あなたを力づける神の霊

「あなたを力づける神の霊」 ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝 宣教 2022年6月5日

 使徒言行録 2章1〜4節     牧師 河野信一郎

おはようございます。6月の第一主日の朝を迎えました。この麗しい朝、礼拝堂に集っておられる皆さん、そしてオンラインで礼拝に出席くださっている皆さんとご一緒に、神様に賛美と礼拝をおささげできる恵みを、その幸いを与えてくださる神様に感謝いたします。

今朝は、主イエス様の代わりの「助け主」として、神様が復活の主イエス様を救い主と信じる人々に神様の霊を豊かに注いで力づけてくださった恵みを覚え、感謝と賛美をおささげするペンテコステ礼拝をおささげしています。この神の霊、ご聖霊の派遣が神様からなければ、弟子たちは聖霊に満たされ、力づけられて外に出てゆくことはありませんでした。すなわち、主イエス様の十字架と復活の福音は、エルサレムから全世界へと発信されることはありませんでした。この日本にも、わたしたち一人一人の心にも届くこともありませんでした。わたしたちがここで出会い、この礼拝堂で礼拝ささげることもありませんでした。すべては神様からの恵みです。ですから、神様の愛と憐れみに感謝して礼拝をおささげしたいのです。

今朝の開会賛美は、新生賛美歌270番をおささげしましたが、初めての方もおられ、難しさを感じたでしょう。すみません。選曲したのはわたしです。この賛美歌は、聖霊の励まし、支え、導きがなければ、思いを尽くして主を賛美し、力を尽くして主に仕え、心を尽くして主を愛することはできないという信仰の賛美です。実はわたしが学んだアメリカのケンタッキー州ルイビルにある南部バプテスト神学校・教会音楽科のヒュー・マッグラス教授が作詞した賛美歌で、在学中にチャペル礼拝でよく賛美した曲で、当時が懐かしくなって選びました。驚くことに、ちょうど25年前の1997年5月23日に神学校を卒業しました。

今朝わたしが皆さんとご一緒に主に感謝をささげたいのは、十字架上でのイエス様の贖いの死、三日後の甦り、40日後の昇天、そして聖霊の降臨がなければ、わたしたちはクリスチャンとして新たに生まれもしませんでしたし、この教会で出会うことも、今朝のように礼拝を共におささげすることもなかった、本当に素晴らしい神様からの恵みだと感じるからです。

今朝は、様々なご事情で礼拝欠席の方が多いのですが、感謝なこともたくさん与えられています。それらの感謝なことに順位をつけることはできません。すべては神様からの恵みです。大久保教会の初期に聖歌隊のリーダーであった兄弟が函館から上京され、今朝の礼拝に出席くださっています。心から歓迎いたします。また、コロナパンデミックが始まってからずっとオンラインで礼拝をささげておられた兄弟が2年数ヶ月ぶりに対面式の礼拝に今朝からカムバックされました。お帰りなさい。日本の生活に慣れること、日本語の勉強、そしてお子さんを日本の幼稚園に入れて頑張っておられる宣教師家族を迎えています。心から皆さんを歓迎します。今朝の礼拝第二部では、主の晩餐式が執り行われます。すべて主の恵みです。

先ほど申しました様に、ここ最近は様々なご事情で礼拝に集えない方々が多くおられるのですが、わたしは主に期待しています。欠席されている方々がまたこの礼拝堂に戻られて、また一緒に賛美と礼拝をおささげできる日を楽しみにしています。その方々がみんな戻られたら、この礼拝堂は礼拝者でいっぱいになり、喜びと感謝の賛美で溢れ、神様の愛で豊かに満たされるはずです。そのように神様が大いに祝福してくださると信じ、主に期待しています。

しかし、一つだけ祈り求めていることがあり、皆さんにも祈っていただきたいのです。それは夕礼拝に礼拝者が多く起こされてゆくことです。夕礼拝は、朝の礼拝に出席できない方々と一緒に賛美をささげ、神様の語りかけを聖書から聞くこと、礼拝のチャンスを増やす目的で3年前から開始しましたが、半年してパンデミックが始まり、オンラインのみの礼拝になることが多くなり、礼拝堂には奉仕者のみと言うことが多いです。また奉仕者が一人欠けると、礼拝のある部分を断念しなければならなくなります。どうぞさらなる祝福をお祈りください。お祈りくださったら、神様が新しい出会いを与えてくださるはずです。お願いします。

