「わたしたちの力の源」 十月第二主日礼拝宣教 2021年10月10日
ネヘミヤ記 7章72b〜8章12節 牧師 河野信一郎
おはようございます。オンラインで礼拝にご出席くださる皆さんを心から歓迎し、感謝いたします。礼拝堂におられる皆さん、お帰りなさい。今朝もわたしたちが礼拝者として神様の御前に置かれています事、賛美と祈り、礼拝をおささげ出来る幸いを神様に感謝いたします。
緊急事態宣言がようやく解除され、新規感染陽性者数や重症者数が減少してきている状態を喜び、徐々に日常生活も安定して行くかなぁと淡い期待感を抱き始めた頃、先週木曜日の10時41分頃に大きな地震が首都圏で発生し、わたしたちは心と体に大きな揺さぶりを受けました。動揺しました。10年ぶりのこの大きな地震によって鉄道や高速道路などの交通網や電気や水道のライフラインも止まる所が多くあり、帰宅困難者が大勢出ました。「明日は花の金曜日〜、嬉しいなぁ〜」と楽しみにしておられた方々の多くは、次の日、通勤・通学のために長蛇の列に長時間並び、「三密」などまったく無視したぎゅうぎゅう詰めの電車やバスに乗車することになり、期待した花の金曜日が「魔の金曜日」になるとは思わなかったと思います。皆さんの中にも昨日は疲れて何もできなかったという方がおられるのではないでしょうか。
今回の大きな地震は、都心の鉄道や水道などインフラを直撃し、都市基盤のもろさを改めて露呈する形となり、10年前の3.11の教訓がまったく生かされていない、都心の体質と体制が何も変わっていないことを証明する形になりました。向こう1週間程度は余震に気をつけて、という呼びかけがありますが、この20ヶ月間コロナウイルス感染防止のために教会に戻り、礼拝堂で賛美と礼拝をささげることが断続的になったことを何度も経験したわたしたち。その辛さからやっと解放され、気持ち的に少し余裕ができるかなぁと楽観視するタイミングで、今度は地震によるインフラ崩壊で教会に戻れないということもあり得ます。そういうことがないように懸命に祈るわたしたちですが、共に礼拝をささげることができなかった苦しい時期を味わったからこそ、日曜日毎に教会に戻れる幸いを当然とは思わず、礼拝をおささげできる恵みを共に喜び、感謝し、このような日々が続くことを祈り続けたいと思います。
さて、緊急事態宣言が解除され、感染者数や重症者数が減少してゆく中、わたしたちの生活が徐々に落ち着き始める中で、日常が戻ったら何をしたいか、何をするかと考え、いろいろと計画を立てると思います。これまでずっと我慢し、色々なものを諦めながら頑張ってきた自分や家族にご褒美を!と思って、遊びやショッピングに出かけたい、故郷に帰省したい、どこか旅行したい、久しぶりに友達と会ってゆっくり話したい、この間やり残してきたことを成し遂げたいと願っておられる方も多いと思います。みんな、現実から少し解放され、ゆっくり時間を過ごしたいと思っておられるでしょう。みんな労いが必要だと思います。
しかし、これから乾燥した寒い冬に向かってゆく中で、コロナ感染の第六波やインフルエンザの流行が懸念されていますので、慎重の上に慎重を重ね、できる限りゆっくり、活動とその範囲を徐々に広げてゆくことが必要ではないかと思います。今からは、忍耐するというよりも、はやる気持ち、強い欲望や衝動を抑える自制心が必要な時期を過ごす事になります。つまり、わたしたちの気持ちが緩む中で、何を重要事項として選びとってゆくかが大切で、勝負の分かれ目になると思います。今朝は、そういう部分を聖書から聴きたいと思います。
さて、今朝は少し難しいお話をします。紀元前586年に南ユダ王国がバビロニア帝国に制圧され、ユダの王を始め政治家や宗教指導者、祭司など主だった人々が捕囚の民としてバビロニアへ連行され、その異教の地で約50年過ごしました。バビロニア帝国はその後ペルシャ帝国に制圧され、538年に当時のキュロス王によってエルサレムへの帰還が許され、まずゼルバベルと第一陣が帰還し、最初にその地で祭壇を築き、それから神殿を再建し始めます。その約80年後に祭司エズラと第二陣がエルサレムに帰還し、神殿を完成させ、その13年後に総督ネヘミヤと第三陣がエルサレムに戻って城壁を完成させましたが、それまで約153年間、イスラエルの民は恐れと不安と希望のない日々、緊張の連続の日々を過ごしました。
