外圧に屈しない

「外圧に屈しない」 九月第四主日礼拝宣教 2021年9月26日

 ネヘミヤ記 6章1〜14節      牧師 河野信一郎

おはようございます。9月第四主日の朝を迎えました。今朝も賛美と礼拝を皆さんとご一緒にオンラインでおささげできる幸いを神様に感謝いたします。早いもので、4月から始まりました2021年度も、あっという間に半年が過ぎようとしています。

この半年間で皆さんが礼拝堂に集い、対面式で礼拝を共にささげることができたのは、26回の主日のうち6回(23%)のみでした。残りの20回(77%)はすべてオンラインのみで、それぞれの場所からささげました。先週も「礼拝堂に集う日を楽しみにしています」と嬉しい一筆箋を送ってくださった姉妹がおられましたが、そのように教会に、この礼拝堂に戻られることを心待ちにされている方々がおられることは、大きな励ましであり、感謝な恵みです。

しかし、様々なご事情があって、教会に戻ることが叶わない方々がおられることを祈りに覚えたいと思います。「大久保教会に帰りたい、礼拝したい」という篤い思いがあっても、どうしても教会に戻ることができない方はどうぞ焦ってご自分にプレッシャーをかけたり、戻れないことを悲しまないでください。主に希望を抱き、招きの時をもうしばらくお待ちください。愛に満ちた神様は最善の時を準備くださり、ゴーサインを必ず出してくださるはずです。

臨時執事会が昨日の夕方に開かれ、30日に緊急事態宣言が解除される場合、来主日の3日から対面式の礼拝を再開することを確認しましたが、コロナウイルス感染が完全に終息したわけではありません。これからもウイルスとの長い付き合いになることでしょうから、教会でも感染防止対策をしっかり継続してゆきたいと思いますのでご協力いただきたいと思います。

来週の日曜日に皆さんを3ヶ月ぶりにお迎えすることを嬉しく感じていますが、どうぞそのはやる気持ち、高ぶる思いを少しばかり静めていただき、ゆったりとした気持ちでお戻りいただければと思います。お祈りという深呼吸をこの1週間何度もしていただければと思います。教会までの道のり、教会に戻れる幸いを一歩一歩踏みしめながら、車や地下鉄やバスに乗る中でじっくり味わいながら、お気をつけてお帰りください。お迎えするわたしたちも、だいぶ緩んだ気持ちをしっかり引き締め、皆さんのお帰りをお待ちしております。ご一緒に憐れみ深い神様に賛美と祈りと礼拝をおささげし、イエス様を救い主と告白し、み言葉を通して新しい力と勇気を与えられ、教会を形づくる業と福音を宣べ伝える業に励みましょう。

さて、8月からネヘミヤ記をご一緒に聞いております。宣教をさせていただくわたしにとって、様々なことを教えられ、励まされていて、神様は素晴らしいなぁ、神様に信頼して仕える働き人もすごいなぁと毎回感動の連続ですが、皆さんはどのような気づきや励ましを宣教から受けておられるでしょうか。心に何か変化はあったでしょうか。8月下旬でありましたが、ある姉妹からメールをいただき、毎週のネヘミヤ記の宣教から感じたこと、示されたこと、新しい気づきなどを4回分、とても丁寧に要約し、分かち合ってくださり、わたしは大変励まされました。こんなにも丁寧に聴いてくださっているという事実を知って感激しました。

聖書のみ言葉をよく咀嚼し、できる限り分かりやすくお伝えしようと聖霊の励ましと導きに従うようにしていますが、理解に苦しむ箇所も時々出てきて、どうやって伝えることが神様の御心なのだろうかと悩みながら、祈りながら、聖書箇所を何度も読み返し、語る言葉を選び、宣教を組み立ててゆきますが、オンラインのみでカメラに向かって宣教するのと、礼拝堂に集われた聴衆を前に宣教をするとではダイナミックさも、緊張感もだいぶ変わります。オンラインによる配信には利点、良い部分も多々ありますが、礼拝堂に集う時に味わう良い意味での緊張感、臨場感に敵うものはないと思います。みんなで集い、礼拝を共にささげることを喜び、この恵みに応えて生きること、神様の御心を第一に聴いてゆきたいと思います。

さて、このネヘミヤ記を読む中で際立つのは、やはりネヘミヤという人のリーダーシップの凄さです。この人は神様に選ばれた本当に有能かつ力強いリーダーであり、神様から託された使命に忠実に生きた人でありました。NHKの「プロフェッショナル〜仕事の流儀〜」や昔の「プロジェクトX」のような番組で紹介されてもおかしくないようなリーダーです。

