「長生きしたい人、この指とまれ」 五月第四主日礼拝 宣教 2022年5月22日
詩編 34編12〜15節 牧師 河野信一郎
おはようございます。礼拝堂に集っておられる皆さん、そしてオンラインで出席されている皆さんとご一緒に今朝賛美と礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝します。今朝の大久保教会は、副牧師を宣教者として他教会へ派遣したり、子どもたちの通う保育園の別のクラスでコロナ感染陽性者が出たとのことので大事をとって欠席されると連絡があったり、海外で学んでおられる息子さんの高校卒業式と娘さんの大学の卒業式に出席するために旅行に出かけられた家族がおられたりで、普段よりも10名近い方々がここにおられないのでとても寂しく思うのですが、もう一方では、今朝の礼拝が恵みと喜びがいっぱいで、とても感謝で、今朝の礼拝に出席された方々は神様からさらなる祝福を受けておられると思います。
今朝は、アメリカの私の出身教会ガーデナ・トーランス南部バプテスト日本語教会から素晴らしい音楽の賜物が神様から与えられている青年をお迎えし、特別賛美を2曲ささげてくださいました。昨年ミシガン大学の芸術学部ビオラ科を首席で卒業され、その後も全米トップレベルの音楽環境に自らを置いて研鑽を積んでいる兄弟です。妹さんも素晴らしいチェリストですが、ピアノ奏楽者のお母様と三人で幼い時から礼拝の前奏や特別賛美をずっと担ってくれた兄弟です。私が日本に戻ってから誕生されましたので、教会生活を一緒にできませんでしたが、6・7年前に母教会が無牧師になってから月に2度オンラインで宣教をしている中で、大学進学前、夏休みや冬休みで戻られた時は、いつも妹さんのチェロとビオラで賛美をささげてくださるとても優しく頼もしい兄弟を今朝お迎えできて本当に感動です。今年の夏はミュージックアカデミーオブザウエストという素晴らしいプログラムに参加予定だそうですが、神様のさらなる祝福をお祈りしたいと思います。特別賛美、ありがとうございました。
さて、皆さんの先週の歩みはいかがであったでしょうか。感謝なことも、感謝と思えないことも色々あったかも知れません。私は感謝なことが多くありました。イエス様と出会う旅を続けておられ、水曜の祈祷会に出席されている方にその週の礼拝の宣教原稿を時折差し上げるのですが、その方が先週の祈祷会前に、「いただいた8日の宣教が自分のいま置かれている状況にぴったりな内容で、自分に語られているようでよく理解でき、とても励まされた」とおっしゃられました。宣教を通して福音の種まきをしているつもりで常にいますが、その言葉をお聞きして、嬉しさと感謝が100倍になり、「後は聖霊なる神様がその方の心を取り扱って励ましてくだされば大丈夫。お委ねしよう。心を尽くしてもっと祈ろう」と決心しました。
先日も、ある方が、5月の第一と第二の礼拝での宣教で心打たれましたとメールくださり、ある方は夕礼拝のメッセージで新しい気づきや恵みが与えられましたとメールをくださいました。宣教をいつも楽しみにしていますとご連絡くださる方もおられます。この方々に共通するのは、とても不思議なことですが、皆さん、大久保教会の教会員ではないということです。教会の皆さんはどうかわかりませんが、わたしはそれで良い、素晴らしいと思うのです。誰かが大久保教会の働きを通して神様から愛と慰めと励ましを受けておられる。もう最高です。
働きの実りが今はっきり見えなくても、常にコツコツと誠実に歩んでさえいれば、すべて大丈夫。神様が不思議な方法で、神様の栄光のためにわたしたちを豊かに用い、さらに祝福してくださる。神様は見えない所で力強く、そして確実に働いておられる。教会の祝福だけを祈り求めるよりも、わたしたち教会を通して神様が働いてくださる、一人でも多くの方々に、それが誰だかわたしたちには分からなくても、神様の愛が届けられ、その方々がみ言葉によって慰められ、励まされ、癒され、救くわれ、希望を抱くことができれば、それは教会の大きな喜びとなり、わたしたちが存在している意味を知ることができ、神様から与えられているわたしたちの使命と目的の素晴らしさ、恵み、幸いを体験できるのではないでしょうか。
