「聖霊:教会を一つにする神」 五月第五主日礼拝宣教 2021年5月30日
コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12〜13節 牧師 河野信一郎
おはようございます。5月最後の主日・日曜日の朝です。今朝もオンラインでご一緒に礼拝をおささげできることを神様に感謝いたします。残念ながら、緊急事態宣言は6月20日まで再延長されましたので、今朝を含めあと4回の日曜日はそれぞれの場所に留まって礼拝をおささげすることになります。その後も、大半の方々にワクチンが行き接種されるまで、あるいは感染リスクはもう無いと宣言されるまで教会に集えない方々もおられますが、どうぞご安心ください、大久保教会では礼拝のライブ配信を続けてまいります。アメリカのロスアンゼルスやホノルルでも大久保教会の礼拝に参加くださっておられる方々がおられます。本当に凄いことです。この礼拝のライブ配信が日本のどこで、世界のどこで用いられているか分かりませんが、神様が確かに用いてくださっていますので心から主に感謝いたします。
さて、あと一ヶ月教会に戻れない大久保教会の皆さんやいつもご出席くださっているゲストの皆さんに見ていただきたい写真があります。教会の庭に咲いたアジサイが今見どころで、皆さんがお帰りになられる頃にはシーズンが過ぎていますので、今年はこの写真で楽しんでいただきたいと思います。今年のアジサイはきれいに咲いています。皆さんが教会にお戻りになられたら、このアジサイのように、喜びと感謝をもってたくさんの賛美を共におささげし、神様をほめ讃えたいと思います。その日は必ず来ます。その時が来るまで、もうしばらくテレビやパソコンの画面を通して礼拝にご出席くださり、賛美をおささげください。
さて、わたしは、昨日、2つのオンライン会議に出席しました。一つは大久保教会の臨時執事会で、まず緊急事態宣言の再延長に伴う諸集会の対応の確認、6月に予定されていたプログラム変更の確認、総務執事さんがまとめてくださった決算総会の結果報告と寄せられたコメントへの返答の確認、2つの教会から届いた送籍依頼に対する承認、宣教師ご夫妻と懇談した時に上がった話題の分かち合い、祈祷会のオンライン化などを検討しました。大久保教会を愛し、誠実に仕えてくださる執事会の方々がそれぞれの思い、意見を分かち合いましたが、大久保教会がこれから将来的に向き合わなければならない複数の課題などを共有し、今後も継続的に協議し、教会の皆さんにも課題を下ろして分かち合ってゆく必要性を確認しました。臨時執事会の報告は月報6月号でしますが、皆さんにもぜひお祈り頂きたいことです。
もう一つの会議というのは、これからの日本バプテスト連盟について、たくさんの大きな課題がありますが、それらの実情をはっきりさせ、検討してゆく委員会の公開会議への出席でした。一番の課題は、やはり財政に関するもので、これから先、連盟がどういう状況に直面し、2026年までにどのような対応を迫られるのかが具体的な数字で示されましたが、具体策に至るまでの進展はありません。7月と8月に公開検討委員会を開く計画がありますが、委員会からの説明に対して実に多種多様な意見が出されました。
しかし、わたしが気になったのは、連盟には現在318教会・伝道所が加盟していますが、このオンライン会議に出席したのは三分の一の120名程であったということです。その他の三分の二の諸教会は連盟の危機的な状況に無関心なのか、人事なのか、あるいは協議しても無駄だと感じておられるのかはっきり分かりませんが、そのような関心の無さが協力伝道献金に反映されているのかも知れません。2000年度から2020年度で協力伝道献金は6千万円の減少となっています。私たちの祈りと支援の協力が滞ると、すでに苦しんでいる地方の諸教会が、1県に1教会しかない教会などがもっと苦しむことになり、消滅する危機に直面します。
このことは人事ではありません。大久保教会の5年、10年後を考えると財政に関すること、教勢に関しても、このままの状態でゆくと大変なことになることは目に見えていて、昨日の執事会でもこの事に関して意見を交わしました。連盟の検討委員会でも様々な意見が出されましたし、教会の執事会でも様々な意見や思いが出されましたが、これらの課題に今から真剣に向き合わなければ、3年、5年後、連盟は、大久保教会はどうなっているでしょうか。
