十字架の下と上で

「十字架の下と上で」 三月第四主日・棕櫚の日礼拝宣教 2021年3月28日

 マタイによる福音書 27章32節〜56節      牧師 河野信一郎

おはようございます。素晴らしい朝と礼拝の機会を与えてくださる神様に感謝いたします。今日は、2020年度最後の日曜日。今年度は新型コロナウイルスに始まり、新型コロナウイルスに終わる、そのような強烈なイメージがありますが、この年度も神様がわたしたちを守り、イエス様がいつも共にいて励ましてくださり、ご聖霊が導いてくださった年であったことを感謝します。「主の導きに従って前進しよう〜霊の実を結ぶ教会〜」という標題を掲げ、ガラテヤの信徒への手紙5章22、23、25節のみ言葉に導かれました。数え切れない程のチャレンジを受け、時には疲れを覚えたり、どうすれば良いかと悩み、右往左往しましたが、オンラインによる礼拝を開始できたことは最大の収穫、恵みであったと感謝しています。また、長い時間をかけてガラテヤの信徒への手紙全体を聴き、9つの霊の実について皆さんと分かち合うことができたのは大きな喜びでした。感染防止と言い訳して必要最低限の牧会しかしなかったことを申し訳なく思います。アフタコロナにどれだけの方々が教会に戻ってきてくださるか、新しく来られるか、また今後どのような展開と活動ができるのか、蓋を開けてみないと本当に分からないというのが正直な思いですが、主が豊かに導き、必要を満たし、活動を広げてくださることに信頼し、先取りの感謝をささげます。主の恵みにいつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する新しい年度をご一緒に歩み出してゆきたいと願っています。

さて、2月17日から過ごしてきました受難節・レントも最後の週、受難週となりました。今日は、イエス様がエルサレムに入場されたことを覚える「棕櫚の日」ですが、この日から一気にイエス様の十字架への道が加速し、今年で言いますと新年度が始まります1日の木曜日の夜にユダに裏切られ、祭司長たちに捕らえられ、弟子たちはイエス様を捨てて逃げ去り、不当な裁判を何度も受け、ペトロには「知らない」と3度も言われ、十字架刑を宣告され、ローマ兵たちから暴力と辱めを受け、2日の金曜日の朝9時頃に十字架に架けられ、6時間も十字架上で苦しまれ、午後3時に息を引き取られて死なれます。これらの出来事のほとんどは、公然と行われ、主は人々の目の前で苦しみを受けられました。何のために、誰のためにイエス様は十字架で死なれたのか。今朝は、イエス様の十字架の下と十字架上で起こっていた事柄にスポットライトを当てて、ご一緒にイエス様の死の意味と目的を探ってゆきます。

 今日の箇所は27章32節から56節で、主イエス様が十字架に架けられる直前から死を迎えられるまでの大事な箇所です。非常に長い箇所で欲張りすぎたかとも思いますが、大切な部分を分かち合わせていただきます。この箇所は大きく3つに分けることができます。1)十字架に架けられる前から架けられた後のイエス様を取り巻く人々の行動、2)イエス様の十字架における出来事と壮絶な死、3)イエス様の死後に起こった出来事と人々のリアクションです。

さて、十字架刑に引き渡される前、イエス様はローマの兵士たちから嘲弄され、つばきかけられ、暴力をふられ、たくさんの侮辱を受けたことが27節から31節に記されています。本当に耐えがたい言葉と実際の暴力を身体に受け、体力は消耗していたと考えられます。

 さて、イエス様が十字架に架けられる直前の出来事が32節から44節に記されていて、イエス様を取り巻く人々が大勢登場します。32節に「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」とあります。キレネという地名は北アフリカの都市名で、現在のリビアとされています。ユダヤ教の祭りである「過越の祭り」を祝いにエルサレムに来ていたとすれば、ユダヤ人であったかもしれません。しかし、ローマ兵は、そのような人にイエス様が担ぐべき十字架を無理やり負わせます。ユダヤ人からすれば十字架は「呪いの木」ですから、十字架を負わされて恥ずかしさや無念さを感じたかもしれませんし、負わせた兵士たちを恨んだかもしれません。しかし、呪い、恥と思っていた出来事がこの後祝福へと変わってゆくのです。さて、シモンに担がせた理由として、暴行を受けたイエス様が弱っていたため、また刑を執行する時間に間に合わせるための二つが考えられます。