さて、もう一つ感動したことですが、私の友達がSNSでシェアした動画を見て、心がほんわか温かくなることがあり、ぜひ皆さんにも分かち合いたいと思いました。海外のどこの国の小学校の先生かはっきり覚えていないのですが、その先生が教室の前に一つの箱を置いて、生徒たちに向かって、「このクラスの中で先生が一番好きな生徒の写真をこの箱の中に入れたから、みんな一人ずつ箱の中を見に来て。でも、その写真の生徒が誰かを他の人に言ってはいけないよ」と笑顔で言いました。その後、生徒たちが一人ずつ前に出て来て箱の中を覗き込みました。箱の中を見た後、一瞬で笑顔になる子もいれば、少しはにかんだ子もいれば、いま見たものが信じられないと驚く表情の子もいました。でも、みんな素直に喜び、みんなが幸せそうでした。悲しむ子は誰一人いませんでした。
「クラスの中で先生が一番好きな生徒」と聞いて、「真の教育者とは常に平等で、偏見や差別意識を持ったり、えこひいきをしたりしては絶対いけない」とお感じになる方もおられるでしょう。偏見や差別といった不平等さを持ってはいけないのは教育者だけでなく、親も、教会も、社会も、国も、すべての人がそうです。家庭や教会や社会や国に不平等、偏見や差別、えこひいきがあったら、そこには大きな苦しみと痛み、絶望しかありません。そこでは成長と成熟、そして平和という実を結ぶことは決して出来ない。神様の祝福がないからです。
さて、今日は教師がしようとしたことを再現しようと思って、私も一つの箱を用意しました。もしわたしが、「教会の中で一番好きな教会員の写真がこの箱の中に入っています」と言ったら、皆さんはどのような感情を抱かれるでしょうか。「牧師が一番好きな教会員ってはたして誰だろう」と考え、「自分かな」とか、「絶対に自分ではないだろう」と思われるかも知れません。
大切な礼拝の中で、そのような野暮なことはしませんが、今朝はわたしの子どもたちに協力してもらい、再現したいと思います。「この箱の中に、お父さんが一番好きな子どもの写真が入っているから見にきなさい。でも、写真が誰かを他の姉弟に言ってはいけないよ」と約束させます。それでは、子どもたち、一人ずつ、前に来てください。礼拝堂におられる方々は、箱の中を見た彼らがどのような表情を見せるか、ぜひ観察してみてください。
さぁ、どうであったでしょうか。実は、「礼拝堂におられる皆さんの中でわたしが一番好きな方の写真がこの箱の中に入っています」と言うこともできました。種明かしをいたしましょう。実は、箱の中には「写真」ではなく、「鏡」が入っていて、覗き込んだ人の顔が映し出されるようになっています。
わたしは3人の子どもをすべて愛しています。教会員の皆さん、客員の皆さんを大切に思っており、いつも覚えてお祈りしています。しかしながら、愛することに限りのあるわたし以上に、わたしたちを創造し、生かしてくださっている神様、そして救い主イエス様は、皆さん一人ひとりを、わたしたちをもれなく、こよなく、限りなく愛してくださっているのです。
このイラストレーションに重大な欠点、課題があるとしたら、箱の中身は「写真」ではなく、「鏡」であったという事でしょうか。いいえ、そうではありません。来て見なさいと招かれても、自分はどうでも良い、自分には関係ない、自分は誰からも愛されていないと思い込み、愛されているという事実を確認しないで最初から諦めてしまい、箱の中にある神様の愛、「わたしはあなたを愛している」という真実を見に来ない人もいるということです。誰もが神様の愛と助けが必要です。自己愛、他者からの愛、富やお金や物質的なものを愛する愛だけでは、本当の幸いはないのです。何故ならば、それらのものは有限であり、永遠に続かないからです。永遠に続くのは、神様がイエス・キリストを通して与えてくださる愛だけです。
さて、5月は大久保教会の年間聖句である詩編34編を4回に分けてシリーズでお話ししていますが、今朝はその3回目で、12節から15節に聴きます。大久保教会の年間標語である「主の恵み深さを味わおう」という34編9節がこのシリーズの基礎となっています。
今朝は「長生きしたい人、この指とまれ」という主題にしました。長生きしたいと願っておられる方はここにどれだけおられるでしょうか。自分がどれだけ長生きするかと言うことよりも、大切な親や子どもや孫たちには幸せに、そして出来るだけ長生きしてほしいと願う方も多くおられると思います。また友人知人とは、互いに健康には気をつけて長生きしようと励まし合っているかも知れません。わたしたちは、愛されたい、そして愛したいと思うように、出来るだけ幸せに長生きしたいと願うのではないでしょうか。そのためには日頃の健康管理、努力やお金を惜しまない、どのようなことでもすると言う方もおられると思います。
