大きな希望があなたにも

「大きな希望があなたにも」 七月第二主日礼拝宣教 2021年7月11日

 テモテへの手紙Ⅱ 4章6〜8節      牧師 河野信一郎

大久保教会の礼拝にオンラインでご出席の皆さん、そしてこの礼拝堂にお集まりの皆さん、おはようございます。礼拝者として皆さんがここにお集まりくださり、とても嬉しいです。イエス・キリストが甦られた日曜日の朝を主の日として覚え、週の初めの日の朝をこのようにご一緒に礼拝できる幸いを神様に心から感謝いたします。主は本当に素晴らしいお方です。

オンラインで出席されておられる方の中には、10分、15分も前からテレビやパソコンの前に座って、今か今かと楽しみにしてくださっている方がおられたり、礼拝に先立って神様の祝福と、礼拝と配信奉仕者のためと、ライブ配信が滞りなく配信されるようにと一心にお祈りくださっている方々がおられたり、また遠い海外の地で礼拝をささげてくださっている方々がおられることは、わたしたち教会にとって大きな励ましです。ありがとうございます。

神様に心を向け、大きく深呼吸して神様からいただく幸いを思い、今日も恵みのうちに生かされ、礼拝者とされていることを考えると、その恵みはとても嬉しく、感謝なのですが、今朝はなんとも形容しがたい朝に思います。どうやって表現したら良いでしょうか。2週間前からようやく皆さんと一緒に礼拝堂に集まって礼拝ができるようになったのに、あっという間に、明日から4度目の緊急事態宣言が発令され、向こう6週間はオンラインのみの礼拝となってしまいます。先週の水曜日に7ヶ月ぶりに祈祷会を開けて、出席者の皆さんと喜んだのにたった一回で休会です。大切な皆さんと声を一つに賛美をささげ、礼拝することがどんなに幸いなことで、感謝で、大きな慰めと励ましとなっているのかを感じるだけに辛いです。

いたるところから「もううんざり!」という声が聞こえたり、やりきれない思いが伝わってきます。寂しさや悲しさで言葉を失う方、涙を流す方もおられます。飲食業の方々の「もう絶体絶命!」という悲鳴や、自粛を要求するだけで何の補償もしてくれない政府や行政に対する怒りの声や、やり場のない悲痛な叫びが聞こえて、心が本当に苦しくなります。

また、先々週からの全国的な大雨によって被災される人々がさらに増え、被災地からの叫び声が聞こえます。ダブルパンチ、トリプルパンチ、カウンターパンチを受け続け、精神的にも肉体的にも、もう極限の苦しい状態の方々がおられます。ワクチン接種にも切迫感、スピード感を感じることができません。水曜日に東京の新規感染者数が920人と聞いて、「今すぐ緊急事態宣言が必要!」と感じ、昨日の950人と聞いて、わたしは腹をくくりました。

明日からまたステイホームです。残念極まりないですが、今年の夏も我慢の夏です。そういう中で東京オリンピックとパラリンピックが強行されます。感染が拡大しないように神様の憐れみとお守りを祈るだけです。コロナ感染拡大に目を向けたり、誰かに不平不満をこぼす暇があるならば、わたしたちの心と目と耳、すべてを神様に向けて主の約束のみ言葉に集中し、神様から大きな希望を受けるほうが絶対に良いです。周りのものを変えるのではなく、わたしたちの心の向きを変えるのです。見る方角と角度、聞く方向を変えるのです。

オリンピックという「お祭り」、大きな花火が打ち上げられた後、パンデミックが制御不能に陥ってから緊急事態宣言下に置かれるのと、明日から緊急事態宣言下に置かれるのと、医療従事者の方々のことを第一に考えるならば、どちらがベストと感じるでしょうか。今年のクリスマスをこの礼拝堂で一緒にお祝いするのと、来年のイースターもオンラインになるかもしれないというリスク、どちらを取られますか。Sooner is better! 早い方が絶対に良いと思います。嫌なこと、耐え難いこと、虚しくなること、皆さんにもそれぞれあるでしょう。しかし、神様から与えられている命を守ることが優先しましょう。この命に代わるものは他にはないです。みんなの命、どうして粗末にして良いでしょうか。ですから、今は忍耐なのです。

