「しっかり立つべき位置」 四月第二主日礼拝宣教 2021年4月11日
コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章58節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も神様の恵みの中、この礼拝堂で、そしてオンラインで、皆さんとご一緒に礼拝を神様におささげできる幸いを嬉しく思い、この幸いをくださる神様に感謝いたします。コロナ新規感染者数が増える中、明日から「まん延防止重点処置」が出されることになっていますが、感染防止の気持ちを緩めることなく、神様にすべてをお委ねしつつ、わたしたちがなすべきこと、果たすべき責任をしっかり担ってまいりましょう。
さて、今朝は宣教の最初に写真を見ていただきたいと思います。この教会の建物に入ってくる時に誰もがくぐる夏ミカンの木ですが、その木に先週から青々とした新芽がたくさん萌えいで、同時に白い蕾がたくさん付き始めています。1月下旬に剪定をお願いしましたが、約2ヶ月で新芽が出て、蕾がたくさん付くようになりました。これは嬉しい希望です。
昨年から1年間、新型コロナウイルス感染防止のため2度の緊急事態宣言によりわたしたちは教会に集えない時期を過ごしましたが、ある意味、それぞれの信仰の剪定、教会の活動の剪定を神様から受けたかのような痛みをそれぞれ経験しました。教会がキリストのからだとして整えられ、クリスチャンがさらに成長するためには信仰の剪定は必要です。そのような剪定は確かに痛いですし、苦しいですし、辛いです。しかし、数ヶ月後に、次のシーズンに新しい芽が噴き出て、可愛らしい蕾を付けます。この蕾がもう少ししたら花を咲かせ、みかんの実を結ぶ希望となります。すべての花が実を結ぶとは限りません。ほんの少し、昨年は4個、その前の年は10個実を結びましたが今年はいくつ実を結ぶでしょうか。コロナはまだまだ収束しませんが、そのような中でわたしたち大久保教会はどのような実を結ぶことができるでしょうか。それはこの教会に連なる一人一人がイエス様にしっかりつながることにかかってきます。イエス様につながることなくして、神様の喜ばれる実を結ぶことはできません。
2020年初頭からコロナ危機が始まり、2021年の今も感染の収束が見えない長いトンネルの中にある状態ですが、それでも立ち止まることなく前進あるのみです。一歩でも半歩でも、常に前に向かって進んでゆくこと、それがイエス様を救い主と信じる者の、主なる神様に信頼をおく者の生き方ではないでしょうか。信仰者は、神様の奇跡を信じる者であり、教会はイエス・キリストの復活・甦りという神様の御業、奇跡を信じ、喜び、感謝する者たちの集まりです。主イエス様のご復活は、信じる者に永遠の命に生きる希望を与えてくださいます。奇跡を信じるとは、「神様にはできる。神様にはできないことは何一つない」と神様の絶大なる御力を信じることです。わたしたちはそのような神様を信じる幸いに招かれています。
先週、わたしたちは主イエス様の甦り、ご復活を喜び祝いました。イエス様はご自分のお言葉どおりに復活された、神様がイエス様を甦らされたという神様の驚くべき御業について聖書から聴きました。今朝の礼拝への招きの言葉はその部分でした。神様、そしてイエス様は、神様の奇跡、愛の御力を信じなさいとわたしたちを招かれます。死人が甦る・生き返るという人間界の非常識を神様の御業、神様の恵みとして信じなさいと招かれています。イエス様の十字架の死はわたしたちの罪の代金を支払い、わたしたちの罪を洗い清めるためでしたが、主イエス様のご復活は、わたしたちに永遠の命を与えるためであったと使徒パウロは宣言します。
先週、わたしたちはコリントの信徒への手紙Ⅰ15章の12節から21節を通して、もし主イエス様の復活がなかったら、わたしたちは今どのような状態にあるのかということを聴いてゆきました。14節に、もしイエス様が甦られなかったら、わたしたちの宣教は無駄であるし、わたしたちの信仰も無駄ですとあります。15節には、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからとあります。17節には、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの信仰はむなしく、わたしたちは今もなお罪の中にあることになるとあります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。そして19節、このようの生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者ですと使徒パウロは言うわけです。
もしイエス様が十字架で死なれ、三日後に復活されていなければ、今の世界はまったく違った世界になっていたことでしょう。皆さんはそのような世界を想像できますでしょうか。また、わたしたちの中にはこの世界に存在し得ない人もわたしを含めておりますし、わたしたちはこの教会で出会うことも、共に礼拝をおささげすることもなかったでありましょう。しかし、最もショッキングなことは、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちは今もなお罪の中にある」と言うことです。わたしたちに救いも平安も喜びも希望もなく、ひたすら死に向かって虚しく生きる存在であるということではないでしょうか。そのことを想像しただけで鳥肌が立ちます。想像することすらすぐにやめたくなります。とても不安になります。
