教会の天使たち

宣教「教会の天使たち」 大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫                   2022/07/17

聖書Ⅰ:マタイによる福音書18章10節(p35)

聖書Ⅱ:ヨハネの黙示録2章1~7節(p453)

 

はじめに

7月の教会学校のテキストは「エフェソの信徒への手紙」ですが、ヨハネの黙示録第2章に、もう一つ、「エフェソの教会への手紙」があるのに気づきました。わたしは、こちらの方が、わたしたちの現在の問題を、身近に表していると思い、今朝は黙示録2章の手紙を読んで頂きました。

宣教題を「教会の天使たち」としました。わたしは、黙示録2章1節にエフェソにある教会の天使にこう書き送れ」との言葉を読んだとき、この手紙が、「天使」に宛てた手紙であることに、初めて気付きました。 皆様は如何でしょうか、「教会宛て」でなく、「教会の天使宛て」であると気付いておられたでしょうか。

主イエスは黙示録で、それぞれの教会に、教会の信仰を支える天使を置いていると言っておられるのです。

 

加えてですが、別の個所で、わたしたち信仰者一人一人にも天使がいると、主イエスは言っておられます。

聖書朗読の初めに読んで頂きましたマタイによる福音書18章10節は、次のような言葉でした。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18:10

「彼らの天使たち」という言葉で、主イエスは、わたしたち一人一人にも天使がいると言っておられます。

 

日本のカトリックや聖公会の信徒の方は、バプテスマの時にChristian nameを選びます。わたしは、諸外国のことは分かりませんので、日本のこととしてお聞きいただきたいのですが、そうしたか方が、「わたしのChristian nameはステファノです」などと、誇らしげに言われることがあります。

その人が選んだ聖人は、その人の信仰を見守る天使となって、生涯を支えていくように、わたしには思えて来て、「いいな!」と思ったことがありました。

今朝は、教会の天使と、わたしたち一人一人の天使を思いながら導かれたいと願っています。

 

“七つの教会の天使への手紙”

黙示録の2章と3章には、アジア州(現在のトルコ西部)にある、“七つの教会の天使への手紙”が記されています。皆様がこの七つの手紙を読みますなら、二度三度と、これまでもお聞きしてきた、素晴らしいみ言葉に触れることが出来ます。ぜひ読んで頂きたいと思います。

七つの手紙の第一番目が、その地方の首都であり福音宣教の中心となったエフェソの教会宛ての手紙です。

地図で示しましたように、エフェソを起点として、アジア州各地に、キリストの福音が伝わって行ったことを表しています。エフェソ・スミルナ・ペルガモン・ティラティア・サルディス・フィラデルフィア・ラオディキア、この七つの教会です。2章と3章をお読み頂ければ、それぞれの教会は何事もなく教会形成が進んだのではないという事が分かっていただけます。

七つの教会は、多くの面ではほめられていますが、時には厳きびしく叱しかられ、戒いましめられています。

今日こんにちのわたしたちにも似て、どの教会も、教会に起きてきましたさまざまな課題に、教会の皆さんで向き合い、忍耐をもって支えた歴史を持っていたことを、これらの手紙が伝えています。

今朝は、そうした課題を乗り越える力が、どのようにして与えられるのか、或いは、問題を抱えながらも、なぜ存続していくのか、天使の存在と合わせて、ご一緒に考えてみたいと思います。

「七つの教会に起きたこと」

2章1節を読みます。

2:1  エフェソにある教会の天使にこう書き送れ『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。』

はじめに、「エフェソにある教会の天使にこう書き送れ」とありました。なぜか単純に「教会に」ではなく、敢えて「教会の天使」に送らなければならなかったのでしょうか。とても気になる言い方です。

ある方はこう言っておられました。「教会に手紙を送っても、教会の皆さんは読んでくれないのだ。ひどい教会は、手紙の封も切らず、そのまま机に積んでおくからだ」と言っていました。

皆様は、断じてそのような事はされないと思います。

しかしこの方の続く文章を読みますと、「いつの間にか教会の中で、互いの言葉を聞き合うことをしなくなっていた」、そのことを言いたいのだと述べていました。七つの教会の大きな問題は、他の人の言葉を聞けなくなっていたという事なのです。このため主イエスは、教会の天使に手紙を送り、この手紙を読ませ、皆さんに聞かせたのです。

 

黙示録を開いておられる方は、1章20節の終わりの方をお読みますと次ののように書いてあります。

1:20七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。

主イエスはこの箇所でご自分のことを、七つの教会の天使を持ち、七つの教会を持っていると言われます。

続く2章1節に、もう一度、主イエスは『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方』と紹介されています。主イエスは「いつも教会の天使を手に持って、教会の間を、巡り歩いておられるお方」なのです。

 

教会の歴史を紐解ひもときますと、使徒パウロは合わせて約三年間、エフェソに滞在して宣教したのですが、その後パウロの弟子たちによって宣教が進み、三十年の後には、先ほど地図で示しましたように、エフェソを起点としてアジア州一帯にキリストの福音が広まり、教会が次々と増えて行ったことが分かります。

