「復活を信じる者の幸い」 四月第四主日礼拝 宣教 2022年4月24日
ヨハネによる福音書 20章24〜29節 牧師 河野信一郎
おはようございます。4月も最後の主日を迎えました。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。今週金曜日からゴールデンウィークとなりますが、ここ1週間の東京都の感染者数の平均は5508人で、第7波に入ったと言われていますので、あまりはしゃぎすぎないほうが良いように思います。ゴールデンウィークの期間も日々ゆっくり安全にお過ごしいただきたいと思います。主のお守りがありますようにお祈りしています。
さて、宣教に入る前に3つだけ短く案内をさせていただきたいと思います。一つは今夕の夕礼拝のことです。宣教師として来日されてから40周年をお迎えになられたC・W宣教師が「イエスの誘惑と私たちの誘惑」という主題でルカによる福音書4章からメッセージしてくださいます。オンラインでけっこうですので、どうぞ夕礼拝にご出席ください。W先生は祈りの人で、祈りの喜びを知っておられる方です。私たちが日々格闘している様々な誘惑に打ち勝つ方法をイエス様の言葉から導いてくださると信じています。
もう一つは、水曜日の祈祷会へのご案内です。先週20日からルカによる福音書を1章から24章までのすべてを共に聴いてゆく旅に出ました。最低でも2年を要すると思います。祈祷会に出席いただくことがベストですが、奨励の部分をオンラインで聴くこともできますし、ご希望の方には原稿をメールでお送りすることもできます。ご希望の方はお知らせください。
3つ目、2022年度に入って早一ヶ月が過ぎようとしていますが、受難節とイースターがありましたので、今年度の年間聖句である詩編34編から宣教することができませんでしたが、来たる5月1日の礼拝で主題の宣教をします。ゴールデンウィークと重なるため礼拝に出席できない方もおられるかもしれませんが、とても大切なみ言葉の分かち合いとなりますので、お休みされる方は、後日ユーチューブチャンネルで録画をご覧いただきたいと思います。
さて、先週の朝は、新来者の方々が久しぶりに与えられ、たくさんの方々と主イエス様のご復活をお祝いできて本当に感謝でした。しかし、ご病気や様々なご事情で礼拝に出席できない方々も複数おられ、残念に思いました。オンラインで礼拝をささげてくださっている方々やいつも出席くださっている方々が礼拝堂にいらしていたら、優に40名を超える出席者が与えられたのではないかと、ちょっぴり悔しい思いにさせられました。しかし、すべてのことには神様のご計画が恵みとしてあります。ですから、神様からの豊かな恵みに対して「悔しい」という思いを抱いてはいけないのだと感じ、御前に悔い改めさせられました。
さて、大きな喜びの日に、その喜びの場にいられないことは、その本人が最も悔しく辛いにさせられると思います。皆さんには、そのような経験はありますでしょうか。大切な喜びの日、非常に重要で意味のある日に何かの理由で立ち会えない。たぶん、それぞれにたくさん、そして色々とあるのではないでしょうか。私は、アメリカのフットボール、バスケットボール、ベースボールが大好きですが、応援するチームの敗北が決定的と思って諦めてトイレに行っている間に、なぜか奇跡的に大逆転して勝利している場面をこれまで何度も経験したことがあります。狐につままれた状態です。応援するチームが試合に勝ったことは確かに嬉しいのですが、逆転の瞬間をハイライトで見るまでは、勝ったと想像しがたく、まともに喜べないのですが、ハイライトを見て雄叫びをあげるような、そういう実に単純な人間です。我が家の子たちは、私の顔を見るだけで、ひいきのチームが今日勝ったか負けたか分かります。
さて、弟子としてガリラヤから3年間もイエス様に従ってきた人々の前で、イエス様は群衆に捕らえられ、恐ろしさのあまりに弟子たちはイエス様を見捨てて、保身のために一目散に逃げてしまいます。翌日の朝9時にはイエス様は非人道的な極刑である十字架にかけられ、午後3時には光を失った地上の中で、イエス様は壮絶な死を迎えます。弟子たちはその死の理由と意味と目的をしっかり把握していませんでした。
自分たちの罪や弱さの代償を支払うため、わたしたちの身代わりとして十字架上で贖いの死を遂げてくださったイエス様の死は、逃げ去った弟子たちにとって、非常に大きな悔やみ、痛み、苦しみになったと思われます。逃げてしまったことを悔いても、悔いても、悔いきれない、心に大きな穴が空いてしまったと思います。この後悔を一生背負って行かなければならないと思ったかもしれません。大きな、大きな重荷を背負った気持ちであったでしょう。