彼のリーダーシップで長けている点を以前紹介しましたが、1つ目は神様から委ねられたプロジェクトを完成するという強い「使命感」。2つ目はすべてのことには神様が関わってくださっているという「確信を持っている」こと。3つ目は物事の「優先順位を明確に」し、それを人々にはっきり伝える能力。4つ目はプロジェクトを完成させるために「達成可能なゴールを段階的に設定」し、人々を励ます能力。5つ目は常に神様に「祈る」人であったということ。

前々回の4章では、内外から同時に起こるチャレンジ、試練に対してどのように対応したのか、まず祈って、優先順位を定め、働く人と護衛に当たる人を分け、それぞれを励まして働きに着かせたことを聞きました。前回の5章では、イスラエルのコミュニティーの中で起こっていた貧富の差に由来した不正、差別や貧困の苦しみに対してどのように向き合い、問題や課題に対処し、コミュニティーの分裂を防き、民をどのように励ましたかを聴きました。

今朝ご一緒に聴く6章は、4章にも出てきますエルサレムを四方から取り囲む地域で大きな力を持つ人々から度重なる重圧をかけられるという箇所で、今朝の宣教の主題を「外圧に屈しない」としました。皆さんも日々何かしらの圧力を外部から受ける経験をされて日々苦慮されていると思います。外部と言っても色々とありますから、自分以外を「外部」と捉えても良いと思います。つまり自分の親や義理の親、配偶者、兄弟、親族、友人知人、学校や職場の上下関係にある人などすべて含みます。教会の中で圧力があってはならないのですが、残念ながら有るところではそういう力が働いてしまい、是正措置が必要となる場合があります。

さて、今回はネヘミヤが外部から受けた圧力に集中しますが、今朝の箇所を最後まで読めば、外圧はコミュニティーの内側にも存在していたことがわかります。つまり内側にも外敵に寝返る人、同胞を裏切る人、意見が一致しない人は必ず存在するということで、愛と忍耐と祈りが必要であることを教えられます。わたしたち一人ひとりの周りには、わたしたちを神様から引き離し、心に迷いや不安や恐れを植え付けようとする悪の力が限りなくあるということも教えられます。しかし、そういう戦いの中で何が重要かを神様は教えてくださいます。

またネヘミヤが外圧を受けていたというのは、なにも4章や6章に始まったことではありません。今回出てくる北のサンバラト、東のトビヤ、南のゲシェムの名前は2章の早い段階から記され、ネヘミヤが総督としてペルシャの王から派遣されたことに機嫌を損ね、ネヘミヤたちを嘲笑い、さげすみ、挑発したことが記されています。3章後半には城壁再建を始めたことを聞いたサンバラトたちは「怒り、激しく憤慨し、嘲笑い」、4章では共謀してエルサレムに攻め上り、混乱に陥れようとした」ということが記されています。つまり外部からの攻撃、誹謗中傷はエルサレムに戻る前からずっと続いていたということです。しかし、とても重要で、わたしたちが注目すべき点は、その外圧にどのように対応するかです。

6章1節から2節をまず読みましょう。「サンバラト、トビヤ、アラブ人ゲシェム、その他わたしたちの敵は、わたしが城壁を再建し、崩れた所が一つとして残らず、あとは城門に扉を付けるだけだということを耳にした。サンバラトとゲシェムはわたしのもとに使者をよこして、「オノの谷にあるケフィリムで会おう」と言った。彼らはわたしに危害を加えようとたくらんだのであった」とあります。工事は順調に進み、あとは城門に扉を取り付けるだけであったとあります。もう99%完成し、10ある門に扉を取り付ければ、外敵からの攻撃を寄せ付けない備えが完成するところまできました。ここに「わたしが城壁を再建し」とありますが、ネヘミヤには自分が城壁を完成させたという傲りは全くなく、これは外敵から見た視点であり、彼らがネヘミヤのリーダーシップの強さを認めていた証拠でもありますが、それを認めつつもどうしても許せない、気に食わない、そういう怒りがネヘミヤの命を奪ってイスラエルを混乱させるという最終的な手段に出ます。

しかし、これまでの圧力、嫌がらせ、敵対心を経験してきたネヘミヤは敵の企みをすぐに感知し、敵の罠に陥りません。信仰と忍耐と礼儀を持って拒絶します。彼は軽くあしらうこともできましたし、無視することもできました。しかし、彼は神様から委ねられた使命を果たす責任があると3節で言います。「そこでわたしは使者を送って言わせた。『わたしは大きな工事をしているので、行けません。中断して出かけたのでは、どうして工事が終わるでしょうか』」とありますが、まだ使命は終わっていないからこの恵みから出ることはできないと真実を語ります。ネヘミヤは神様を第一にし、神様の御心を第一に据え続けるのです。

