「霊の実・親切 神の優しさを分け合う」 11月第二主日礼拝宣教 2020年11月8日
ガラテヤの信徒への手紙 5章22節〜23節
マタイによる福音書 7章12節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげできるこのような素晴らしい機会が与えられています。この恵みをお与えくださる神様に感謝をささげ、心から誉め讃えます。
先週は、「寛容・忍耐強さ」について宣教をさせていただきましたが、皆さんの1週間は忍耐の必要な日々であったでしょうか。この宣教を始める前に、わたしにはインターネットを通して礼拝に出席されている皆さんにお詫びすべきことがあります。先週のライブ配信が不具合により途中で中断してしまいましたことをお詫びいたします。礼拝を心待ちにしてくださっていたと思いますので、お気持ちを害させただけでなく、霊的な消化不良を起こされたのではないかと案じております。教会として祈りをもっていつも最善を尽くしておりますが、こういう予測不可能な事が時折起こります。本当に申し訳なく思います。どうぞ愛と忍耐をもって大久保教会のライブ配信のミニストリーが守られ、祝されますように、お祈りのサポートを今後もいただければ幸いです。途中で途切れてしまった先週の宣教は、再収録されてユーチューブチャンネル上にアップされていますので、お時間のある時にご覧ください。
さて、東京や日本も新規感染者の数が増えており、この冬の感染拡大が恐れられていますが、世界を見渡しても、新型コロナウイルスの脅威が日を追って増加し、耐え忍ぶ月日が必要であります。アメリカでは大統領選の混乱はようやく終わりましたが、色々な意味で分断された国には様々な重要課題が残されていますので、忍耐の月日、年月が必要であると思います。この2020年という年は、人類の寛容さ、忍耐強さが試される特別な年となっています。なかなか出口が見えない真っ暗なトンネルの中を歩んでいるようですが、それでもすべてをご支配され、ご計画がある神様に信頼しつつ、祈りつつ、忍耐してトンネルの出口に向かって前進してゆくことが求められています。わたしたちが忍耐強く前進するためには、イエス・キリストが必要です。神様に信頼して歩む時にわたしたちの絶大な助けとなるのがイエス様であり、ご聖霊です。救い主イエス様から目を離さないで、世の光であるイエス様につながり続けること、光の中で前進することができ、真の平安と忍耐と希望がわたしたちに与えられます。イエス様を信じる信仰が大きな力になります。
今朝もご一緒に、ガラテヤの信徒への手紙の5章22節と23節に記されています9つの霊の実について聖書に聴いてゆきたいと思いますが、今朝は「親切」という霊の実を結ぶことについて聴きます。すでに「愛」、「喜び」、「平和」、「寛容」いう実について主イエス様のみ言葉と使徒たちを通して神様が語られるみ言葉に聴いてまいりましたが、今朝は「神の優しさを分け合う」という主題で「親切」について宣教してゆきたいと思いますが、一つだけはっきりさせておきたいことがありますので、そのことを最初にお話ししたいと思います。
神様のお導きの中で、わたしたちは9つの「霊の実」について聖書に聴いておりますが、この「霊の実」たちは、わたしたち個人のために与えられている訳ではなく、神様と隣人のために、そして教会のために与えられている神様からの賜物であることを心にとどめたいと思います。つまり、この9つの霊の賜物は、神様と隣人に仕えるために、そしてキリストのからだである教会を建て上げるために神様から与えられるものであって、わたしたちがスーパークリスチャンになるための賜物ではないということです。
パウロ先生が手紙を書き送ったガラテヤの教会がどのような状態であったのかはすでにご承知のことと思います。一言で言えば、福音理解の違いによって分裂が教会内に生じ、みんなが悩み苦しみ、みんなが傷つき、キリストの教会、信仰共同体、神様の家族と呼ぶには程遠い、もうバラバラの状態であった訳です。心一つに霊の実を結ぶことができない、教会を建て上げてゆくことが共にできない、つまり教会の使命である主イエス・キリストの十字架と復活を告白し、キリストの福音を宣べ伝えることのできない状態でした。しかし、そのような教会を神様とイエス様は決して諦めない。絶対に見放さない。見捨てることなんてこれっぽちも考えない。そればかりか、主はパウロ先生を用いて、その教会を再生させ、霊の実を結ぶ教会となるように愛を惜しみなく注いでゆかれ、その教会に聖霊を送られるのです。主から賜る霊の賜物はあなたのため、わたしのためではなく、神様と隣人、そして神様の家族である兄弟姉妹たちを愛するために、教会を建て上げてゆくために与えられていることを覚えましょう。
さて、この「親切」という霊の実についてお話ししてゆく中でもう一つ覚えたいことは、この親切という言葉は、他の箇所では「慈愛」、「優しさ」と訳されていることです。パウロ先生がコロサイの信徒たちに書き送った手紙の3章12節(p.371)にこのようにあります。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、哀れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」とあります。ここにある「慈愛」が「親切」と同じギリシャ語です。そういう中で覚えたいのは、「喜び」という霊の実についてお話しした時も触れましたが、この「親切・慈愛」も、先週の「寛容」という実も、そして今後わたしたちが聴いてゆく「柔和」なども、わたしたちが「身につける」霊の実であることです。つまり身に着けるか着けないかをわたしたちは選択できる、わたしたちの自由な意思で選び取ることができる賜物であるということです。心を柔らかくして人に親切にするか、あるいは心を頑なにして不親切になるか、その選び取りはわたしたちに委ねられています。選び取りができる自由は確かに嬉しいことですが、しかしその反面、信仰のチャレンジを常に受けながら歩むことになります。しかし、主イエス様がいつも共にいてくださるのでわたしたちは幸いです。
