「世に責任を持つ教会」 教会設立を覚える礼拝 七月第一主日 宣教 2022年7月3日
コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章19〜23節 牧師 河野信一郎
おはようございます。梅雨があっという間に終わり、猛暑が8日間続きました。今週は幾分か気温が下がるようですが、体力的にも、精神的にもヘトヘト感があります。しかし、神様の憐れみと招きの中、今朝もご一緒に礼拝をおささげできる幸いを主に感謝いたします。
皆さんの去る週の歩みはいかがであったでしょうか。私は嬉しいこと、残念に思ったこと、悲しんだこともある、カラフルな週でした。まず、写真のように、この暑さで教会の紫陽花が一気に元気がなくなり、悲しくなりました。植物には日光だけでなく、水が必要不可欠であるように、わたしたちの信仰にもイエス・キリストが与えてくださる水が必要不可欠です。この水は、イエス様につながり、信仰の根を主の教会に下ろす中で受けることができます。
さて、感謝だったこと。わたしは、コロナパンデミックの中、オンライン礼拝に出席されていた方を信仰告白へと導いていたのですが、都心から少し離れて暮らすことになり、教会を紹介してほしいとのメールがあったのですが、新しい住所と照らし合わせましたら、その方にふさわしい素敵な教会が近くにあり、祈りと感謝と自信をもって新しい教会を紹介することができました。この大久保教会につながらなくても、大切なのはイエス様につながり、神様の愛の中でこれから生かされることです。その方が今日か、近いうちに新しい教会へ行かれ、新しい出会いの中でイエス様を救い主と告白して従うことができるようお祈りください。
もう一つ感謝であったことは、来週10日の礼拝の中で特別賛美をしてくださる連絡がアメリカからあったことです。お兄さんが5月にビオラで賛美してくださいましたが、今度は4歳からチェロを始められて今年19歳の妹さんがチェロで2曲賛美してくださることになりました。素晴らしい音楽の賜物を持たれた奏者で、圧倒されると思います。ぜひご出席ください。
さて、もう一つアナウンスです。8月7日から11月まで、ヨナ書をテキストに、12回のシリーズで、神様の語りかけをご一緒に聴きます。約20年前に1章から4章までをシリーズで説教をしたことがありますが、どなたも覚えておられないと思います。また、長引くロシアのウクライナへの侵略から様々な怒りが心の中にあると思います。それ以外にも日常の生活の中で不満や怒りが色々あると思います。しかし、わたしたちの不満や怒りは、神様のみ前に本当に正しいのかということをみ言葉と照らし合わせながら聴いてゆきたいと願っています。
8月の宣教は、7日と14日の2回になり、21日は石垣副牧師の宣教、翌週の28日はわたしの友人である具志堅正都牧師が賛美とメッセージをしてくださる予定です。具志堅牧師は、沖縄のオリブ山病院というキリスト教病院の主任チャプレンとして働かれ、単立グレイスワーシップチャーチを開拓し、牧師として働かれている方です。どうぞお祈りに覚えてください。
さて暑い日々が続く中で、外に出るのも億劫になると思います。どうでしょうか。今朝の礼拝、皆さんは不本意ながら来られたでしょうか。致し方なく来たという方は、どれだけおられるでしょうか、手を挙げてみてください。手を挙げたくても、恥ずかしいから挙げられないかもしれませんが、皆さんが今日教会に戻って来て礼拝をささげることができて本当に良かったなぁと聖霊が励ましてくださると信じ、神様の愛が注がれるように祈っています。
さて、だいぶ前に「父上、誠に不本意ながら本日も大学に行ってきます」と言った娘のことをお話しましたが、彼女がまた面白いことを言ったので大笑いしました。わたしは、このような面白い感性を持った娘が与えられていることを主に感謝していますが、彼女がこう言ったのです。「父上、新しいのを考えたよ。不本意だけど、本日も大学に『行ってみます』」と言ったのです。「嫌々行ってきます」から「とりあえず行ってみます」に進歩したのです。