だだし、教会と言いましても、現在のわたしたちが想像するような教会ではなかったのです。会堂もありません。そのため、わたしたちが想像する「教会」と呼ぶよりは、「キリストの集会」と呼んだ方が適切でした。

この「ヨハネの黙示録」にあります「キリストの集会」は、30年の内に多くの経験をしてきました。ほめられる面が沢山ありました。主イエスはそのことをじっと見守り、知っていてくださいました。

2:2 「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っておりまた、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。

 2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。

「知っている」、「知っている」と繰り返しています。

6節以下に飛びますが、

2:6 だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。

「ニコライ派の者たち」とは、使徒言行録6章の初めに、キリストの弟子集団を纏めていくために7人の執事が選ばれるという記事がありますが、ここにステファノを始め7人の名があり、その最後にアンティオキアの改宗者ニコラオの名があります。ニコラオは後に弟子集団を離れ、ニコライ宗を組織して教会を惑わす存在となっていました。

ニコラオたちはこう言って教会の人々を惑わしたと言われています。

「もう、主イエスが来て、救いは完成した。だから今は何をしてもよい。世の中の人たちと同じように楽しめ。何をしても救われる」と言ったのです。しかしエフェソの人たちは、彼らの誘惑をはねのけたとして評価されています。このように、忍耐強い教会でした。

 

「初めのころの愛から離れてしまった」

ところが、4節と5節では一転して「初めのころの愛から離れてしまった」と厳しく注意を受けています。

2:4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。

このような厳しい言葉が投げかけられています。

「初めのころの愛」とはどのようなことを言っているのでしょうか。

 

今、ウクライナの国内を戦場にして、大きな戦いが起きて、激しく続いています。日本からは遠く離れていますが、次第に他人事では済まされなくなったと、皆様が感じておられます。

特に隣接するヨーロッパの人たちにとっては、平和が崩れていくのを目の当たりにし、明日はわが身だと、恐怖をもって暮らしているのではないでしょうか。

エフェソの人たちのこの時代、教会には必ずしも牧者がいるという事はなかったのです。読める文書も限られていますし、文字を読める人も僅わずかであったと思われます。礼拝といっても、時折訪れる巡回伝道者の説教を聞く程度であった事でしょう。そうした中で、繰り返される誘惑とも戦っていました。

そのうえ、黙示録が書かれた紀元90年頃のローマの支配のもとでは、教会はさまざまな戦いを強いられていました。紀元90年と言えば、ローマは、最も残虐なドミティアヌス帝の時代でした。キリスト教信仰は禁じられ、疑われた人はすぐ役所に引かれていき、少しでも疑いを持たれるとすぐ処刑されたのです。わたしたちには想像すらできませんが、エフェソの人たちにとって礼拝すること自体が、命がけであったのです。そのようにして礼拝を守っていたのです。

この時代の人々が「離れた」のは、初めて主イエスを、救い主と信じたときの感激が、覚めてしまったというようなことではありません。それは「初めの愛」が失われて行くことだと言われました。

終末を思わせるような状況を目の前に感じ、繰り返して苦難を味わうと、次第に教会の内部に大きな不安が起こり、互いを信頼する愛が失われていきます。それが「初めの愛」が失われて行くということだと言われます。

マタイによる福音書24章4節以下には、終末の様子が記されています。少し長いので、その一部をお読みします。 ここに書かれているようなことが、エフェソの教会にも起きていたからです。

<マタイによる福音書24章10~13節>

 24:10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。

 24:11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。

 24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。

 24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

このように、「初めのころの愛から離れる」とは「多くの人が惑わされ、不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」、そのような有様を言っています。しかし、わたしたちは支えられ守られるのです。

 

「悔い改めて立ち戻れ」

主イエスは、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。もう戻れない、だからもうだめだ」とは言われないのです。「悔い改めて初めの頃の行いに立ち戻れ」と励まして行かれます。「初めのころの行い」とは、初めの信仰という意味です。

 

2:5 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れもし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。

 

今朝わたしたちは御言葉によって、教会の天使と共に、わたしたち一人一人にも天使がいてくださり守られていると教えられました。

聖書朗読の初めに読んで頂きましたマタイによる福音書18章10節には、言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」とありました。

「あなたの天使は、たとえあなたが父なる神から目を逸そらすことがあっても、天使はあなたに代わって、いつも神を見ている。」と言われたのです。

天使によってわたしたちが神を見ているなら、神も、あなたを見てくださっている。そのようにしてあなたの信仰は守られていると、主イエスは教えてくださっています。

主イエスはなぜそこまでしてわたしたちを守られるのでしょうか。

主イエスが教会に託された働きは何であったでしょうか。それは繰り返して、わたしたちがお聞きしてきたことです。

託された働きは、それは、御言葉を伝えて行くことです。福音の宣教をしていくことです。

世の中が崩れていくような時代にこそ、教会とわたしたち一人一人が、神によって立ち上がり、神の同労者とされていくことではないでしょうか。

神さまは待っていてくださいます。その神さまの愛と忍耐に支えられて、皆様と共に教会の歩みを作っていきましょう。聖霊の力をいただいて、この一週も、共に歩んでまいりましょう。【祈り】