さて、「親切」という霊の実を結ぶということは、隣人に対する愛の実践です。言葉を変えていうならば、隣人に親切にすることが愛を実践であり、思いやりと配慮をもってその隣人に仕えるということが「親切」という実を結ぶことだということです。ギクシャクした人間関係の中にいると、相手に親切にしたいと思わないのではないでしょうか。とにかく距離を置いて、できる限り関わりを持たない、自分から遠ざかるということを実践するのがわたしたちの弱さです。しかし、神様はわたしたちに「親切」という霊の実を結びなさいと励まし、期待されます。その理由は、わたしたちの交わり、関係性が愛と喜びと平和と寛容で満ちたものとなるためには、お互いに「親切」になることが必要不可欠であるからです。
親切とは「優しさ」とも訳せる言葉であると先ほど申しましたが、この親切・優しさが交わりの中にないと、わたしたちの人間関係、そして日々の生活は「憂い」で満たされてしまいます。しかし、わたしたちが憂いを日々抱え、憂いの中でもがき苦しみながら生きることは神様の御心ではありません。ですから、御子をわたしたちのもとにお遣わしくださいました。「憂」という漢字に「人」という漢字、人偏が寄り添うと「優・優しさ」という漢字になります。人となられてわたしたちのもとに来て、寄り添ってくださったイエス様が神様の愛であり、優しさなのです。
もう一つ驚くことがあります。それはキリストというギリシャ語と親切・優しさというギリシャ語は非常に似ているということです。キリストはCristos・クリストスと書きます。親切はCrh(e)stos・クレストスと書きます。一文字しか違いません。つまり、イエス様と親切・優しさはとっても似ています。ですので、わたしたちが人に対して優しく、親切に生きることがイエス様のように生きることだとも言えるのではないでしょうか。このことを1週間心にとどめつつ歩んでみませんか。そうしたら、わたしたちの人間関係も変わってゆくのではないでしょうか。
神様の愛を、ご自分の優しさをイエス様はどこではっきりとわたしたちに示してくださったでしょうか。そうです。十字架上です。イエス様はその命と引き換えにその愛と優しさを示してくださいました。つまり、わたしたちが人に親切にする、優しさを分け合う時には犠牲が伴うということです。わたしたちの手にある余りある中から少し分け与える、痛くもかゆくもない程度の中から分かち合うというのではなく、自分にとって大切なものを分け合う、与えるということが親切であるということです。憂えている人に寄り添うということは、わたしたちの心だけでなく、与えたら二度と帰ってこない貴重な時間を分け与えるということです。親切にするということは、心の一部を人に分け与えるということでもあると思います。他にも親切に生きる方法はたくさんあると思います。少し考えてみましょう。
優しい人の特徴をいくつか挙げられると思います。一つは人に対して敏感であるということ。パウロ先生は「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい」とフィリピ2章4・5節で言っています。二つ目の特徴は、人を励ますということです。励まし手であるということで、第二コリント13章11節には、「兄弟姉妹たち、励まし合いなさい」とあります。三つ目は、人に対していつも思いやりを持っているということです。ローマ書12章15節に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあります。四つ目は自発的に行動することです。思い立ったら吉日という言葉がありますが、思い立ったらすぐに行動に移すことが親切な人の特徴と言えます。ガラテヤ6章10節にこのようにあります。「今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」とあります。「今、時のある間に、人々に対して善いことを行う」、それが親切という実を結ぶことであると示されます。
さて、最後に親切になる理由についてお話をして終わりたいと思います。なぜ親切という実を結ぶのか。理由は二つです。
一つは、先ほど「優」という漢字を用いて説明しましたように、神様が救い主イエス様を通して最初にわたしたちに優しさを示し、愛を与えてくださったからです。神様ほどわたしたちのニーズに対して敏感である方はおられません。イエス様ほどわたしたちのために祈り、励ましを与えてくださる方はいません。イエス様ほどわたしたちに対して思いやりを持ってくださる方はおられません。神様ほど自発的に、犠牲的に愛と優しさをわたしたちに示し、惜しみなく与えてくださる方は他におられません。エフェソ書2章8節と9節に「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためです」とあります。わたしたちは神様の愛と恵みによって、その愛を、主イエス様を信じる信仰によって救われ、この地上で生かされている間は救われ続けるのです。すべて神様の恵み、賜物なのです。
親切になるべき二つ目の理由がマタイによる福音書7章12節に記されている主イエス様の言葉です。すごく前置きが長くなったようですが、12節をご覧ください。「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とあります。「人から親切にしてもらいたいと願うならば、あなたがたも人に親切にしなさい。互いに親切になりなさい」と聞こえてきます。人から親切にされたくないという人はいないと思います。たまに親切にされたくないと思う人もいるかもしれませんが、その人の心にもイエス様は寄り添われます。誰がその人に寄り添う者として主から遣わされるのでしょうか。主の僕であるわたしたちではないでしょうか。そのために、ご聖霊が神様から派遣され、わたしたちといつも共に行動してくださるのです。
愛の神様は真実なお方ですから、わたしたちが親切になりたいと願い求めるならば、ご聖霊と祝福をもって「親切」という霊の実を結ばせてくださいます。わたしたちがいつも求めるべきこと、それはイエス様のように親切な者として生きることです。そのように主なる神様に求めれば必ず与えられます。親切に生きるチャンスを探し、門をたたきましょう。そうしたら必ず門は開かれ、神様の優しさを分け合うことができるように主が導いてくださいます。