「招かれる者と選ばれる者」 三月第一主日礼拝宣教 2021年3月7日
マタイによる福音書 22章1節〜14節 牧師 河野信一郎
今朝もインターネットを通して皆さんと礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。
緊急事態宣言の解除も21日まで延期になり、それ以上の延長も必要であるとの専門家たちの見識もありますが、様々な方面へのコロナパンデミックによる悪い影響をこれ以上長引かせるわけにはいきませんので、お互いの命と生活のためにさらなる忍耐を重ねてゆきましょう。
早いもので、今年も3月に入りました。2020年度もあと3週間半で終わり、4月から2021年度が始まります。執事会では現在28日の定期総会資料を整える作業を進めています。わたしも今週中に今年度の振り返りと新年度への展望を準備しなければなりませんが、今年度は新型コロナに始まり、新型コロナに終わる、そういう年であり、試練の中で多種多様なチャレンジを受けましたが、二進も三進もいかない中で新しいことが始まり、整えられてゆきました。この礼拝ライブ配信はその最たるものです。4月から始まります新年度は、どのような年度になるでしょうか。とても楽しみです。2021年度は主イエス様のご復活をお祝いするイースター礼拝から始まりますので、主イエス様のご復活の力を受けて、そしてその力に押し出されて新しい年度を共に歩み出してゆきたいと願っています。どうぞお祈りください。
さて、今年の受難節・レントはマタイによる福音書を通して主イエス様の十字架へ歩む姿と言葉に注目しています。来主日14日の朝の礼拝では26章のイエス様と弟子たちとの最後の晩餐の箇所を、夕礼拝では27章のイエス様を裏切ったイスカリオテのユダの箇所を、21日の朝の礼拝では石垣副牧師が26章のゲッセマネの園での祈りの箇所から、受難週が始まる28日の棕櫚の日の礼拝では27章のイエス様が十字架につけられ、死を迎えられる箇所から宣教いたします。それ以外にも先週ご案内しましたようにアメリカのガーデナ・トーレンス南部バプテスト日本語教会に4つのショートメッセージを送り、日本語教会のフェイスブックページで読むことができますので、ぜひ毎週の礼拝への出席と合わせて、そちらも読んでいただけたらと思います。多数の新しい発見、神様の愛の発見があります。
今朝わたしたちに与えられている聖書箇所は、マタイによる福音書22章1節から14節です。主イエス様はガリラヤ地方で宣教された時もそうでしたが、特に十字架への道を歩まれる中で、神の国、天の国についてご自分の弟子たちに、また天国に入りたいと願っている人々にたくさんの譬えを用いて教えられます。天国はどのような所か、その所へどのように導かれ、入ることができるのか、誰が入れるのか、いつ入れるのか、そこに入るまでの間、この地上で何をなして生きてゆくことが神様の御心なのかなどを譬えを用いてお話くださいますが、言葉を変えていうならば、永遠の命を得るために、わたしたちは一体何をしたら良いのかを様々な角度から教えてくださいます。
今回の譬えは、21章28節から始まる天国をテーマにした3つの譬え話シリーズの最後の部分です。この3つの譬え話に共通するのは、父親と息子です。最初の譬えはぶどう園に行って働きなさいと命じる父親に対して、兄と弟の息子たちがどのように応答したのかが注目されています。このお話の最後で、主イエス様は「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(31節)と言って、その理由も話されます。
次の譬えは収穫の時期にぶどう園の主人が息子をぶどう園に送った時に農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と企んで息子をぶどう園の外で殺してしまったという出来事です。このお話の最後で、主イエス様は「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)と興味深いことを言っておられます。
最後の譬え話は、父親である王が息子の王子のために婚宴を催した時の出来事です。このぶどう園に行きなさいと命じる父親、ぶどう園の主人、そして息子のために婚宴を催す王様は、神様を指しています。それでは兄と弟、農夫たち、婚宴に招かれた人々は誰を指しているのでしょうか。今朝は最後の譬え話からその答えを引き出してゆきたいと思いますが、それよりもさらに面白い、このお話の最後で、22章14節になりますが、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と主イエス様がおっしゃる言葉の意味を共に聞いてゆき、この受難節をわたしたちはどのように歩むべきか、神様の御心を尋ね求めてゆきたいと思います。
22章1節に「イエスは、また、たとえを用いて語られた。」とあります。ここに「また」とありますが、これは先ほど申しました21章28節から続いている神の国についてのシリーズの一つであることを示しています。次の2節に「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」とありますが、この王様は神様で、王子はイエス様ということになります。
3節で、「王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった」とあります。婚宴の案内と招待はかなり前からあったのですが、婚宴の当日になると招かれた人々は誰も来なかったというのです。「来ようとしなかった」というギリシャ語を見ますと「喜ばなかった」という意味にも解釈できる言葉です。
4節で、「そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」』、5節と6節には「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」とあります。「無視した」とは、「無関心であった。どうでも良いと考えていた」と訳せます。その国の王子が結婚して祝宴がなされるのに、無関心、どうでもよかったというのです。そして自分たちの仕事や生活を優先します。王様が用意した豪華な食卓にも興味を持たなかったのは、自分たちの方がもっと良いものを食べているという傲りがあったからかもしれません。世界にはそういう大富豪が大勢います。しかし、婚宴に招かれた人々の傲慢さ、頑なさは王様の家来を捕まえて乱暴し、殺してしまうことに発展してしまいます。