さて、わたしには大学生の子ども三人与えられていますが、そのうちの一人が大学に行く前に必ず牧師室に来て声をかけてくれるのですが、いつも「父上、誠に不本意ながら、本日も大学へ行ってまいります!」と笑顔で言って出かけるのです。彼女はいつも「誠に不本意ながら」という部分を強調します。おかしいと思いませんか。こういうことを言うのは、我が家には一人しかいません。わたしは、この子が家を出たらすぐに短く祈るのです。「神様、今日も不本意ながら大学へ出かけた彼女とあなた様が共にいまし、あなたが備えてくださるたくさんの恵みを味わう中で彼女の心が豊かになりますように、どうぞ導いてください」と。

わたしは、「誠に不本意ながら行ってまいります!」と言う彼女の気持ちがよく分かります。高校の卒業と大学の入学時期がコロナパンデミックと重なり、大学の授業もすべてオンラインで、2年間でキャンパスに行ったこともたった数回で、やっと対面式の授業が大学のキャンパスで始まったのは3年生になった今年の4月からです。必須科目の中には苦手なものや、なぜ学ばなければ分からない授業もあり、課題提出だけが山積みされて重くのしかかります。

キャンパスでの授業に行っても友達がいません。オンラインでしたから出会いがなく、友達が作れなかったのです。そして時間だけが過ぎ去ってゆき、3年生になったからといって大学から就職活動どうしますかと問われる。将来何をしたいかもまだ不透明な中で分からないのにもう就職活動?と言うストレスが日々溜まってゆきます。だから、こんなこと願っていない、嫌だと感じ、「不本意」だと言う思いが出てくると思います。学生はみんな辛いですね。

しかし学生だけでなく、「不本意な状況」に置かれている人々がこの日本の社会に、世界中に溢れ、多くの方々が苦しみ悶えているのが事実です。コロナパンデミックだけでなく、ウクライナで起こっている戦争の影響で自分が思い描いた計画がすべて台無しとなり、多くのものを失い、願いや理想とは大きくかけ離れた厳しい状況に置かれている人々、希望を失いかけている人々、社会の中でずっと隅っこに追いやられ、ネグレクトされ、小さくされている人々、子ども、高齢者、障害者、弱者が、神様の愛を必要としている人々が溢れています。

皆さんも、この2年間、他の人には言えないような大変な中を通ってこられたのではないでしょうか。今朝いらしている宣教師ご夫妻は、コロナパンデミックのために来日できず、2年間もアメリカに足止めになっていました。さぞかし大変であったろうと思います。皆さんも、ローラーコースターのような日々を過ごされ、不本意だと思うことを何度も通りくぐらされ、悔しさ、寂しさ、悲しみを経験されたのではないかと思います。いかがでしょうか。

しかし、神様の愛と憐れみの中で、今朝、わたしたちは礼拝者とされ、賛美者として、主のみ前に置かれています。神様に愛され、生かされ、救いの恵みを受けていることを喜び、感謝を主なる神様とイエス様におささげできる素晴らしい時と場所に置かれています。なんと幸いなことではないでしょうか。なんと言う特権でしょうか。この主の恵みが豊かに与えられている中で、どうして「不本意ながら教会に行って礼拝をささげてきます」と言えるでしょうか。言えないと思います。感謝と喜びしか湧いてこないと思います。

しかし、もしわたしたちが礼拝をささげることを「不本意」だと感じているならば、それは重大なことを見失っていることを表す兆候ですので、直ちに立ち止まって、上を向いて、大きく深呼吸する必要があります。そうでないと、最悪な場合、神様から与えられた信仰がなくなり、喜びも、平安も消え去り、闇の中に舞い戻ることになります。つまり、イエス様がその命を十字架上で捨ててまでも神様とわたしたちを繋げてくださった恵みから離れること、切り離されることになるからです。神様もイエス様もそのようなことを望んでおられません。