さて、6月からご一緒に聴いてまいりましたテモテへの第二の手紙からの宣教も今日が最終回です。この手紙は使徒パウロから愛する弟子のテモテを励ますために書き送られたものでありますが、過去4回の宣教を通して、皆さんはどのような励ましを神様から受けられたでしょうか。それとも何か耳が痛かったことがあったでしょうか。この宣教シリーズを終えるにあたり、過去4回の宣教の原稿を読み返してみましたが、再び教えられること、考えさせられること、身につまされることがありました。自分の宣教がすごいと自分に酔いしれているわけでは決してありません。わたしはただのスピーカーで、宣教の言葉がわたしの口から出た瞬間からその言葉は神様の言葉となり、神様がその言葉を福音宣教のために用いられます。

使徒パウロは、愛する弟子テモテに対して、神様と主イエス様は何のためにあなたを牧師として召し、用い、そして誰のために生かされているのかという使命を彼に再確認させます。そうすることでテモテの心を奮い立たせ、確認したことが確信となり、大きな励まし、希望、主と人々と教会に仕える力となるようにしたかったのだと手紙を読みながら強く感じます。

あなたはイエス様と出会い、救われ、仕える者、クリスチャンとして召され、牧師とされてエフェソへ派遣されているのですが、何のためですか。それは他でもない「福音のために生きる」ためでしょうとパウロ先生は確認させます。「福音」とは神様の愛であり、イエス・キリストであり、罪の赦しと死の苦しみからの解放の宣言です。しかし、「福音のために生きる」とは、イエス・キリストのために生きるということよりも、神様の愛を、救い主イエス様を必要としている人々のために生きること、罪に苦しみ、死の恐怖から解放される必要のある人々のため、慰めや励ましや希望を必要としている人々のために生きること、そのような人々と喜びも悲しみも分かち合い、励まし合いながら共に生きることであると聴いてきました。

わたしを含め、皆さんの多くはイエス様と出会い、このお方を救い主と信じ従うように招かれ、今は恵みのうちを生かされていますが、そのようにされたのは何のためであると主イエス様から聴いて知っておられるでしょうか。それは他でもない、神様の愛を、救い主イエス様を、救いと平安と喜びと希望を必要としている人たちに出会ってゆき、福音を伝えるためです。イエス・キリストの福音を伝えるという働きは、牧師や宣教師や著名なクリスチャンたちだけの使命ではなく、神様の愛の中に生かされていることを確信し、喜び、感謝し、大きな希望を主からいただいているすべての人々に神様から委ねられている働きなのです。

ある方から、先週の宣教は心が重くなる内容だったと正直に伝えられました。自分にはお勧めがあったように生きられない弱さがあるから、聴いていてとても辛く感じたとおっしゃいました。同じように感じられた方も他におられるかも知れません。いかがでしょうか。

先週の宣教が、信仰者としての自分の至らなさ、弱さが咎められ、戒められ、責任を負っていないことを責められたとお感じになられた方がもしおられるのであれば、宣教の準備の段階でわたしに祈りと配慮と言葉が足りず、躓かせることになってしまい、苦しめてしまったかも知れません。宣教の中でわたしが目指したかったことは、日本だけでなく、世界中のキリスト教会が直面している課題や問題などを紹介し、このままの状態では「教会」という信仰共同体が消滅してしまう危険にあることを包み隠さずにお知らせし、まず一緒に神様に祈りましょう、主に助けを求めましょう、心を一つに福音を伝えてゆきましょうと励ますことでした。もしその目標が達成できなかったとすれば、準備の段階でわたしに祈りと配慮が足りなかったと言わざるを得ないでしょう。大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。

しかし、その一方で皆さんにお勧めしたいのは、自分の信仰の弱さや未熟さを卑下したり、最初から無理と諦めないで、とにかく信仰を分かち合うことができるチャンスを与えてくださいと神様に祈ることから始めていただきたいということ。何事も最初が肝心です。出会いの初期の段階から自分は神様に愛され、イエス様によって生かされている者、クリスチャンであることを伝えることができるように助け導いてくださいと祈り求めていただきたい。そう求めれば、神様が聖霊をもってわたしたちを励まし、導き、言葉を与えてくださいます。そのように約束が与えられています。パウロはテモテに「神は、臆病の霊ではなく、力と愛と慎ましく生きる霊をわたしたち一人一人に惜しみなく与えてくださった」と言います(1:7)。とにかく、主には忠実に、人々には誠実に生きられるように主の励ましを祈り求めてください。自分で何とかしようと気負わずに、どうぞ遠慮せずに心の内を分かち合ってください。イエス様の福音を伝える仕事はみんなで一緒に祈りながらチームで取り組む仕事です。

