「弟子たちとの夕食」 三月第二主日礼拝宣教 2021年3月14日
マタイによる福音書 26章17節〜30節 牧師 河野信一郎
おはようございます。昨日は激しくて冷たい雨が新宿の地を打ちつけましたが、今朝は礼拝にふさわしい素晴らしい朝が与えられていることを神様に感謝いたします。オンラインを通して主のみ前にこうして招かれ、ご一緒に礼拝をおささげできて本当に嬉しく、感謝です。
先週木曜日は、東日本大震災から10年を迎えた日でしたが、皆さんはどのような心持ちでその日を、数日間を、あるいは一週間をお過ごしになられたでしょうか。昨夜も教育テレビで10年前の3月11日の大きな地震、壊滅的な津波、そしてその数日後の東京電力福島第一原子力発電所のとんでもない事故で人生が大きく変えられてしまった若者たちにフォーカスした番組が放送され、目と耳が画面に釘付けになりました。様々な痛みや悲しみや後悔や嘆きが渦巻く心で、この10年間を過ごして来られた人々のそれぞれの思いが語られていました。
わたしたち大久保教会の友人であるゴン・ミンさんたちの東北支援プロジェクトもユーチューブで11日に公開されました。またライフラインというテレビ番組で彼のインタビューが今週と来週に紹介され、数日後にはユーチューブでも観ることができるとのことです。メルマガでもご案内いたしますが、ユーチューブで「ポールエム」とカタカナで打ち込んで検索しますと一番上に彼のチャンネルが出てきます。その中の「ザ・ブリッジプロジェクト」という部分に日本・韓国・アメリカの人々が被災地を応援する歌がアップされていますので、ぜひ聴いていただき、同時にチャンネル登録をしていただければ、それが東北支援になります。
さて、昨日3月の定例執事会がオンラインで開かれましたが、そこで28日の棕櫚の日の礼拝と夕礼拝までオンラインのみとし、再び礼拝堂に集まって礼拝をおささげすることを再開するのは4月4日のイースター礼拝、新年度の最初の主日からスタートと決定しました。今朝の報道を見ていますと21日に緊急事態宣言が解除されるようですが、もしされたとしても、28日の2回の礼拝はオンラインのみとなりますので、どうぞご留意ください。毎日新聞の世論調査によりますと、アンケートに回答した人たちの実に57%が緊急事態宣言を再延長すべきという意見を持っているとのことです。しかし新規感染者数は下がるどころか、先週の数よりも増加している状態ですので、そういうことも含めて執事会では判断しました。今月末27日の臨時執事会で再度協議し、28日の朝の礼拝でアナウンスさせていただきたいと思いますが、どうぞ長引くコロナパンデミックが1日も早く収束するようにお祈りください。
さて、わたしたちが今もっと心を傾けなければならないこと、それは受難節・レントの只中にわたしたちは生かされているということです。イエス様の十字架の道に集中する時が神様から与えられているということです。確かに、毎日お仕事や育児や病院通いや身の回りのことでお忙しくされているでしょう。緊急事態宣言の中、ご不自由な生活をずっと強いられてきましたし、様々なことをずっと我慢してきてもう限界かもしれません。自粛疲れでストレスを抱えているかもしれません。あるいはその反対に、今まで出来なかったことを自粛期間中に何か見つけて、いま楽しんでいたり、新しいことにチャレンジしておられるかもしれません。あるいは、コロナ慣れしてしまって、危機意識が緩んでしまっているかもしれません。
しかし、どちらにせよ、わたしたちが今、このように生活を送ることができ、心の中に平安や喜びがあるのは、イエス様がわたしたちの身代わりとなって公然と十字架に架けられ、贖いの死を遂げてくださったからです。わたしたちはイエス様の十字架によって罪赦された者なのです。それによって神の子、家族として迎えられ、恵みの中に生かされているのです。
日本のある牧師がこのようなことを言いました。「わたしたちの救い主イエス・キリスト様が公然と鞭打たれ、十字架を担がされ、人々の嘲弄を受けたのに、その弟子たちが十字架の影に隠れていて本当にいいのか? わたしたちも自分の担うべき十字架を負いながら公然と生き、毅然とした態度で、しかし感謝と喜びをもって『イエスは主なり。主はわたしたちの身代わりとして十字架に死なれ、三日目に甦られた。恵みによって罪赦され、救われている』と告白すべきではないだろうか」と言った言葉がいつもわたしの心の片隅にあります。