「直ちに立ち止まって」とは、今なしていることをとにかくすべて止めると言うことです。「上を向いて」とは、神様に助けを求めることです。そして「大きく深呼吸をする」とは、神様の霊、ご聖霊を受けると言うことです。これはとても重要なことです。

なぜ聖霊を受けることが必要なのか。それは、神様なくして、神様の愛、神様の助けと励ましと導きなくして、わたしたちは喜びと希望に満ち溢れた日々を歩めないからです。人生の意義や目的や方向性を自分だけでは見いだせないからです。それらはすべて主イエス・キリストを通して神様から与えられるもので、神様と主イエス様の言葉を理解し、御心を知り、歩むべき道を歩むためにはご聖霊の力が、励ましが常に必要だからです。

復活された後、弟子たちと40日間過ごされたイエス様は、弟子たちの見ている前で天へと引き上げられてゆきました。物理的にイエス様と弟子たちのつながりが途絶えてしまったかのような形です。しかし、弟子たち、そしてわたしたちを物理的な障害を越えて霊的につなげるために、神様は聖霊をこの地上にお遣わしになりました。物理的・肉体的なつながりには様々な制限や障害がありますが、霊的なつながりにはそのようなものはありません。神様はイエス・キリストを信じるすべての人とつながり続けるために聖霊をお遣わしになりました。それだけではありません。聖霊を通してわたしたちを力づけるために送ってくださいました。

ペンテコステの日の出来事を2章1節から読んでゆきましょう。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。「彼ら」とは、主イエス様を救い主と信じ、キリストに従う人々の群れです。そのような集まりに「天から」神様の霊が注がれた。愛と力が神様から注がれたということです。わたしたちの信仰とか、努力とかいう以前に、神様が弟子たちを、わたしたちを憐れんで最初に動いてくださったと言うこと。神様の愛はいつも神様から始まり、わたしたちはその愛を素直に喜び、受け取る、信じるだけで良いのです。

3節に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。ここでの重要な問いは、「何のために神様から聖霊が派遣され、イエス様を信じる者たちに臨んだのか」ということです。その理由は、わたしたちをイエス様につなげ続けるためです。他にも理由はあります。イエス様につなげられていないと、この地上で生きる真意、目的、御心を知ることができず、不本意ながら生きることになるからです。イエス様につなげられていないと、自分の力や努力や信念だけで生きてしまい、そのために不安や恐れに苦しみ悶え、神様が与えてくださる力、喜びと平安と希望が与えられないからです。イエス様につなげられていないと、わたしたちはまた神様から離れ、神様を見失い、闇に逆戻りするからです。

イエス・キリストを信じる者たちの上にとどまった「舌」は、神様の愛と赦し、イエス様による贖いと救い、希望を人々と分かち合うために与えられた能力です。ご聖霊が遣わされたのは、神様の力によってわたしたちが励まされ、ご聖霊が語らせるままに神様の愛を、イエス・キリストの十字架と復活による救いを分かち合い、主の愛に共に生きるためです。

聖霊に満たされた弟子たちは、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と4節に記されています。「霊が語らせるままに」とは、神様の主導のもとにと言うことであり、神様の力によって生きると言うことです。生きるために必要なすべてを神様が与えてくださると言うことであり、神様がわたしたちのような者さえも主の御用のために用いてくださると言うことです。語るべき言葉も、すべて神様が与えてくださるから心配ないのです。

わたしたちは人一倍頑張る必要はないのです。自分にはできないと落ち込む必要もありません。ただ神様の憐れみを信じてお委ねし、イエス様の言葉に聞き従い、豊かに注がれる神様の霊を感謝して受け取ってゆけば、神様がいつもわたしたちと共にいてくださることを感じられ、日々力づけられ、励まされ、慰められ、そして何が神様の御心であるのか、神様は何を喜ばれるか、何を成して歩んでゆくべきかが分かるように主が導いてくださいます。

「神様、今日も不本意ながら生きてゆきます」と神様に言わなくても良くなる日々を送れるように、いつも賛美と喜びをもって、絶えず祈り、すべてに感謝をもって主と共に生きることができるように神様が恵みを豊かに与えてくださるのです。不安になったり、恐れる必要はありません。主がいつも共にいてくださいます。わたしたちを日々愛し、力づけ、守り導いてくださる主に感謝しましょう。