わたしを見続ける神

宣教 『わたしを見続ける神』大久保バプテスト  教会副牧師石垣茂夫                      2021/06/20

聖書(1):ヨハネの手紙Ⅰ3章1~2節(新p443)

聖書(2);創世記16章1~13節 (旧p20)

招詞:フィリピの信徒への手紙3章12節

 

「はじめに」

皆様、お早うございます。

この朝の宣教は、ヨハネ第一の手紙と創世記、それにフィリピの信徒への手紙からという、少し欲張った組み合わせになりました。

神はなぜ、わたしたちを「神の子」とまで呼んでくださるのでしょうか、それぞれの聖書個所から、導かれつつ礼拝したいと願っています。

 

「今、神の子」

ヨハネ第一の手紙3章には、「わたしたちが神の子と呼ばれる」、「わたしたちは、今既に神の子です」と書かれています。

果たして、今、礼拝している私たちは、「神の子」と呼ばれるにふさわしい者なのでしょうか。

私たちの中の、どこをどうかき回しても、「神の子」と呼ばれるものは出てこないのですが、それでもなぜ神は私たちを「神の子」と呼んでくださるのでしょうか。

そのように戸惑い、抵抗を感じる私たちを、今朝のヨハネの手紙3章のみ言葉は次のように導いて行きます。

 

「ヨハネの手紙一 3:1」  

第一の手紙3章のはじめで、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」、このようにヨハネは語り始めます。「考えなさい!」と、私たちを促しています。聖書には珍しい言葉使いであり、わたしは興味を持ってしまいました。

 わたしは、「考えなさい!」と言われたときに、自分の子どもたちに、しばしばそのように言っていたことを

思い出します。口語訳聖書は「よく考えてみなさい」という言葉でした。

わたしたちの長男が中学生になったばかりのことですが、1枚のはがきが長男宛てに届きました。

「あなたは当選しました。このはがきを持って何日までに赤坂の事務所に来てください。キャラクターのTシャツを無料でプレゼントします」、そのように書いてありました。本人は大喜びで“行ってくる”と言いました。その時私たちは、「普通では考えられないことだ。何かある。今日一日、よく考えなさい」と繰り返し言いました。すると長男は「お父さんやお母さんは、いつも、“よく考えなさい”と言っては止めさせようとする」と、とても不満げでした。しばらくすると、本人なりに、はがきを眺めて考えていたのでしょう、“やっぱりやめた”と言ってそのはがきを破いていました。

ヨハネは、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」と言いました。独り子主イエスを人間の中に遣わし、十字架に至らせるまでの神の決断を思えば、常識では考えられないプレゼントです。

ヨハネは、当時の教会で、様々な教えに迷い、信仰から離れていく教会の人々を見るようになり悲しんでいました。そうした人々は皆、信仰を告白してバプテスマを受けた人々でした。ヨハネは、彼らに向かって、「よく考えてみなさい!」、この一言を、加えたように思いました。

「父なる神は、私たちを愛して下さっている」。このことを聖書は、いくつもの物語で私たちに伝えているのではないでしょうか。それは数えきれないほどであり、聖書の物語は皆「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか」というテーマなのです。聖書朗読では、創世記16章を呼んでいただきました。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか」という事実を、この物語で辿ってみましょう。

 

「アブラハム、サラ、ハガル」

創世記12章から25章にかけて、アブラハム物語が書かれています。

ユダヤ民族の父であり、“信仰の父”と慕われるアブラハム、そのころはまだアブラムと呼ばれており、妻のサラもサライと呼ばれていました(17章参照)。アブラムは、異教の地に住む人でしたが、若いころから真実の神を求める人物であるのを、神は見い出していました。

75歳になった時、まことの神に呼びかけられ、その言葉に従って父の家を離れ、約束の地カナンに向けて旅立ちました。カナン定住に至る途上でアブラムは、様々な困難を味わいますが、誠実に向き合って克服し、周囲の信頼を得て、生きて行きました。しかしこのアブラムには、神が約束してくださった、大きな一つのことが、まだ果たされていないという不満がありました。それは約束から10年経っても子孫が与えられない事でした。

