霊の実・喜び

「霊の実・喜び 神の国と神の義を求めよ」10月第二主日礼拝 宣教 2020年10月11日

 ガラテヤの信徒への手紙 5章22節〜23節 

 マタイによる福音書 6章25節〜34節     牧師 河野信一郎

おはようございます。冷たい雨が降り注ぎ、朝晩だいぶ肌寒くなってまいりましたが、今朝も素晴らしい命が与えられ、皆さんとこの礼拝堂で、またインターネットを介してオンラインで神様に礼拝をおささげできること、その幸いを与えてくださる神様に感謝いたします。

東京は三日連続でコロナ新規感染者数が200名をゆうに超えています。3週間前の4連休の移動が数字として表れているのかもしれません。いつになったらオンラインで礼拝をささげておられる皆さんと礼拝が共にできるか、はたして今年中は無理なのかなぁと思ったりしてしまいますが、礼拝を共にささげることよりも、お一人一人の健康と命が大切ですので、最善策と再会の時を準備くださっている主に信頼しつつ、祈りながら待ちたいと思います。オンラインの皆さんもどうぞ希望をもって祈り続けてお待ちください。神様の時を待ちましょう。

さて、2週前からお祈りいただいておりますI姉妹の腰の手術は金曜日の午後に無事終了し、今は病院のベッドで安静にされています。お祈りをありがとうございます。昨日のI兄弟からのメールではまだ強い痛みがあるとのことです。痛みが和らいだらリハビリが始まります。幼い二人のお子さんをご実家に預けての入院・手術・リハビリですので、今後の回復がスピード良く進み、すべてが守られ、健康になって家族の元へ戻れますようお祈りください。

もう一つご報告ですが、10月の執事会が昨日の朝にオンラインで開かれ、11月のプログラムのみならず、12月のクリスマス、そして年末年始のプログラムについても協議いたしました。今年のクリスマスは、残念ながらクリスマス祝会は見送られましたが、みんなで分担してクリスマスの飾り付けをして、救い主の御降誕をお祝いするクリスマス礼拝とイブ礼拝は一緒におささげします。もちろんオンラインでも配信いたします。また、2021年の元旦礼拝も、新しい年の最初の主日礼拝も新年礼拝としておささげします。神様への感謝と喜び、信頼と希望をもってご一緒に準備を進めてゆき、イエス様の御降誕を、そして新しい年を迎える恵みを喜び祝い、感謝の礼拝を共におささげしましょう。その他のクリスマスと年末年始のプログラムに関しましては、来週発行の月報10月号にてご確認ください。お祈りください。

さて、先週から今年度の年間標語に掲げています「霊の実を結ぶ教会」とされてゆくというテーマを年間聖句のガラテヤ書5章22節と23節からシリーズで聴いています。今朝は「霊の実・喜び 神の国と神の義を求めよ」という主題で、「喜び」について聴きますが、使徒パウロは、また他の使徒たちはそれぞれの手紙の中で「喜び」について何と書き記しているのか、そして主イエス様は何と教えておられるのかをご一緒に聴いてまいりたいと思います。

まずペトロは、迫害を逃れて異国の地に離散しているクリスチャンたちを励ます手紙の中で、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、いま見えなくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」と第一ペトロ1章8節9節で書き記し、溢れんばかりの喜びは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰の実りであると言っています。

ヤコブも国外に散らされていたユダヤ人クリスチャンを励ますために、「わたしの兄弟姉妹たち、いろいろな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」とヤコブの手紙1章2節で書いています。試練に遭うことは辛く悲しいことであるけれども、主にあって「喜ぶ」ことを選び取りなさい。そうすることで信仰の成長が神様から与えられると励ましています。

最後にヨハネですが、今のトルコ共和国に位置するエフェソを中心とした小アジアの諸教会宛に手紙を送った理由を「わたしたちの喜びが(わたしたちの中で)満ち溢れるようになるためです」と第一ヨハネ1章4節で言っています。厳しい迫害を逃れ、異国の地で身を潜めて暮らすクリスチャンたちに対して、「主イエス・キリストにつながることの重要さ、つながり続けることで主から受ける大きな喜び」が困難な時代を生き抜くために重要であると分かち合い、励ましています。

さてパウロ先生がこの手紙をガラテヤの信徒たちに書き送った大きな理由は、ガラテヤの教会内に神学的な論争が起こり、その結果、教会が分裂し、傷つく人たちが増え、教会内で互いに愛し合えない、互いの存在を喜び合えないという痛みが生じていたからです。キリストのからだである教会にとって、こんなにも悲しいことはありません。

先週もお話ししましたが、どのような論争であったかを手短にお話しします。使徒パウロは、ガラテヤ地方の異邦人たちに「イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、あなたがたは神様の憐れみのうちに義とされ、完全に救われる」と宣べ伝えましたが、エルサレムから来たユダヤ系クリスチャンたちはユダヤ教の影響を強く受けていましたから、「いやいや、イエス様を救い主と信じるだけでは不十分だよ。割礼を受けてモーセの律法を守らなければ救われない」と「行いによる救い」を教えました。その結果、信仰のみというパウロ先生の側に付く人たちと、律法も同時に守ろうという人たちに付く人たち、そしてどちらに付いて良いか分からず途方にくれていた人たちが起こり、この混乱している人たちを自分たちの側へ引き込もうとする争いが起こってしまい、その結果、多数の人たちが傷つき、苦しみ、教会内で互いに愛し合うこと、喜び合うことができなくなってしまったのです。