頑張って再建した神殿もソロモン王が建築した最初の神殿の素晴らしさを知っている長老級の人々から比較され、なんとも貧弱な神殿だと酷評されました。また他の時には捕囚を免れてエルサレムに残留した人々と捕囚から帰還した人々の間に亀裂と不和が生じていがみ合います。一つの民族であっても貧富の差は徐々に拡大し、貧しい民の中から不満が出てきます。外側からはずっと妬みや嘲りや挑発を受け、四方八方から敵に同時に囲まれ、いつなんどき敵が押し寄せてきて戦争が始まるかという不安と恐れが100年以上常につきまといました。
帰還が許され、荒れ果ててしまった無残なエルサレム、破壊された神殿と城壁を目の当たりにしたゼルバベルと第一陣の帰還者たち、外部からの度重なる妨害を忍耐し続けて神殿を完成させたエズラと第二陣の帰還者たちは平和を求めて祈ります。ネヘミヤと第三陣の帰還者たちが城壁を修復・建築し、見張り台も複数建て、最後に門に扉を取り付けます。ネヘミヤたちはたった52日間で城壁工事を完成させます。それが先週までの宣教概要になります。
しかし、皆さんの中には、「あれ、待てよ。四方から敵が何度も妨害してきて苦しんだというならば、どうしてエルサレムの城壁を最初に建築・修復しなかったのか。なぜ最初に祭壇を築き、神殿を建て、それから城壁を立てたのか、順番が間違っていないか。敵からの妨害を阻止するためには、まず城壁の再建と補強に取り組み、強固な城壁が完成してから祭壇なり神殿を築く方が得策ではないか」と考える方もおられると思いますが、神様の御心、お考え、帰還の民に期待したことは、廃墟の中からの再出発の中心にまず神様を据える、これからのイスラエルの新しい歴史の中心に神様をお迎えし、主に従うという決断が最優先されました。
ですから、外部からの妨害や攻撃のリスクがいくら高くても、まず祭壇を築き、神様を礼拝し、そして神殿の建築、そして城壁の再建築という順序をイスラエルは選び取ったのです。エルサレムに戻った民の帰還後は内外からのチャレンジ、試練、戦いの連続でしたが、彼らが神殿と城壁を完成することに集中できたのは、そこに常に神様の助けがあり、建築工事に必要な知恵も、一致団結する力も、勇気もすべて神様が与えてくださったからでした。
わたしたちがここから学びたい真理・恵みは、わたしたちの心の中心に主なる神様をお迎えし、この神様に従うことを何よりも尊いこと、重要なことと信仰をもって選び取ってゆくならば、神様はいつもわたしたちと共にいてくださり、日々戦いの多い歩み、人生を助け、守り、導き、そして祝福してくださるという神様の約束です。
コロナが収まりつつある中で、わたしたちはこれまで我慢してきたことを抑えきれなくなって、あれもこれもしたい、あっちにもこっちにも行きたいと思って、そのはやる気持ちを制御できなくなっているのではないでしょうか。しかし、そういう心の中心に神様を、イエス様を置かないと、いずれ躓いて大きな怪我をしてしまう事になります。つまり、また偶像礼拝に走ってしまい、神様に対して罪を重ねる事になるという事です。
そもそも一つの国・民族イスラエルが分裂し、北イスラエルがアッシリアへ、南ユダがバビロニアへ捕囚の民とされていった最大の原因・理由は、彼らの心から神様を追い出し、偶像礼拝に走って罪を犯し、神様との関係性を台無しにしたからです。しかし、御顔に泥を塗られた形の神様は、イスラエルをエルサレムに再び戻してくださった。それは神様がイスラエルを愛し、イスラエルとの関係性を修復し、彼らを祝福したかったからです。エルサレムに戻ってきて、彼らが最初にしなければならなかったのは、これまでの罪を悔い改め、神様に愛され、赦され、戻されたことを感謝し、神様に従ってゆくことを「礼拝」という形で、み言葉に聞き従うという形で喜びを表し、主の憐れみと恵みに応答する事でした。