さて、ここで王子の婚宴に招かれたけれども、その招きを無視し、さらに使いの者を殺してしまった人々とは誰のことかと申しますと「ユダヤ人たち」です。王子の婚宴とはイエス・キリストを救い主と信じ、豊かな交わりの中へ招かれるということ、それが神の国へ招かれるということです。しかし、ユダヤ人たちは律法を守ることやビジネスを広げることに一生懸命で、神様から遣わされたメシア、キリスト・油注がれた王を喜びませんでした。無関心でした。無視しました。挙げ句の果てには十字架に架けて殺してしまいました。神様から遣わされた家来たちというのは旧約の時代の預言者たちや新約の時代におけるバプテスマのヨハネを指していますが、ユダヤ人たちは神様から遣わされた預言者たちを邪険に扱いました。
そこで、7節ですが、「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」とあります。マタイによる福音書はエルサレムがローマ帝国によって焼き尽くされた西暦70年以降に記されましたので、そういう後に起こった事実を踏まえながらこの7節が書き添えられたのだと考えられています。ユダヤ人たちはイエス・キリストを通して与えられる救い、豊かな神様との永遠の交わりを拒んだが故に人々は滅ぼされ、町は焼き尽くされてしまったというのです。これは主イエス様の再臨の時に同じことが起こります。ですから、わたしたちが婚宴の席に招かれていることを喜び、その招きに答えてゆくことが神様の願いであり、そのために主イエス様は来られ、十字架に架かって死んでくださったことを信じ、感謝し、その恵みの中に生きる者とされてゆきましょう。
8節から読んでゆきます。「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけたものはだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」とあります。婚宴はユダヤ人たちだけでなく、すべての異邦人にも開かれ、わたしたち、最初は「ふさわしくなかった」者たちが招かれ、イエス様との交わり、そして永遠の命と祝福へと招かれていったということです。これは本当に素晴らしいことです。ふさわしいと考えられていた人々が恵みから出され、ふさわしくないと考えられていたわたしたちが神様の愛を受け取れるようになったのです。
しかし、イエス様の譬え話はそこで終わりません。11節から13節を読みましょう。「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう』とイエス様は譬え話を続けています。この部分を読んで、わたしたちの多くは「意味が分からない」と首を傾げるのではないでしょうか。善人も悪人も大通りから集めて来たのは王様の家来ですし、そう命じたのは王様です。「そっちから招いておいて、この厳しい一方的な対応は一体何?」と思ってしまいますが、この婚宴の譬え話は、1節から10節の部分と11節から14節の部分を切り離して聞く必要があるのです。そして婚礼や婚宴の席に集う時にわたしたちが持っている風習や常識というものを一旦横に置かないと分からないのです。
わたしたちが婚礼や婚宴に招かれる時、当たり前にしていることは、その場にふさわしい身形、礼服を自分で準備して、それを着て出席するということです。ですが、イエス様の時代の王族や富豪の婚礼の際には、王や主人がすべての出席者たちの礼服を準備して、出席者は普段着で会場に来て、主催者が準備したふさわしい礼服に着替えて参加するということが当たり前でした。しかし、王様から用意された礼服を着ないで一人の男性が婚宴の場に出てしまったのです。しかし、それだけで手足を縛られ、外の暗闇にほうり出されるのか。あまりにも理不尽ではないかとわたしたちはそう思ってしまいます。
さて、王子のための婚宴に招かれたということは、神の国へ、神様との交わりへ招かれたということであることを思い出しましょう。では、礼服を着てそこに入るのと着ないで入るとはどういうことかということになります。天国に招かれてそこに入り、永遠に神様とイエス様との交わりに入れられる時に最初に必要なのは何でしょうか。それは自分の間違い、神様に背を向けてずっと生きてきた間違いを認め、悔い改めるということです。イエス・キリストを救い主と信じて従うことです。つまり、礼服を着ないでそこに入った人は、悔い改めはあったとしても、イエス様を救い主と信じて従わなかった。あるいは、悔い改めにふさわしい実を結ばなかった、だからそこから出されることになったということです。
14節の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」とは、神様の国へすべての人がイエス様を通して招かれている。しかし、イエス様を信じないで、自分が進みたい道をひたすら歩む人がいる。そのような人は神の国に入れられることは難しいということです。また、イエス様を信じていると言ってもイエス様に日々聴き従っていなければ口先だけの者になります。
では、どのようにしたら天国に入るためにふさわしい礼服を着ることができるのでしょうか。それは古い自分、プライドや偏見や過去を捨て、イエス・キリストを着るということです。何故ならこのイエス様が、神様が用意してくださった御国での礼服であるからです。パウロはローマ13章14節で「主イエス・キリストを身にまといなさい」と励まし、コロサイ3章12〜14節で「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主イエスがあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです」と励まします。主イエス様につながることが神の子と選ばれる恵みなのです。