イエス様は、ユダヤ教指導者たち、ローマ兵たち、そして群衆、公衆の目の前で公然と十字架に架けられ、死なれ、贖いの死を迎えられました。隠れた場所で苦しみを負われ、死なれたのではない。群衆の目の前で贖いの死を遂げられました。イエス・キリストを救い主と信じ従う者たちは、イエス様と約束をしています。公にイエス様に従い、イエス様を救い主と告白し、キリストの福音、イエス様の十字架と復活の恵みを人々と分かち合うという約束。そのためにわたしたちは救われ、いま生かされていることを忘れてはならないのではないでしょうか。皆さんは、今年の受難節の中で、どのようにお感じになられるでしょうか。
さて、今朝わたしたちに与えられています聖書箇所は、マタイによる福音書26章17節から30節で、イエス様が弟子たちと過越の食事をする箇所です。今日17時からの夕礼拝では、マタイ27章にあるイエス様を裏切ったイスカリオテのユダが裏切ったことを後悔して自らの命を絶ってしまう箇所から主のみ声を聞きます。来週21日の朝の礼拝では、石垣副牧師がマタイ26章30節以降のイエス様のゲッセマネの園での祈りの箇所から宣教をしてくださいます。そして28日の棕櫚の日の礼拝では、27章に記録されている主イエス様の十字架にスポットライトを当てます。どうぞ各礼拝にご出席くださり、ご一緒にみ言葉に聴きましょう。
さて今朝のマタイ福音書26章17節から30節は、十字架に架かる直前のイエス様が弟子たちと最後の食事をする場面ですが、ただ食事をしただけでなく、とっても大切な約束・契約を弟子たちと交わす重要な箇所です。ここからいくつかの恵みを分かち合いたいと思います。まず17節から20節を読みましょう。
「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、『どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか』と言った。イエスは言われた。『都のあの人のところに行ってこう言いなさい。「先生が、『わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする。』と言っています。」』 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた」とあります。
「除酵祭」とは「過越祭」に組み込まれているユダヤ教のお祭りで「種入れぬパンの祭り」とも呼ばれるもので、ユダヤ人がその歴史の中で最も偉大な神の御業と考えている出エジプト、奴隷からの解放を記念してお祝いする祭りです。「過越の食事」とは、奴隷のくびきから解放されたことを喜び祝うお祭りの中で、それぞれの家庭で家族全員が集まって祝う特別な夕食です。その特別な夕食を弟子たちと共にとったということは、イエス様は弟子たちことを大切な「家族」として見ていたということではないでしょうか。
皆さんの命があと1日だと判明した時、最後の食事を誰と一緒にとりたいでしょうか。最後の食事のメニューが何かが重要ではなく、誰と最後の食事を共にするか、それがもっとも重要ではないでしょうか。皆さんは最後の食事を誰と共にしたいでしょうか。家族や家族同様に思っている人たちとではないでしょうか。イエス様はルカ福音書22章に記録されている弟子たちとの最後の食事の際に弟子たちに、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(15節)と言っておられます。地上での最後の食事を他でもない弟子たちとしたいと切に願われるイエス様は、弟子たちを心から愛し、ご自分の大切な家族と思っていたのだと示されます。その主の晩餐式に、イエス様を愛し、イエス様を救い主と信じる者は招かれています。