しかし、そのような弟子たちに女性の弟子マグダラのマリアから「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と告げられ、ペトロともう一人の男性の弟子が急いで墓へ向かいます。「そんなわけがない。そんなこと有りえない。イエス様の遺体がないって、一体どう言うことなんだヨォ!」と心の中で大きく叫びながら全速力で走って墓へ向かったでしょうか。彼らは何を思いながら墓へ向かったでしょうか。
彼らが墓に着いて、墓の中を覗くと、イエス様を包んでいた亜麻布が置いてありました。彼らは、そこで、その時、イエス様のご遺体が墓にない「事実」を信じたと20章8節に記されています。この信じたのは、ご遺体が墓にないという事実を信じただけで、イエス様のご復活を信じたわけではありません。何故ならば、続く9節に「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」とあるからです。彼らは、イエス様のご遺体がなくなってしまったことに大きな失意を味わったのではないでしょうか。イエス様が捕らえられ、十字架に架けられて死に、そしてそのご遺体がない。トリプルパンチを浴びせられ、特に心はノックアウト寸前であったと思います。
しかし、その後、復活されたイエス様はマグダラのマリアに現れます。彼女を大きな喜びと希望で励ますため、闇の中から光の中へ彼女を移すために現れてくださいます。復活の主イエス様に出会ったマリアは、弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、それ以外にもイエス様から伝言されたことをすべて伝えます。それがイースターの朝の出来事です。そのことをマリアから聞いた弟子たちは何を思ったでしょうか。
しかし、19節によると、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、男性の弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。彼らもユダヤ人なのに「ユダヤ人を恐れて」というのはおかしな話に聞こえるかもしれませんが、弟子たちが恐れていたのはイエス様を十字架に架けて殺した大祭司や律法学者や長老と言った人々です。彼らは墓の番をしていた兵士たちからイエス様のご遺体がなくなったことを聞いていました。弟子たちが奪い去ったと考え、血眼になって弟子たちを捕らえようとしていたと思われます。
弟子たちもそのような危険を察知して、捕まる恐怖を抱きながら、身を潜めていたと思います。ロシアの攻撃を恐れ、防空壕に身を寄せている人々の怯えた姿をわたしたちは報道で見ていますが、ウクライナの人々、ミャンマーの人々、暴力に支配されている人々、いつ捕まって殺されるか分からない恐怖と戦っている人たちと重なります。この日本で戦争を経験された80歳代、90歳代の方々も、明かりをすべて消した家の中で生活すること、狭い防空壕の中で身を寄せ合って、身を潜めていた辛い経験が重なるかもしれません。恐怖以外の何物でもないと思います。闇です。絶望的状態の中に弟子たちもいたと考えられます。
しかし、週の初めの日の夕方、後悔と恐れと絶望の中にあった弟子たちの只中に復活されたイエス様が来られて、「あなたがたに平和があるように」と言われるのです。この「平和があるように」という言葉は、「安心しなさい」という意味でありますが、「わたしはあなたを赦す」という本当に意味があったと思います。イエス様は人々の罪の赦しの証であるイエス様の手とわき腹とをお見せになったとあります。弟子たちは、裏切ったイエス様に「赦された」のです。これまでの弱さ、間違い、裏切り、すべてが赦されたのです。絶望の中にあった人々が、復活のイエス様によって、人生最大の大逆転勝利を味わった喜びの瞬間でした。
しかし残念なことに、その人生最大の喜びの瞬間を他の弟子たちと一緒に味わえなかった弟子が一人いました。24節に記されています。その人はトマスです。どういうわけでしょうか、彼は復活されたイエス様が現れたとき、弟子たちと一緒にいなかったのです。どこに行っていたのでしょうか。お手洗いでしょうか。どこかで一人で隠れて泣いていたのでしょうか。やけ酒を飲みに何処かへ行っていたのでしょうか。分かりませんが、分かる事実は、彼は復活したイエス様と再会できなかったということです。部屋に戻ってきたら部屋の雰囲気が劇的に変わっていて、弟子たちの顔は喜びでいっぱい。どうしたのだろう。極度の恐れが原因で気がおかしくなってしまのかと思ったでしょうか。25節、「そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』」と言うのを聞きます。この「言う」は「言い続けた」と言う意味です。
