きる者とされる」ということです。もう一つ加えて言うならば、神様の霊・ご聖霊がわたしたちの心に隣人を愛する真実な愛を与えるということです。
17節にこのようにあります。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」とあります。これはどういうことでしょうか。簡単に言いますと、人間の思い・望むことと神様の思い・望むことは水と油のような関係で、相交わらない、いつも衝突してしまい、一致がない。神様との平和がない、つまり心に平安がないということです。
しかし、次の18節です。「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にいません。」とあります。「しかし、あなたが神様に、ご聖霊に導かれて神様の愛のうちに生きるならば、人間の欲望や有りとあらゆるしがらみから、人間の律法から解放されて生きることができる」とパウロ先生は明確に示し、神の霊、ご聖霊に導かれて生きなさいとわたしたちを励ますのです。あなたはどちらの力に属しますか。肉の力ですか、それとも霊の力ですか。自分の思い・欲望に従って生きますか、それとも神様の思いに従って生きますか。どちらに属するかを決めるのはあなたの自由な意思にあって、あなたが決めることができますとまでパウロ先生は言っていると思います。
しかし、その決めた結果に大きな違いがあり、大きな代償があるとパウロ先生は19節から21節で説明していますので、まず19節から21節の前半まで読みたいと思います。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」とあります。肉の業が15個あげられています。これだけが肉の業ではありませんが、ガラテヤ地方に生きる人々の中に見られる代表的なものをパウロ先生はあげ、これらを「罪」としています。
この15個の罪は4つに分類することができます。姦淫とわいせつと好色は、性的罪です。偶像礼拝と魔術は宗教的罪です。敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみは社会的罪、人間関係の中での罪です。そして、泥酔と酒宴、そのたぐいのものとは飲酒に関する罪です。これらの罪、わたしたちが犯す罪は、交わり、信頼関係、一致を壊すだけでなく、神様との関係を壊すものです。また教会を壊すものでもあります。
ガラテヤ地方の教会は、キリストを信じる信仰だけによる救いか、それともキリストplusモーセの律法を守る行いによる救いかということで、キリストオンリー派か、律法派に属するかという派閥問題が起こっていて、教会の交わり、聖なる一致が台無しになる、破壊される崖っぷちにありました。そういう教会の危機的状態の中で、パウロ先生は次のことをはっきりと示すのです。21節の後半です。「以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなこと(つまり肉の業)を行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」と。
ですから、「イエス様を信じて、イエス様にだけつながりなさい。神様がキリストの代わりに与えてくださったご聖霊に従って生きなさい」とパウロ先生はガラテヤ地方に生きるクリスチャンたちを、今日を生きる、いえ、恵みのうちに今日生かされているわたしたちを励ますのです。
24節と25節に、イエス様を信じ従う者、クリスチャンとはどう言う人であるかが記されています。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きるなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」とあります。キリスト・イエス様を信じる者は、自分を愛し、自分の思いのままに生きるのではなく、神様の愛に生かされ、神様の霊に従って生きる者です。
クリスチャンに、時には自分を愛し、時には神を愛すると言うハイブリッドな人はいません。自分の都合の悪い時だけ、必要な時だけ神様により頼み、それ以外は自分の生きたいように生きる人、それはイエス様に従う者ではありません。しかし、わたしたちはハイブリッドな信仰生活を送っているのではないでしょうか。わたしたちには、そう言う弱さがあると思います。そうではないでしょうか。しかし、それでもそのようなわたしたちを神様は、イエス様は愛してくださり、神様の愛のうちに生きなさいと招いてくださるのです。
神様が求めているのは、隣人を愛する人、互いに愛し合い、仕え合う人たちです。26節に記されているような、自分にうぬぼれ、隣人と挑みあったり、ねたみ合ったりする人ではなく、隣人を愛し、隣人のために生きる、仕える人です。その人が誠に神様を愛し、キリストに生きる人、ご聖霊に従う人です。わたしたちは御心にかなった者でしょうか。今は御心にかなった生き方ができていなくても、諦めずにイエス様につながり続けましょう。イエス様はわたしたちを諦めません。つながり続けてくださります。このイエス様につながり続ける時に、わたしたちは初めて、自分の力ではなく、神様の愛の力で、霊の実を結ぶことができるようになります。イエス様を信じ、イエス様につながり、聖霊の導きに従って歩んでまいりましょう。
10月は、9つの霊の実、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」について聖書に聴き、共に前進してまいります。