どうでしょうか。勉強や働く意味や目的が分からないと、喜びや感謝がありませんから、大学や仕事に行きたくなくなるのは自然だと思います。また生きることも同じです。生きている目的や意味が分からなくなると、人生どうでも良くなります。しかし、神様に出会い、主に信頼しつつ「行ってみます」と一歩前進する時、神様は祝福を準備してくださいます。同じように、イエス様を救い主と信じて、主と共に新しい道を歩み出す時、わたしたちの「生きなければならない理由」を「生かされている理由」に、「生きなければならない苦しみ」を「生かされている喜び」に主イエス様が変えて、感動と感謝の気持ちで満たしてくださいます。生きるために仕方なく働いている人が今どれだけおられるでしょうか。自分らしく生きる人生の意味と目的は、創造主である神様からイエス様を通してはっきり示されるのです。
先日、アメリカのデイビッド・プラット牧師がこのようなことを言っておられました。「もし教会に素敵な音楽も、座り心地の良い椅子も、前に大きなスクリーンもなく、きれいに整った講壇もないなら、どうでしょうか。もし礼拝堂のエアコンが止まっていて、礼拝から快適な環境が取り除かれていたらどうでしょうか。それでも主の言葉が語られるならば、礼拝者にとって、礼拝に集い、礼拝をささげる目的が果たされ、心が満たされるでしょうか。」と問われ、わたしは一枚の写真を思い出しました。インドの路上で礼拝しているクリスチャンたちの写真です。どうでしょうか。これは神様がわたしたちに求めておられる「本当の教会」の姿であり、「本当の礼拝」の姿勢ではないでしょうか。
さて、大久保バプテスト教会は、57年前の1965年7月4日に教会として組織されました。教会には、一番古いもので、1959年の西大久保伝道所の時代からの週報が保管されています。西大久保伝道所は、アーネスト・ハロウェー宣教師宅で始められたバイブルスタディから夕礼拝が始まり、朝の礼拝へと活動が広げられてゆきました。大勢の宣教師たちが入れ替わり立ち替わり協力してくださり、集会に加わる人々が起こされてゆき、イエス様を信じてバプテスマを受ける人が増えてゆきました。西大久保伝道所の牧師に丹羽勇先生がなってくださり、その後は川口正雄牧師、そして教会組織された時の牧師として保田井建牧師が教会形成の働きを担ってくださいました。その間、大井教会と中野教会が親教会(母教会)として支えてくださり、本当に感謝です。半世紀以上前の週報を丁寧に読んでゆく中で、当時の教会の霊的息遣いが聞こえてきます。教会に集う一人一人がいかに真剣に、素直に、主のみ言葉に聞き従おうとしたのかが聞こえてきます。聖書のみ言葉によって、集会が伝道所に、そして教会へと形作られ、整えられてゆく神様の力強いみ業を垣間みる気持ちにさせられました。
ですので、このような大胆なチャレンジを私は今までしたことはないのですが、大久保教会の誕生月である7月、わたしは4回も宣教できるので、57年前の兄弟姉妹たちは、牧師たちを通して神様から何を聴いていたのかを探り、聴いてみたいと思うようになりました。ゆえに、この7月は西大久保伝道所が大久保教会とされてゆく時代の中で、歴代の牧師たちが語った箇所を私が選び、まず私がその箇所を読み込み、そこから聞こえてくる恵みを皆さんと分かち合うようにしました。当時の説教原稿などありませんから、メッセージの力点が同じなのかは分かりませんが、そこはすべてご聖霊の励ましと導きにお任せしたいと思います。
今朝は保田井牧師、来週は川口牧師、24日はハロウェー宣教師、31日は丹羽牧師を通して神様が語られた聖書の箇所から宣教いたします。神の言葉は、時代を超えて力強く生きて動いていますが、真理は変わることはありません。当時と今の聖書訳は違いますが、語ってくださるお方は変わりません。時代は高度経済成長期から停滞期に変わりましたが、すべてをご支配されている神様と共に生きてくださる主イエス様とご聖霊は決して変わりません。2022年の7月、この大久保教会に連なるわたしたちが主の言葉を心から求めるならば、主はお語りくださいます。大久保教会の中心は、神のみ言葉、イエス・キリストです。
今朝の聖書箇所は、第一コリントの手紙9章の19節から23節です。当時読まれたのは口語訳聖書であったと思われますが、今朝は新共同訳聖書で読みました。保田井建牧師が説教につけた主題は、「世に責任を持つ教会」というタイトルでした。この説教は、大久保教会が組織される直前に語られたもので、言い忘れましたが、今朝の開会賛美歌281番と応答賛美としてこの後にささげる143番は、その日の朝の礼拝において賛美された曲を選びました。