トマスはこの言葉をどのように捉えたでしょうか。彼は、自分をなんと不運な男なのかと思ったでしょうか。自分だけ取り残された、自分だけ除け者にされたと感じたかもしれません。彼はつむじを曲げて、意固地になって、心が硬くなってしまい、みんなと喜ぶことを拒否してしまいました。トマスは言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」、「イエス様の復活を信じない」と言うのです。彼の気持ちが分かる方もおられると思います。
わたしもすぐに拗ねるところがあり、頑固になることがあります。懐疑的な人は、本当に面倒くさいですね。そうではないでしょうか。トマスは、主イエス様の復活を信じるのに、目で「見る」だけでなく、手で「触る」ということを求めるのです。自分で確かめないと絶対に信じないタイプの人間です。皆さんの周りにもそのような方がおられるでしょうか。あるいは、あなたがそのようなタイプの人でしょうか。そういう人もイエス様に愛されています。
26節をご覧ください。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあった」とあります。それなのに「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われるのです。復活された主イエス様を見た弟子たちと見ることができなかったトマス、一緒に1週間過ごすのはさぞかし大変であったと思います。彼らはどのように日々を過ごしたのでしょうか。ユダヤ社会では、過越の祭が金曜日の日没まで続き、その後は安息日ですから、家の中の同じ空間に居続けることは本当に大変であったと思います。しかし、ちょっとだけ先走りますが、トマスはそれでもそこに居続けたので、後に祝福を受けていきます。他の弟子たちもトマスと一緒に居続けたので祝福に与ります。教会の中でも色々とありますが、それでも共に生きる時、祝福が与えられてゆきます。
話を元に戻しましょう。ぎこちない空気が漂う真ん中に、復活のイエス様が再び現れます。何のためでしょうか。弟子たちの中に「平和」がなかったから、特にトマスの心に「平和」がなかったからです。トマスにはまだ「あなたは赦された」という宣言がなかったので、彼の心は悔やみや妬みや不満などでドロドロの状態であったはずです。そのようなトマスに「あなたの罪は赦されている。安心しなさい。喜びなさい。」と言って光の中に招くために、復活の主は来られたのです。余談ですが、二週連続、日曜日に復活の主イエス様が弟子たちに現れたので、弟子たちは日曜日を「主の日」と定め、それが今日まで続いているわけです。
さて27節。1週間前にトマスが言った言葉をイエス様はトマスに返します。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と。イエス様は、トマスのいじけた言葉、頑固になった言葉を聞いていたのです。それはつまり、イエス様はわたしたちの声や言葉、心の中に思ったこともすべて知っておられると云うことではないでしょうか。そのように、わたしたちの心の状態を気にかけてくださるのがイエス様なのです。それほどまでにわたしたちは大切に思われているのです。
イエス様はトマスに言います。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。復活の主イエス様は、トマスをイエス様の甦りを信じる者に変え、彼の心を大いなる喜びで満たし、彼をこれから主のご用のために豊かに用いるために出会ってゆかれます。怒りや恐れから喜びと平安へ、絶望から希望へ、闇から光の中へと招くためです。
復活されたイエス様に出会い、そのイエス様の愛に気付かされたトマスは、あなたこそ「わたしの主、わたしの神」と告白し、賛美をささげます。そのようなトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいます。他の聖書訳では、「見ないで信じるのが信仰です。信じる人は幸いです」と訳されていました。
主の年2022年に生きるわたしたちは実際にイエス様に会ったことも、触れたこともありませんが、復活の主イエス様の言葉がいつも与えられています。聖書に神様とイエス様がいかにわたしたちを愛してくださっているかが記されています。聖書を読み、祈り求めないとイエス様に出会う幸いを、恵みを、主の愛を受けることはできません。聖書を通して、教会を通して、礼拝を通して、復活の主イエス様に出会い、日々を共に歩ませていただきましょう。