会議の中である人が、各教会がしっかり協力伝道献金をささげて支えてゆけば連盟は大丈夫、そのためには信徒たちが十一献金、あるいは信仰に応じた献金を頑張ってささげれば大丈夫だろうと発言されましたが、それが難しい状況であることを認識していないのかも知れません。こういう話を宣教の中ですべきではないでしょうが、教会が霊的に弱くなり、分裂したりする原因でいつもトップ2になるのは、献金の問題と会堂建築の問題だと言われています。どちらもお金が絡んでいます。人間の最も弱い部分がそこに露出するのでタブーになります。
しかし、この事が問題になる根本的な理由は、献金は神様への感謝の献げもの、会堂建築も神様の栄光を表し、福音宣教の拠点として大切であるからという最重要な目的がなおざりにされ、自分のお財布ばかりのぞくからです。献金は信仰のバロメーターだとよく言われますが、献金によってその人がどれだけ神様に感謝し、信頼しているかが分かると言われています。金額ではなく、献げる人の心を神様は求めておられます。献金をどれだけ献げているかと他の教会員と競うためではなく、月報の献金欄に自分の名前がどれだけ多く載っているかと優越感・満足感を得るためのものでもなく、献金は神様の愛・憐れみ、恵みに対する感謝の献げものです。これ以上お話しすると嫌気がさす方も出て来られると思いますので止めますが、このことは今朝の宣教テーマにもある意味関わりがありますのでご辛抱ください。
明日で5月も終わりますが、この月は聖霊が降臨したことを神様に感謝するペンテコステ礼拝がありましたので、私の宣教テーマは「聖霊」という神様についてでありました。ヨハネ福音書14章から、聖霊という神は神様と主イエス・キリストに約束された別の弁護者・助け主であることをまず聞き、同じヨハネ福音書16章から、聖霊という神はわたしたちに真理を悟らせる助け主であることを聞きました。先週は使徒言行録2章から、天におられる神様から派遣された聖霊という神は、わたしたち一人一人に、つまりイエス・キリストを救い主と信じ従う者たちに豊かに神の力を与えてくださる神であるということを聴きました。今朝は、コリントの信徒への手紙Ⅰの12章から、聖霊という神は、教会を一つにする神であられるということ、聖霊という助け主が神様から派遣され与えられたのは教会を一つのキリストのからだとするためであるという大切なことをご一緒に聴いてゆきたいと願っています。
使徒言行録の1章2章を読んでゆきますと、この聖霊はイエス・キリストを救い主と信じている人々の集まりの上に、心を合わせて熱心に祈る人々の上に、主の約束を信じて待ち望む人々の上に豊かに臨まれたという事が分かります。神様は聖霊を信じて待ち望む人々、そのような交わりの只中に聖霊を注がれ、大いなる力が注がれ、想像もできない大きな業が始まってゆきます。そのとき、イエス様を信じる人々は「聖霊のバプテスマ」を受けるのです。この「聖霊のバプテスマ」というのは何かと言いますと、簡単に言いますと、イエス様を信じる人々、その群れが集められて一つの普遍的教会とされるという事です。今までバラバラであった人々が神様の圧倒的な力によって一つの教会として呼び集められる、それが「聖霊のバプテスマ」という意味です。
なぜ一つの教会にならなければならないのか。各個人にイエス様を信じる信仰があれば十分ではないか。教会という存在はある意味信仰を束縛するものではないかと考えられ、自分はクリスチャンになっても特定の教会には属さないと決めておられる方もおられるかも知れませんが、その考えはまったくもって聖書的ではありません。つまりそれは神様の御心ではないという事です。それでは何故、神様はご自分の霊・聖霊をイエス様を信じる人々の上に注ぎ、一つの教会を形作られようとしたのか。その理由は少なく見積もっても5つはあります。
教会とされる理由、1)まず共に神様に礼拝をささげるため、2)クリスチャンとして共に成長するため、3)力を合わせて共に神様に仕えるため、4)共にイエス・キリストの福音を伝えるため、5)共に仕えて行く中で神の家族とされてゆくためです。そしてこの一つ一つ、つまり神様を愛すること、隣人を愛すること、互いに愛し合うこと、そして一つの教会とされてゆくために必要不可欠なのが神様の助け、力、励まし、後押しで、それを与えるために神様はご自分の霊をわたしたちに注いでくださり、今も注ぎ続けて下さっているのです。