しかし、わたしたちがどんなに強く願い、切望しても、この世の力、悪の力、権力によってその願いや思いが踏みにじられることがあります。いま実際にウクライナやミャンマーで、わたしたちの知らない世界の中で、人々の命と生活が脅かされ、無残にも奪い去られている。なぜこのような目を背けたくなる痛ましく悲しい惨劇が日々繰り返されるのでしょうか。なぜ小さな命が、お金では買うことのできない尊い命が暴力で奪われて行くのでしょうか。それは、権力や富を持つ一握りの人々が神様を畏れずに世界の頂点に立とう、主権者になってすべてを従わせようとしているからではないでしょうか。
世界でも、社会でも、家庭においても、人間関係においても、大切な人のために働きたい、生きたいと願うよりも、身勝手な理想や考えに従わせようとパワーを働かせる人たちがいます。だから秩序、パワーバランスが崩れ、実に多くの人たちが苦しみ、悩み、痛み、傷つく。それゆえに生きる意味、目的、喜びを失って、生きていても仕方がないと思うようになる。
詩編34編を謳ったダビデという人も、若い時にパワーバランスに苦しみ、悩み、生きる意味と喜びを失いかけました。サウル王から妬まれ、憎まれ、何度も命を奪われそうになり、逃避行を続け、苦しい道を通りました。しかし、そのような中で、一つの確信が与えられました。それは、どのようなことがあっても、自分よりも前に神様を置くということ、つまり自分の思いや感情に身を任せて生きるのではなく、主なる神様に信頼し、神様の思いを優先させ、主の導きに従って生きて行くということです。ダビデは、主なる神様がいつも共にいてくださり、苦しみから彼の心を守り、彼を命の危険から救い出してくださるということ試練の中で体験しました。神様にどれだけ愛され、大切にされているかを苦しみの中で感じ、日々変えられていき、すべてを神様からの恵みと受け止めることが出来るように変わったのです。
このダビデがイスラエルの民に対して、そして今日を生かされているわたしたちに対して、「愛する子らよ、わたしの言葉に聞き、その言葉に日々従いなさい。主なる神様を畏れ敬うことがいかに幸いなことかをあなたに教えよう」と愛情を持って信仰へと招き、「神様の祝福を受ける道をあなたがたに教えよう、長生きしたい人はこの指とまれ」と招くのです。
「子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。喜びを持って生き、長生きして幸いを見ようと望む者は」と12節と13節にあります。つまり、人生の意義、生き甲斐、人生の中で与えられる真の喜びを求める者は、まず神様という存在を認め、この神様に愛され生かされていることを知りなさい。あなたがその真実を知ったなら、あなたは神様の愛と大きな喜びで満たされ、意味のある人生、充実した人生を送ることができると招くのです。
これまでの人生を振り返り、自分は誰からも愛されていない、もう無理、意味がないと諦めたり、悲観したり、現実から逃げたりせずに、厳しい現実という箱の中に神様の愛は確かにある、あなたは愛されている、あなたは一人ではない、希望はあると招かれているのです。
わたしたちの心を悩まし、苦しめ、傷付けるものはいったい何でしょうか。14節と15節にあります。それはわたしたちの心から舌と唇から出てくる悪い思い、偽りの言葉、つまり心から出る嘘、妬み、不満、怒り、敵意、憎しみなどということです。つまり、自分たちの心の中から出てくるもので、自分たちを悩まし、苦しめ、傷つけているという、実に愚かなことをしているということです。だから、そういうものを遠ざけ、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めなさいと言われています。しかし、その方法が分からない。だから、愛と赦し、救いと喜び、平和と希望の源である神様に立ち返る必要がわたしたちにはあるのです。
「喜びと平安の中、長生きしたい人、この指とまれ!」とわたしたちを招いておられるのは、わたしたちを罪の中から救い出すために十字架に架かって死んでくださり、永遠の命を与えるために神様によって死から甦らせられた救い主イエス・キリストです。このイエス様の指と手足には、わたしたちを救うために十字架で負われた無数の傷があります。その手をイエス様は今朝わたしたちの目の前に差し出し、この指にとまりなさいと招かれるのです。この救いへの招き、神様の愛への招き、永遠の命への招きに喜びと感謝をもって応えましょう。