さて、今朝はネヘミヤ記の8章の前半に聞きますが、これまで力強く民を励まし導いてきたネヘミヤは影を隠し、祭司エズラが登場します。8章から10章まではエズラを中心に物事が記されており、エズラ記とネヘミヤ記が一つの書物であったことが分かる箇所です。まず7章72節の後半から8章2節までを読みます。「第七の月になり、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日(ついたち)であった」とあります。
第七の月とは、イスラエルの民のカレンダーでは秋の刈り入れと収穫祭も終わり、新しい年を迎える月で、第七の月の一日とは新年最初の日、日本でいえば新年の元日です。その日に広場でお祭りが行われていました。その新しい年の始めに当たって、エズラによってモーセの律法の書、つまり聖書が朗読されました。それを民がまず求めたと記されています。3節の後半には、神のみ言葉を理解できる年齢の人々に向かってエズラが「夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた」とあります。
聖書のどこから朗読したのかという問いが起こると思いますが、8章13節以降に「仮庵の祭り」のことが記されていますので、レビ記17章から26章を読んだのではないだろうかと考えられますが、わたしたちが手にできているこの小さな聖書ではなく、一文字一文字丁寧に書かれた大きな巻物が持ってこられ約6時間をかけて朗読されます。5節に「エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった」とあります。私が神学生時代に1年ほど通った教会の礼拝では聖書朗読の時は皆立ち上がり聞きましたが、それは神様の言葉を重んじるという敬意の表れであります。
聖書が朗読される時、エズラの傍に13人のレビ人が立ったということが4節と7節に記されていますが、彼らは祭司エズラを補助した人たちで、7節の後半から8節を読みますと、彼らは「その律法を民に説明した」とあり、また「彼らは神の律法を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した」とあります。聖書はヘブル語で記されていましたが、帰還した民の中にはアラム語などを話す人々もいたので聖書をアラム語などに翻訳し、補足説明しながら読んだので、語られる言葉を皆が理解することができたということです。そういう素晴らしい働きを担う人々が存在しました。この大久保教会にも素晴らしい賜物が与えられている人々がたくさんおられますが、いつも感謝したいと思います。
9節の後半を読みますと、「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた」とあります。なぜ人々は泣いたのでしょうか。それは自分たちのこれまでの生活がいかに律法に反していたのか、つまり神様の思いから外れた生活をしていたのかを悟り、悔い改めの涙を流したのです。わたしたちは聖書を読む中で、悔い改めの涙を流すことがあるでしょうか。そういうみ言葉によって自分の弱さ、罪を指摘され、涙を流すこともあり、神様の愛に触れて感動の涙を流すこともあるのではないでしょうか。もしそういう経験はないということならば、聖書を神様から自分への言葉として読み、語りかけを真剣に聞いていないからかもしれません。
9節と10節。悔い改めの涙を流している人々に対して総督ネヘミヤと祭司エズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我々の主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と励まします。自分の弱さに目を向けるのではなく、わたしたちを愛してくださる神様に目を向け、救い主イエス様を通してこのお方の愛に生かされていることを喜び、感謝し、この愛を分かち合うことがわたしたちに求めておられる神様の御心であり、わたしたちの力となります。