自分の知恵や努力だけで、思いや信念の強さだけで神様を愛し、周りの人たちを愛し、互いに愛し合って生きてゆくことができる人はこの地上に存在しません。みんな神様の愛と憐れみと助けが必要な存在で、その助けは神様から直接来るだけでなく、教会の兄弟姉妹や他のクリスチャンたちを通して与えられます。そのような素晴らしい恵みの体験を皆さんはすでに受けておられるのではないでしょうか。わたしたちはガラテヤ書から、神様を愛し、憐れみを喜び、平和を求め、隣人に対して寛容で、親切で、善意を示し、いつも誠実、柔和な者とされ、自身を制するため、霊の実を結ぶために神様は聖霊をわたしたちにお与えくださったことを学びましたが、それらの霊の実を結ぶために必要な土壌が教会なのです。
教会には様々なバックグラウンドを持った人たちが集められます。性別や年齢や言語や社会的立場や国籍だけでなく、それぞれ性格も違いますし、物事の捉え方、考え方も違います。ただ一つだけ最初から一致しているのは「イエス・キリストはわたしの主・救い主」と信じることですが、このイエス様への信仰、その告白も、聖霊によらなければできないと使徒パウロは第一コリントの手紙12章3節で書き記しています。
このコリントの信徒への手紙の12章から14章は、神様が聖霊を通してわたしたちに与えてくださる霊的な賜物について使徒パウロが教えている部分ですが、わたしたちの様々な違いを超えてわたしたちを一つの教会に組み合わせ、イエス様を救い主と信じる信仰共同体にしてくださるのが聖霊であると教えます。そして「一人一人に、“霊”の働きが現れるのは、教会全体の益になるためです」と12章7節にあります。聖霊が与えられているのは、各個人の信仰者のためだけでなく、教会全体のためであって、それ以下でもそれ以上でもない。
今日は、とても難しく分かりにくいことを牧師は話しているなぁ、聞いていても理解できないなぁとお感じになっておられる方も多いと思いますが、簡単に申しますと、わたしたちが神様から日々受けている愛と恵みに心から応答してゆくためには聖霊の助けが必要であり、信仰者の存在がお互いに必要であり、教会という共同体、神の家族が必要であるということで、その教会を一つにしてくださるのが聖霊という神様であるということです。わたしたちは傲慢にならず、いつも謙遜にいて、この霊を求める事が大切であるということです。
12章12節と13節に「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」つまり、教会も同じであるということです。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体、つまり一つの教会となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」とあります。
ペンテコステの日に聖霊が注がれたのは、イエス・キリストにある、イエス様の十字架と復活を土台とした一つの教会を誕生させるためであったこと、2000年の時を超えて今も聖霊が共にいてくださるのは、それが神様の約束だからというだけでなく、教会を一つにし、教会を通して、つまりわたしたちを通して、神様がこの地を神様の愛で満たしたいからです。イエス・キリストというパンとぶどうの汁を、救いを、恵みをわたしたちが日々分かち、一人でも多くの人々がこの神様の愛とキリストの救いを受け、神様の愛と恵みの中で、神様と共に永遠に生きて欲しいからです。
主イエス・キリストの御名によって呼び集められているわたしたち、大久保教会、全世界のキリスト教会、すべては神様の御心を行うために、福音の種まきのためにそれぞれの場所に神様が置いて下さっている。この恵みを共に感謝して、共に祈り、喜びも悲しみも分かち合って生きる群れに神様の霊は力強く働いて祝してくれます。わたしたち一人一人には神様が与えて下さっている賜物と役割と責任があり、それらに忠実な人々を豊かに祝し、主の御用のために用いてくださる。だから、「わたしは教会の目の部分が良かった、耳の部分が良かった、あの人の方がいいものを持っている」とか不平不満で心を満たすのではなく、わたしも神様に仕える教会の一部分として召されているということを喜び、感謝し、その感動をみんなと分かち合わせていただきましょう。その分かち合う思いと力も聖霊が与えてくださいます。