16章の物語では、三人の人物の葛藤が描かれています。

アブラムは、「数えきれないほどの子孫が与えられる」という、神の約束の時を待てなくなっていました。神の時を待てず、それを疑い始めたのです。

妻のサライですが「子どもが授からない」というふがいなさを、何とか挽回しようと考えていました。彼女も神の時を待てず、ついに自らの力で家族計画を考え、アブラムに迫りました。

召使ハガルはといえば、サライの計画によって得た妻の座を勝ち誇り、家族の間に大きな亀裂を生じさせました。

アブラム、サライ、ハガル。16章には、この三人が罪にまみれて葛藤する姿が描かれています。

 アブラムは、苦しみました。神様が最初に、明確に約束してくださった、数えられないほどの子孫を与えるという約束は、いったいどうなったのか(12:7)。約束から、実に10年も過ぎたではないか。

加えて、カナンに住むようになってからは、敵対する部族に囲まれ、決して居心地の良い土地ではないと、日々感じるようになっており、約束の地とは本当にここなのかと、疑いを持ちはじめていました。(14:1~16)。

ある夜のことアブラムは、浅い眠りの中で、思い切って神に自分の苦しみを打ち明けますと、神は静かに答えてくださいました。

「アブラムよ。外に出て夜空を眺めて見よ。あの星がお前には数えられるか。とても数えきれるものではあるまい。お前の子孫は、いまにあの星のように数知れず、地の上に増え広がっていくのだ」(15:5)。アブラムが目を覚ますと、いつの間にかそこは天幕の外でした。

そのような事があっても、変わることのなく日々は過ぎて行きます。子どもが与えられないことは、一家にとって危機的なことです。その時、夫アブラムと同じように悩む妻サライに、ある計画がひらめいたのです。それは自分の召使を利用することでした。サライには、ハガルというエジプト人の若い召使が居ましたが、この召使を利用しようと思いついたのです。サライは召使ハガルを、アブラムの二番目の妻として与え、彼女によって子どもを得ようと計画したのです。それは、この時代には許されることでした。

神の約束を疑い始めていた悩めるアブラムにとっても、サライの計画、これは受け入れやすい提案でした。アブラムは、悩みつつもサライの計画に同意しました。

ところがこのことから、平和だったアブラムの家庭には、波風が立つようになっていきました。

妻の座に就いたハガルに子が宿ったことが分かると、ハガルは女主人サライを見下すようになりました。この、自分を見下すハガルの態度に、サライは耐えきれず、ついに夫アブラムに不満をぶつけたのです。アブラムもサライの訴えに屈し、遂に「思い通り、ハガルを追い出してよい」と告げてしまいました。

その日から、ますます冷酷になったサライの扱いに、ハガルは耐えられなくなり、ハガルは身重のまま、命を失う覚悟で、アブラムのもとを去っていきました。

ハガルは故郷のエジプトに向かって一人旅立ちました。途中のシュルの荒れ野に至りましたそのとき、神は使いを送り、ハガルに語り掛けました。「ハガルよ。あなたは何処から来てどこに行こうとしているのか。」と語り掛けたのです。

ハガルが自分の苦しみを告げると、「主はあなたの悩みを聞かれた」(16:11)と言い、将来にわたる大きな約束を告げました。

そう言って「元の場所、サライのもとに帰り、従順に仕えなさい」と諭し、ハガルを立ち上がらせたのです。

ハガルは、このときはじめて、アブラムの神は、私を知っておられる、見ておられるということが分かったのです。ハガルはそのような愛の神知り、感動して神に答えています。

『ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ〔わたしを見る神〕です」と言った。』(創世記16:13)