今日生かされているわたしたちの使命、神様から託されている大きなプロジェクトは何でしょうか。それは二つあり、どちらも重要なことです。一つは「礼拝」です。もう一つは「隣人に神様の愛を分かち合うという伝道」です。クリスチャンは日曜日だけがクリスチャンではありません。家庭でも、職場でも、生かされている場所で毎日クリスチャンです。日曜日に礼拝だけささげるのではなく、毎日の生活の中で神様を礼拝し、賛美し、祈りの生活を送ります。神様の愛を分かち合うのも毎日の業です。しかし、その恵みからわたしたちを引き離す力が存在し、わたしたちを恵みの外側に誘い出す力があります。しかし、その力に負けない方向は、神様から受けている召命、使命感を持ち続け、神様に信頼することです。

ネヘミヤをどうしても殺したい人たちは次から次へと脅迫してきます。6節と7節ではネヘミヤに不利になる「うわさ」を流すと脅迫してきます。しかしネヘミヤは決して屈しません。「あなたの言うことは事実に反する。あなたの勝手な作り事だ」と反論します。5回にわたる脅迫状に怒り心頭であったろうと思います。わたしであればとっくに堪忍袋は切れています。しかし、ネヘミヤの素晴らしいところが9節に記されています。「彼らは皆、わたしたちの手が弱り、工事は完成しないだろうと言って、わたしたちに恐怖を与えている。神よ、今こそわたしの手を強くしてください」とありますが、彼は神様に助けを祈り求めています。わたしたちも外からプレッシャーを受ける時、まず神様に心を向けて助けを求めましょう。

さて1節から9節は外圧に関してでしたが、10節から14節はコミュニティー内に存在した外圧に屈しないネヘミヤの強さが記されています。内側の者が外敵に買収されてネヘミヤを殺そうとしていた。10節に「わたしが、メヘタブエルの孫でデラヤの子であるシェマヤの家に行くと、彼は閉じこもっていた。彼は言った。『神殿で会おう、聖所の中で。聖所の扉を閉じよう。あなたを殺しに来る者がある。夜、あなたを殺しにやって来る』」とあります。

デラヤという人が歴代誌上24章18節に出てくる祭司であれば、息子のシェマヤも祭司であったと思います。普通なら信頼性の高い人のはずですが、外敵はこともあろうか祭司を買収し、ネヘミヤの命を狙い、心に恐怖を受け付けようとします。ネヘミヤが訪ねてきたのに「彼(シェマヤ)は閉じこもっていた」とありますが、確固たる理由は分かりません。もしかしたら、ネヘミヤを裏切ったという後ろめたさから会うことを避けたのかもしれません。

ネヘミヤは聡明で、謙遜で、律法にも祭司職にも理解のある人でしたから、祭司以外の者が神殿の聖所に入ることはできない、もし入ったらウジア王のように重い皮膚病になって苦しむこともわかっていたようです。ですから、命の危険を察知しても果たすべき使命から逃げない、入ってはいけない聖所には入らないとはっきり断って、外からの圧力に屈することなく、また誘惑の罠に陥りません。わたしたちにも純真な信仰、謙遜さ、誠実さが必要であることをここから学ぶことができますが、それらを与えてくださるのも主なる神様です。

神様には忠実に、人々には誠実に、そして謙遜に生きる人には、神様に信頼し続ける力と忍耐、目の前の事柄に優先順位を正確に設定できる判断力、触れてはいけないものには触れない正しさ、誘惑に陥らないための知恵と勇気が神様から与えられます。

最後に14節を読みたいと思います。「わが神よ、トビヤとサンバラトのこの仕業と、わたしを脅迫した女預言者ノアドヤや他の預言者たちを覚えていてください」とあります。9節とこの14節は、紛れもなく神様へのネヘミヤの祈りです。ここでは自分を脅迫し、恐怖を植え付け、神様からいただいている使命から引き離そうとする外圧、そして内側にある裏切りなどに対して、神様に公正な裁きを委ねています。裁くことは自分の仕事ではないとネヘミヤはしっかり理解していました。

ローマの信徒への手紙12章19節に「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」とあります。もし今後外からの圧力があったら、すぐに神様に祈って、すべてを委ねましょう。それがもっとも懸命なことであり、神様が喜んで助けてくださることです。