さて、「世に責任を持つ教会」という主題から皆さんは何を連想されたり、お考えになるでしょうか。1965年の世の中で、地域社会の中で責任を持っている、神様から委ねられている使命は何でしょうか。「この世、この社会」とは、神様を信じないで、それ以外のもの、色々とありますが、つまり偶像を信じているということです。「この世、この社会」とは、神様の愛と赦し、イエス・キリストを必要としている人々を示すものだと思います。「教会」とは、イエス・キリストを救い主と信じ、神様の愛に生かされている信仰共同体です。そのような教会が社会に対してどのような責任があるのか。それは、神様の愛、イエス様を伝えることです。主イエス様が救い主であると告白し、イエス様を分かち合ってゆくことが教会の責任、使命であり、イエス様を信じて従う者たち一人ひとりの責任です。しかし、「責任」とか、「使命」と聞くと大ごとに聞こえすぎて萎縮してしまう弱さがわたしたちにあると思います。ですから、違う言葉を使うほうが良いかも知れません。わたしは、ここで保田井先生を批判しているわけではありません。先生を心から尊敬しています。どうぞ誤解のないように。
ただ、2022年の今朝、この言葉をわたしたちがどのように捉えたら、もっと積極的に自分の責任を果たせるようになれるかなぁということです。皆さんも、自分の事としてぜひお考えください。どのような言葉が良いでしょうか。わたしは、「特権」が良いと思うのです。神様の愛をいただき、その愛の中で主と共に生かされている。それは恵みです。その神様の愛を分かち合えるのは、恵みであり、素晴らしい特権であると思うのです。
第一コリントの8章から10章は、一つのセクションになっていて、「権利」と「自由」といことが鍵となっています。わたしたちにも権利と自由が平等に与えられているはずですが、見渡すと強権者によって阻害され、支配さることによって多くの人々が苦しんでいます。社会的に小さくされている人だけでなく、伝統やしきたり、慣習に支配され、自由を奪われている人たちがこの日本社会にも大勢おられます。生きる意味、人生の目的、生きがいを見失って、もがき苦しんでいる人たちがいます。奴隷のようにこき使われている人たちがいます。喜びも、平安も、希望も、目標もなく、社会の闇の中に置かれている人たちがいます。そのような人たちと共に生きることが教会の責任、恵み、特権であると使徒パウロは言います。
19節で「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」とパウロは言います。自分には、自分のために生きる権利も、自由もある。しかし、わたしは主の愛と励ましと導きの中で、人のために仕えて生きることを選びます。神様の愛を受け取って生きる人をできるだけ多く得るためですという意味だと思います。わたしたちにも、権利と自由があります。いえ、与えられています。しかし、それは自分のためだけに用いるのではなく、神様の愛を必要としている人たちのために仕えて生きるために神様から与えられ、託されている恵みであることを知る必要があります。
パウロは続けて20節からこう言います。「20ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。21また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。22弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」と。
「律法を持たない人」とは、ユダヤ人以外の人々のことです。「弱い人」とは、人に由来する伝統や習慣、偏った価値観や理念・信念に引きずられている人、この世的な人という意味です。パウロは、「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」と言っています。パウロは、自分のために生きる権利や自由をすべて放棄して、主の僕、使徒、クリスチャンとして生きること、常に主に信頼し、愛と信仰と祈りと忍耐をもって人々に仕えて生きてゆくことを進んで選び取っていった人でした。
彼の心の中心は、神様とイエス様への愛と隣人への愛でした。彼の喜びは、神様の愛を必要としている人々へイエス様を分かち合う事でした。23節に、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」とあります。世に責任を持つ大久保教会、それは恵みであり、特権であることを喜び、感謝し、イエス様を伝える教会として、これからも共に歩み、仕えて行きましょう。それが御心だと信じます。