一年後、ハガルがアブラムの子イシュマエルを生んだのは、アブラムが86歳になったときでした。

ここの後のことですが、創世記21章によりますと、サラによって待望の長男イサクが与えられたのは、実にその14年後の事です。アブラハムは100歳になっていました。これが神の時でした。

すると、不幸なことですが、サラによって再び、前と同じような嫌がらせが、ハガルに対して繰り返されるのです。

人間とはどこまでいっても失われた者であり、罪深く、不信仰であることを物語っています。しかし、そのように罪深く、不信仰な人間を、変わらず愛し、見続けてくださる神がおられます。このような複雑な関係になった三人を、見続ける神の存在が、ここに浮かび上がって来ます。

ヨハネは「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」と言いました。

アブラハム物語で父なる神は、「すべての人を先だって知る神」であり、「わたしたちを見続けてくださる神」として、ご自身を表しているのです。わたしたちも、この愛の中に捕らえられている一人なのです。

 

「神の子」とは「信仰の姿勢」

ヨハネの手紙では「神の子」という言葉が繰り返されて行きます。

なぜ神は、戸惑う私たちを「神の子」と呼んでくださるのでしょうか。

招詞でフィリピの信徒への手紙3章12節を読んでいただきました。ここには別の捉え方で、パウロが「神の子」の姿を描いています。

『わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。(フィリ3:12)』

12節の言葉の中で大事なことは、あのパウロでさえ、「自分は、既にそれを得たというわけではない、既に完全な者となっているわけでもない」と言っていることです。パウロは、自分は到底、「神の子と呼ばれるような者」にはなっていないと言っているのです。

そのうえで、人間的な限界のゆえに、とても“つかんだ”とは言えないが、それでも“何とかして捕えようと努めているのだ”と言っています。この“何とかして捕えようとする姿勢”、この、目標に向かう姿勢が、「キリスト・イエスに捕らえられた者」「神の子」の生き方だとパウロは言っていると思えるのです。

パウロによれば、「神の子」とは、完成した形ではなく「信仰の姿勢」なのです。

 

「求め続ける人」

ヨハネの言葉に戻り、3章2節を読みます。

3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(ヨハネの手紙Ⅰ3章2節)

ヨハネもこの2節で、「私たちは今既に神の子です」と断言しながら、続けて「自分がどのようになるかは、まだ示されていません」、「はっきりしていない」と言っています。ここもパウロが「捕えていない」「まだなっていない」と言っている言葉と同じです。信仰者はどこまでも、求める続ける人であり、求道者として生き続ける面を持つのだと、二人は言っているのだと思います。

 パウロには、一つの確かな事実がありました。「主イエスによって、自分が捕らえられている」という事です。

キリスト者迫害のため、ダマスコの途上あったとき、あの復活のキリストとの衝撃的な出会いが与えられ、回心へと導かれて行きました。「主イエスが私を知っている。私の名前で、わたしを呼んでくださった」、この事実は決定的であり、これをパウロは否定することができません。

シュルの荒れ野にたたずんでいたハガルにしても同じです。

御使いによって「主があなたの悩みを聞かれた」と告げられた後、神はハガルの名を呼んで語り掛け、彼女の苦しみに向き合ってくださいました。

 このように、何を置いてもわたしたちの信仰には、神の熱心こそが先にあるのです。この神の熱心への応答として、わたしたちもキリストに近付こうと「求め続ける」、これが信仰者の姿勢であり生涯です。

終わりに、ルターの言葉として、長く語り伝えられてきた言葉をお伝えします。

『あなたは、神に愛されている子なのです。この信仰を持ち続ける訓練をしていただきたい。そして生きる

限り、この信仰を持ち続けることが出来るように祈り求めていただきたい。』(M.ルター)

狭く、厳しい道ですが、目標をめざして走りぬくようにと、神は、今日も私たちを見続けてくださっています。

わたしたちの歩みを、復活の主イエス・キリストは導いてくださいます。

【祈り】