 複数の聖書解釈者たちは、シモンが十字架を担がされた事を「たまたま」起こった出来事と捉えていますが、わたしはそうは思いません。すべてのことには神様のお考えとご計画と意味があります。マルコ15章21節を見ますと、「アレキサンドロとルフォスとの父シモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」と記されています。そしてこのルフォスという人物はローマ書16章13節に記されている人と同一人物であると考えられます。すなわち、「主に結ばれている選ばれたルフォス、およびその母によろしく。彼の母は、わたしの母でもある」と使徒パウロが記していて、十字架を担がされたルフォスの父シモンがイエス様の十字架を通してイエス様を信じ、後にクリスチャンとなり、その妻と息子もイエス様に従い、使徒パウロや教会に仕える者となったと考えられ、その祝福はシモンがイエス様の十字架を背負ったことから始まります。このことから、たとえわたしたちが外部から強制的に重荷を負わされることがあっても、苦しみを担うことがあったとしても、そこにも神様の確かなご計画があると信じられる幸いがあると信じましょう。

 33節から34節に、「そして、ゴルゴタという所、すなわち、「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった」とあります。ゴルゴタは処刑場です。よく耳にする「カルバリ」という言葉はラテン語のカルバリア(されこうべ)から来ています。「苦いものを混ぜたぶどう酒」とありますが、「ぶどう酒」は、十字架に釘打たれる時の痛みを少しでも和らげるための鎮痛剤のように使用されましたが、それをイエス様は飲もうとされなかったのは、兵士たちがイエス様を侮辱するために「苦味が混ぜてあった」からと考えられ、どこまでもイエス様を侮辱するのです。

それだけではありません。35節には、「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合った」とあります。イエス様の苦しみ、死んでゆくその下で、ゲームが行われています。37節の「これはユダヤ人の王イエス」という罪状書きも嘲りであり、兵士たちは誰一人、イエス様を「王」だと思っていません。さて、ローマの兵士たちが「くじを引いて、その服を分けた」というのは、詩篇22篇19節の言葉が成就したと捉えます。

さて38節から44節です。十字架に架けられたイエス様を見上げる人々は、イエス様を罵り、嘲弄します。彼らは、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」、「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」と罵ります。ここで彼らは「救い」という言葉を何度口にしているでしょうか。彼らは、自分たちの罪の贖い、救いのために神の子が、メシアが、救い主が十字架に架けられていること、自分たちがキリストを十字架に架けてしまっていること、自分たちの目の前で彼らのために贖いの死を迎えようとしてくださっていることを実際に見ているのに、妬みや敵意や憎しみという肉の思い、罪によって彼らの目は塞がれ、イエス様を救い主と認めることができずにいます。

イエス様は、十字架から下りて自分を救うことはできました。神様もイエス様を十字架から下ろすことができました。しかし、それをなさらなかったのは、わたしたちを救うためです。御子イエスが十字架において贖いの死を遂げることによって、イエス様を救い主と信じるわたしたちが神様の愛によって罪赦され、恵みによって救われ、主と共に新しい永遠の命に生きるためです。そのためにイエス様は十字架から下りられなかったのです。イエス様は、わたしたちを神様の御許で永遠に生かすために十字架に留まり、その命を与えてくださったのです。