そういう傷ついたガラテヤの教会のクリスチャンたちに対して、「喜び」という霊の実を結びなさいとパウロ先生は励まし、今日を生きるわたしたちをも励ますのです。なぜでしょうか。それは、時代は違えど、わたしたちも日々の生活の中で喜ぶということに困難さを覚え、人間関係に起こる摩擦、フリクションによって傷つくことが多々あるからです。それでは、喜ぶことができないとは、どういうことでしょうか。それは、感謝できない、何かを受け入れられない、何か不満がある、怒りがある、恐れがある、迷いがある、思い悩みがある、自分の思い通りにならない、などなど。数え切れないほどあると思います。

さて、ヤコブの手紙の中の言葉でも少し触れたのですが、「喜び」ということについて学びを進めてゆく中で覚えたいことが一つあります。それは、「喜び」というのは、聖書に記されているように9つある「霊の実」の一つではありますが、喜びとはわたしたちの心の態度であり、選択できる感情だということです。つまり喜びは人から押し付けられたり、押し売りされるものではなく、置かれている状況に関わらず、喜ぶということをわたしたちは自分の意思で選び取ることができる、そういう実であるということを覚えたいと思います。

今月のオープニング賛美を一つの例えにしたいと思います。10月は「あなたがすべて」という夕礼拝で賛美している現代の賛美曲、日本人が作詞作曲した賛美を朝の礼拝のオープニング曲としましたが、皆さんの中には、「今どきの歌謡曲のように聞こえる」、「歌詞が斬新すぎて賛美歌に聞こえない」、「歌いにくい」とお感じになられる方、戸惑いがある方もおられると思いますし、正直あまり喜べない、好きではないとお感じになられている方もおられると思います。これが原因で教会内に不和が生じてしまうと本当に身も蓋もないのですが、10月の終わり頃にはこの賛美に対する親しみが皆さんの心に湧き上がってこれば良いなぁと願っています。何故かというと、今夜もささげられる夕礼拝では、この賛美を喜んで歌い、感謝を主におささげしているからです。しかし、それを喜ぶか、喜ばないかは皆さんの意思なのです。絶対に喜ばなければならないということでもなく、唯一、感謝が重要なのです。ある方はこの新しい賛美をご自宅で何度も練習してこの礼拝に臨んでおられます。喜びという霊の実を結ぶ時、神様は敢えてわたしたちの心・意思を大切にしてくださり、わたしたちが感謝をもって喜ぶということを選び取ることを待っていてくださいます。感謝です。

さて、日々の歩みの中で、喜びたいと思っても喜べない、感謝できない、いつも思い悩んでいる、イライラしているということがわたしたちにはあると思います。それなのに普段は人当たり良い笑顔を振りまき、いかにも人生に問題や課題がないような、幸せそうな振りをしてしまうことがあります。でも、心の中は思い悩みでいっぱい。わたしもその内の一人なのですが、そういうことを考えている中で示されたのは、マタイによる福音書6章33節に記されているイエス様の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えられて与えられる」という言葉です。

今朝は6章の25節から34節を読んでいただきました。この箇所は、5章から7章に続く主イエス様の「山上の説教」の中で群衆に語られた言葉です。この大勢の群衆はガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から集まってきた人たちであったと4章25節に記されていますが、当時のパレスチナの地図を見ますとイスラエル全土から群衆が集まってきて、イエス様の説教に耳を傾けたということがよく分かります。わたしたちも今朝ご一緒に聴いてゆきたいと思います。

イエス様はこの説教の中で様々なことを教えてくださいましたが、25節から34節までは「思い悩むな」ということ、そして思い悩みからの解放の唯一の方法を教えてくださいます。まず25節から30節でお話しされたことですが、その要約を31節と32節で語っておられますので、そこだけを読みたいと思います。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と言っておられます。衣食住のことで悩むなということです。「思い悩む」というギリシャ語を見ますと「メリムナテ」という言葉が用いられていますが、これは他に「取り乱す」とか、「心がバラバラになる」という意味があります。本来のあるべき姿を見失って生きてしまうという事です。

もう一つ面白いと思ったのは、「それらはみな、異邦人が切に求めているものだ」という言葉です。ここでイエス様がいう「異邦人」とはどのような人でしょうか。この箇所から少し考えて見ましょう。ここでイエス様がいう「異邦人」とは、自分の衣食住の事しか眼中にない人。自分の体、命、生活のことしか考えない人です。しかし、その結果として思い悩む事が絶え間無い人、感謝できない、喜べない、満足できない人。自分の命を延ばそうと頑張るけれども思い通りにならないで嘆き苦しんでいる人。わたしたちの必要をすべてご存じな「天の父」、つまり神様の存在を知らない、あるいは認めないで、自分の欲に生きる人です。わたしたちの中に、そういう人はいないでしょうか。幸せの仮面をつけ、いつも幸せを装っている。でも、心の中は思い煩いで満ち、ストレスが溜まり、肥溜めの状態になっている。

しかしそのような心の状態のわたしたちに対して、主イエスは、33節で「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と愛の言葉を与えてくださいます。「神の国」というのは天国のことだけではなく、「天におられるお父さん、あなたの必要をすべてご存知な神様を信じなさい」、そして自分の知恵と力に頼らないで、神様に日々委ねて生きてゆくこと、信頼してゆく信仰を求めなさいということ、そのように求めて良い、神様の甘えて良いという招きです。

「神の義」とはイエス様そのものであり、イエス様の十字架での贖いの死とご復活によって神様のみ前に義とされ、恵みによって神の子とされていることを感謝し、イエス様につながり続ける信仰をさらに求めることです。神様に愛され、イエス様によって罪赦され、救いがわたしたち一人一人に今朝も与えられている。それが「神の義」であり、神様の愛であり、恵みであり、わたしたちの喜びの源です。明日のことは主にお委ねし、今日という日に生かされていることを感謝し、喜び、この喜びを分かち合う者と変えられてゆきましょう。