さて、今朝の聖書箇所であるテモテの第二の手紙4章6節に、使徒パウロから弟子のテモテへ、このような言葉が書き送られています。「わたし自身は、すでにいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」と。パウロはこの地上での人生と使命がもうすぐ終わり、死を迎えることを受け入れています。この死というのは、殉教の死という意味です。

聖書にある記述と歴史的史実を照らし合わせて計算しますと、使徒パウロの誕生は西暦8年あたりで、殉教が西暦64年から67年とされていますので、彼は56歳から59歳の生涯であったと考えられます。現代であればまだまだ若い年齢層で、あと10年、20年は元気に働けそうに思える年齢です。しかし、キリストの福音のために生きるパウロの人生に終わりが近づいていました。テモテへの手紙を書き記す中で、過去の出来事が走馬灯のように浮かんだでありましょう。志半ばで死を迎えることは大変苦しいことですが、これまでの人生を振り返ることができることは幸いなことではないでしょうか。

看護師としてアメリカの病院で長年働き、患者さんの最期を看取ってきた人が、患者さんたちが死と向き合う中で悔やんだことの上位5つを紹介する記事を昔読んだことがありますが、その5つとは、1)自分自身にもっと素直に生きれば良かった、2)仕事ばかりに時間をかけず、家族との時間をもっと持てば良かった、3)自分の気持ちを正直に示す勇気を持てたら良かった、4)友達をもっと大切にして、もっと頻繁に連絡をとっておけば良かった、5)自分をもっと幸せにしてあげれば良かったというものです。皆さんにも当てはまる後悔があるでしょうか。他にも何かあるでしょうか。後悔することは数え切れないほどあると思います。

しかし、過去を振り返って悲しむのと、未来を見つめて希望を持つのと、あなたはどちらを選ばれるでしょうか。一番ベストな人生の終わり方は、主なる神様に信頼し、過去の間違いは主に委ね、今の苦しみや未来に向けた心配事もすべて主に委ね、過去と今を喜び、感謝し、未来に向かって平安と希望を持つということではないでしょうか。この地上での命を終え、神様の御前に立たされる時に、神様から「あなたは地上でよくやった。よく頑張った。あなたを誇りに思う」と労いの言葉をかけられたら、どんなに嬉しく、感動的でしょうか。

使徒パウロは、自分の地上での使命が終わることを神様の御心と信じて、感謝と感動を持って受け入れてゆきます。7節をご覧ください。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」とパウロは弟子のテモテに書き送っています。

ある人は言います。「戦うなんてまっぴらごめんだ、自分は平和に生きる。宗教があるから戦争がなくならないんだ」、「誰かに決められた道、人生のレールに乗っけられて生きて行くのはごめんだ、自分の生きたいように生きる」、「自分には信仰など必要ない、自分の好きなように生きて最後は死を迎えれば良い」と。しかし残念なことに、そのように考える人たちは重要なことを知らずにいます。神という絶対的な存在がおられること。人は自然発生して、自然に消えてゆく存在ではなく、神様に造られた存在であること。いま生かされていることには神様の目的とご計画があり、わたしたちには果たすべき使命があるということ。その使命に生きるために、人生は迷いや不安や苦しみとの戦いの連続であるけれども、イエス・キリストを通して神様から「信仰」が与えられていること。そして、この地上での人生が終わったら、正しい審判者である主なる神様の前に立つことになっていることを知らずにいます。

しかし、それらの真実を信じて生きられることはなんと幸いなことでしょうか。この地上での命が終わったとしても、「義の栄冠」を、つまり永遠の命を受けることができるならば、その「義の栄冠」を授けてくださる方、真実なお方がおられると信じて希望をもって生きられるならば、こんなに幸いなこと、安心することはないのではないでしょうか。

人生は戦いの連続です。しかし、なんのために生かされているのか、誰のために生かされているのか、なんのために苦労しているのかが明確に示され、判っていれば、こんなに幸いなことはないのではないでしょうか。この幸いを唯一与えてくださることが可能な主なる神様に求めるならば、誰にでも大きな希望が与えられます。「わたしを信じて、イエス・キリストを通して救いと希望と祝福を受け取りなさい」と今朝も神様から招かれています。

最後に8節の使徒パウロの言葉を読みましょう。「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」求める人には、誰にでも授けてくださるとあります。ですから、どうぞ、救い主イエス様を信じて、あなたの前に差し出されている神様の愛を、罪の赦しの宣言を、救いを、永遠の命の約束と祝福の希望を受け取ってください。神様はあなたを愛しておられます。