しかし、神様は使徒パウロを通してこう宣言するのです。20節と21節です。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」と。次の22節では、「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」と追加の説明がされています。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活された。」 これが神様からわたしたちに与えられている福音、よき知らせです。使徒パウロは、これをわたしたちに与えられた「神の恵み」と言い表しています。わたしたち大久保教会は、この恵みに立つ教会となるべく、今年の歩みを先週から開始しました。
使徒パウロは、この第一コリント15章全体で「復活」と言うことを説明しているわけですが、「死者の復活」とは、神様の愛と憐れみ、恵みによって、御力によって死に完全に勝利したと言うことです。永遠の敵と思い込み、わたしたちが恐れていた「死」をもう恐れなくても良くなったということ、素晴らしい神様の奇跡が起こったということです。確かに、わたしたちのこの体は朽ちる時がいつか来て、この地上での生活に別れを告げる時は来ますが、その先は永遠の死、滅びではなく、復活と永遠の命である、その希望が主イエス・キリストを通して神様から与えられていると福音を分かち合ってくださり、キリスト・イエスを信じる信仰へと招いてくれています。神様が与えてくださる「恵み」の中に生きなさいと今朝も招かれています。
死者の復活を信じることは、神様が死に完全に勝利されていることを信じることです。神様は御子イエス様の十字架上の贖いの死、従順な死を通してわたしたちの罪を帳消しにしてくださっただけでなく、イエス様を復活させることによって死に勝利し、わたしたちイエス・キリストを信じる者たちに死からの復活と永遠のいのちを与えてくださっています。そのような神様の恵み、幸いに対してどのように返礼をわたしたちはすべきでしょうか。
第一コリント15章57節では、「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」と記され、神様の愛の奇跡、愛の御業にただただ感謝する、それだけと言っています。わたしたちにできることは感謝をささげること、礼拝をささげること、賛美をささげること、そして主イエス様の命によって罪の代価が支払われ、神様に買い取られた者として、主のために自分をささげてゆくことではないでしょうか。
このコリントの信徒への手紙Ⅰは、社会と教会内の多種多様な課題や問題が取り扱われている手紙ですが、その手紙の中心となるのが10章の31節と考えられています。すなわち、イエス・キリストによって救われ、自由にされたあなたがたは、「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と励まされています。何をするにしても感謝と喜びを持って神様の栄光を現しなさい、神様をほめたたえなさいということです。
コロナパンデミックの只中にあります、いつまで続くのか分からない状態ですが、コロナに振り回され続けるのではなく、神様とイエス様に常にフォーカスし、信頼し、神様と主イエス様から委ねられている業に励むわたしたち、常に励む教会とされてゆきたいと願います。それが大久保教会の今年度の目標です。この礼拝に集っておられるゲストの皆さん、オンラインで出席くださっているゲストの皆さんにも同じお勧めをしたいと思います。大変辛い日々をお過ごしであるかもしれませんが、神様を信じ、主イエス様に目を注ぎ、常に主から知恵と力と助けを求め、感謝と喜びをもって、それぞれ置かれている場所で神様から託されている働きに励んでいただきたいと思います。それが神様が皆さんに求めておられることです。
最後に大久保教会の2021年度の年間聖句を読み、少しだけ分かち合いをしたいと思います。第一コリント15章58節です。「わたしの愛する兄弟姉妹たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」 わたしたちは主イエス・キリストを通して神様に愛されている神の家族です。ですから、互いに愛し合い続け、互いのために祈り、支え、仕えて生きましょう。決して自分だけ頑張るのではなく、みんなで一緒に歩み、それぞれ神様から与えられ、委ねられている賜物を持ち寄りましょう。
「こういうわけですから」とありますが、主イエス様の十字架と復活の恵みに生かされているのですから、神様に愛され、赦され、イエス様の伴いと祈り、聖霊の励ましがいつも常にあるのですから、恵みに生かされているのですからということです。
ですから、日々の生活の中で試みにあったり、霊的な戦いがあっても、動かされないようにしっかりイエス様の十字架と復活を信じる信仰と恵みの上に立ちなさいと励まされています。苦しい時、一人では戦えません。耐えられません。ですから、教会という神の家族が励まし合い、互いのために祈り合い、支えるのです。イエス・キリストを信じる者たちが教会に集められ、主の業に常に励む、共に励む。それがわたしたちに望まれる神様の御心です。
「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」とあります。まず大切なのは、わたしたち一人一人が主イエス様に結ばれること、結ばれていることです。主イエス様がわたしたちを励まし、一つにしてくださいます。自分たちの意志では不可能です。ですから、イエス様に日々結ばれるためにイエス様との時間を大切にしましょう。そして主のために、主の栄光を現すために、主を証しするために共に歩み、働きを一緒に担いましょう。主のために心から一緒に仕える時、主が共に働いてくださり、わたしたちに働く力を与え、喜びと感謝を心に満たしてくださり、苦労は無駄にならないと主なる神様が約束してくださっていますから、復活の希望を抱きつつ、主の約束を信じて歩んでまいりましょう、共に。