しかし続く21節から25節には、イエス様が愛している弟子の中にイエス様を裏切ろうと心に決め、その機会を狙っていた人がいると主イエス様はおっしゃいます。21節で、「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたの一人がわたしを裏切ろうとしている』と言われますが、その言葉を聞いた弟子たちの素早いリアクションが22節にあります。「弟子たち非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」とあります。主イエス様の言葉を聞いた弟子たちは非常に心を痛めたとありますが、とても大切な最後の食事の時にそのことを言わなければならなかったイエス様の方が弟子たちよりも心を痛めておられたのではないでしょうか。
たとえイエス様を信じていても、神の家族の一員とされていても、サタンはわたしたちの心の隙間から入り込んできて、イエス様を裏切り、イエス様から離れてゆくように働きかけます。ですから、イエス様から離れないためには、わたしたちの身代わりとなって十字架に架けられたイエス様を見上げることで悔い改めへと導かれ、復活のイエス・キリストに出会って、主と共に日々歩んでゆくしか方法はないのです。イエス様から目を離すと、耳も心も離れてしまいます。ですから、イエス様をしっかり見上げ、その手をしっかり握りしめ、主の声に聞いて行くのです。力む必要はありません。ただ主に委ねて、信頼して従うのです。
さて、主イエス様がなぜ弟子たちとの過越の食事を、地上での最後の夕食を切に願われたのかという理由が26節から28節に記されています。それは弟子たちにこれからイエス様の身に起こる十字架の壮絶な死の意味を教え、神様との新しい契約・約束へと招かれていることを知らせるためでした。先ほど「過越の食事」についてその起源を大まかにお話ししましたが、そもそもなぜ「過越し」という出来事があったのかというと、エジプトの王ファラオの心の頑なさが原因で、エジプトでの奴隷のくびきからイスラエルの民を解放し、救い出すために神様がモーセにお命じになったことに由来します。
主なる神様はファラオの頑なさゆえに、エジプト人の家の長男や動物の初子をすべて取り去ることを決意し、イスラエルの人々とその家々の長男と動物の初子の命を守るために、傷のない小羊を屠り、その血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗っておくように命じました。小羊の血の塗ってある家は、神様がその小羊の犠牲に免じて、災いを過ぎ越してくださいました。ですので、ユダヤ人はそれを記念して毎年「過越祭」を行い、この救いの出来事を自分たちに表された神様の愛と憐れみ、恵みの原点として子孫に伝承しています。
主イエス様が弟子たちをその過越の食事に招いたのは、イエス様がこの小羊として十字架上で犠牲となり、その死によって、イエス様の犠牲に免じて、わたしたち罪人たちの罪を贖い、その罪の代償となってくださることを教えるためでした。26節、「一同が食事をしているとき、イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、(あなたがたの)罪が赦されるように、多くの人たちのために流されるわたしの血、契約の血である』」と言われました。パンはイエス様の十字架上で裂かれた体を表し、杯はイエス様の血潮を表し、このイエス様の贖いの死、神の子の命の犠牲によってあなたがたを救うとイエス様は約束されているのです。
弟子たちがイエス様の言葉の真意を理解したのはもっと後のことでした。イエス様の心をすぐに理解することができないわたしたちですが、そのようなわたしたちを諦めず、見捨てず、わたしたちに信仰を与え、その信仰がサタンの誘惑や攻撃によってなくならないように祈ってくださったのが救い主イエス・キリストです。この救い主が再びこの地上に来られます。その時はいつなのか、わたしたちには分かりません。分かっておられるのは神様だけです。いつ来るか分からない中、ずっと待っていても時間の無駄です。では、主イエス様が再び来られる日までわたしたちは何をして生きてゆけば良いのでしょうか。それは、神様を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合って生きること、ぶどうの実ではなく、御霊の実を結んで生きることです。
ご聖霊の励ましを受けつつ、主イエス様の十字架の死と復活を証しし続けることです。今年の残された受難節の中で、そのことを恵みとして感謝し、心に留めて歩んでまいりましょう。