さて、45節から50節にはイエス様の十字架上での苦しみと叫びが記されています。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」とあります。昼の12時から15時までは1日の中で最も明るい時間帯です。しかし、地上の前面が暗くなったというのです。イエス様が誕生した時、真っ暗な夜空はおびただしい天の軍勢の出現によって地上は見たこともない光で満ちましたが、イエス様が死を迎える時、明るいはずの全地はまったく暗くなるのです。救い主の誕生と死は非常に対照的で、神様の喜びと悲しみを表していると言って良いと思います。神様が、全地が、悲しみのあまり喪に服しているかの様です。また、午後3時という時間帯は、神殿で小羊が犠牲としてささげられる時間でもあるそうです。イエス様はわたしたちの罪を贖う傷なき小羊として神様に献げられ、わたしたちの罪をすべて帳消しにしてくださったのです。

『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』とはイエス様が話されたアラム語で、詩篇22篇1節と同じ言葉です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主の叫び声を無視してはなりません。神様は、罪人であるわたしたちを救うために、主イエス様のお言葉通り、その御子を捨て、黄泉にくだされたのです。わたしたちを救い、新しい命を与えるために、ご自分の子を切り離したのです。なぜアラム語なのか。それは、最後の最後に、ユダヤの同胞たちにしっかり聞いて欲しかったからかもしれません。しかし同胞たちの多くは、「自分を救えない者が救い主、神の子であるはずはない」と思い込んだのでしょう。イエス様を拒絶します。しかし、イエス様が神様から遣われたキリストであり、救い主であるのです。

50節に「イエスは再び大声で叫び、息をひきとられた」とありますが、新改訳聖書2017では、「イエスは大声で叫んで霊を渡された」と訳されています。父なる神様から託された使命を最後の最後まで従順に果たし、地上での生を終えられる時、ご自身の霊を神様に渡され、すべて委ねられたイエス様がここにおられます。わたしたちに必要なのは主に明け渡すことです。

さて、イエス様が十字架上で息を引き取られた直後、様々な不思議な現象が起こり、イエス様の十字架の姿を見ていた人々がイエス様を「神の子」と告白したと51節から56節に記されています。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たとありますが、これは救いの御業が(天)上におられる神様から、下の世のただ中に起こったという意味と、神様のおられる至聖所と聖所を隔てる幕がイエス様の贖いの死によって取り除かれ、イエス様を信じる者が神様にアクセスすることが可能になったということです。祭司が年に一度至聖所に入って祈り、執り成すのではなく、主イエス様が永遠に執り成してくださり、主によっていつでも神様の前に出て、主の御名によって祈りをささげられる恵みに預かっているということです。

「地震が起こり、岩が裂け」たというのは、大地が神様の御力によって揺れ動き、強固なものが破壊されるということ。つまり、罪が贖われ、死が打ち砕かれるというあり得ないことが、救いがイエス・キリストの死を通して神様からわたしたちに与えられたということです。イエス様の十字架の死は、わたしたちを救うための神様の愛、憐み、恵みであるのです。

「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた」とあるのは、実際にその時に起こったことではなく、イエス・キリストを信じる者たちが死んだ後に甦って永遠の命を受けるという約束、恵みの先取りです。イエス様を救い主と信じる者は、たとえ死んでも永遠の命に生かされるという神様の約束の確かさを表しています。

さて54節から55節にこのようにあります。「百人隊長」とはローマ兵100人隊の長であり、異邦人・外国人です。ユダヤ人たちはイエス様を拒絶したのに、異邦人がイエス様を「神の子」、つまり救い主と告白してゆきます。そして、ガリラヤからずっとイエス様に従ってきた女性の弟子たちが最後の最後までイエス様に従い、仕えます。イエス・キリストは、すべての人々、生まれた国、性別、肌の色、言語や文化を超えて、すべての民を贖う救い主として死なれたということが告白されています。救いは、神様の恵みによるということを示しています。

イエス・キリストを信じ、従う恵みがわたしたち一人一人にも今朝与えられ、その愛と恵みの中に生きなさいと招かれていることを感謝し、自分の知恵や力に頼ることなく、十字架のイエス様を仰ぎ見つつ、「イエスこそ、わたしの主、救い主」であると告白してまいりましょう。