ルカによる福音書1章5〜25節
今回は、「バプテスマのヨハネの誕生の意味」というテーマで、ルカによる福音書1章5節から25節に聴いてゆきたいと思いますが、ここで不思議な感覚にさせられます。それは、福音書はイエス・キリストについて記されているものであるはずなのに、イエス様を差し置いて、何故バプテスマのヨハネの誕生の出来事が最初に記録されているのかという素朴な疑問が湧き起こります。確かにそうですが、バプテスマのヨハネという存在は、イエス・キリストと切っても切れない関係にあったからだと言わざるを得ません。そのことを今日は説明したいと思います。
まず先週の学びで、福音書の中で最初に記されたマルコ福音ではなく、マタイ福音書が新約聖書・福音書の最初に置かれたのは何故かということを説明しました。マタイ福音書には旧約の時代に神様がイスラエルに対して約束された言葉が数多く引用されていて、それらがすべてイエス・キリストによって成就したことが記されています。すなわち、マタイ福音書は旧約聖書から新約聖書へのかけ渡し的な役割があったので新約聖書の最初に置かれたということを話しました。
同じ様に、バプテスマのヨハネという人物は、イスラエルの預言者の時代、律法主義という古い時代からイエス・キリストという神様の愛と憐れみに満ちた御言葉の新時代、恵みの時代へ移行するための架け橋的な役割を担った人として福音書に取り上げられています。つまり、バプテスマのヨハネは、イエス・キリストにおける新しい時代への先がけ、先駆者であったことをルカは明確に記すのです。イエス様は、そのことをルカ16章16節で、「律法と預言者は、(バプテスマの)ヨハネの時までである」と言っておられます。まったく新しい時代、行いによる救いとされてきた時代が過ぎ去り、信仰による救いを受け取る時代が始まったこと、そのために必要な「悔い改め」、神様へ方向転換をする時代がイエス様によって到来したことを宣言する者としてヨハネがイエス様に先駆けて生まれたこと、そのエピソードをルカは紹介します。
わたしは昔、「知ってるつもり」というテレビ番組が大好きでした。世界中の偉人や社会の中で功績を残した素晴らしい人物の生涯を紹介する番組でした。その番組を見ていて気付かされることは、世界の偉人と呼ばれるような人たちは、生い立ちや幼少期から持っている感性、好奇心、「センス」が普通の人と違っていたということです。その番組では、例えば「松下幸之助」にしましょうか。人よりも秀でた「アイデアを機械や物にして生活の向上を目指す力」を持ち、社会の中で大きな働きをした人の誕生、幼年期まで遡ってどのような生涯を歩んできたのか、どの様な両親や環境の中で育ったのか、どの様な幼少期から思春期を過ごしたのかなどを詳しく伝えます。
ルカという人は、キリスト教会の中ではその先駆けのような人で、彼の福音書の1章と2章で、神様によって始められた新時代の立役者といいましょうか、中心的な人物であるバプテスマのヨハネと救い主イエス・キリストの誕生の秘話を二つ紹介しています。
さて、この二人の誕生の秘話で共通するのが御使ガブリエルの出現です。このガブリエルを通してヨハネとイエス様が誕生すると告げられますが、もう一つ共通するのが予告の場面の流れです。これは旧約聖書のイサクやサムソンの時も同じ形式になっていますので、興味深いのですが、これらの誕生予告には一定の流れがあります。
まず1)御使いの出現、2)それに対する恐れの反応、3)神のご意志の伝達、4)それに対する反論、5)そして神のしるしの授与という流れです。これを今回は見てゆきますが、なぜヨハネの誕生の予告に同じような形式が用いられるのかと言いますと、ヨハネの地上での使命が神様からのものであること、旧約の時代から流れる神様のご計画の一つであることを示すためです。
5節から7節を読みます。「5ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。 6二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。 7しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。」とあります。
祭司には24部族あり、当時は1万8千人の祭司がいたと推測されています。後の「バプテスマのヨハネ」の両親は祭司ザカリアと母も祭司の家系に生まれたエリサベトで二人は神様に忠実な人でした。しかし、エリサベトは不妊の女であったと記され、この夫婦には子供がなく、高齢であったと書かれています。祭司職というのは世襲制で、息子が生まれなければその家はおしまいとなります。ですから、25節を見ますと、エリザベトはそのことを「恥」と思って長年苦しんでいました。
8節から10節。「8さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、 9祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。10香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。」とあります。
1万8千人の祭司の中から選ばれて神殿の聖所で祭司の務めをすることは一生に一度あるかですが、しきたりにしたがってくじを引いたところ、ザカリアが聖所に入って香をたくことになります。つまり、イスラエルの民の代表として神様の御前に立ち、執り成しをすることになります。この仕事は生涯に一回のみです。一度くじに当たれば、二度とくじを引く機会は与えられません。ですから、くじに当たったのは神様の御心であったのです。
また、くじに当たって聖所で香をたくことは、祭司にとって、その部族にとっても非常に光栄なこと、名誉なことでありますが、子がいないザカリアはその名誉を後世に残せません。ですから、ザカリア夫婦にとっては光栄なことでありつつ、同時に虚しさを感じることであったと思います。人生はうまくいかないと心のうちで思っていたかも知れません。
しかし、そのような虚しさを抱えていたであろうザカリアに、神殿の聖所で、神様から遣わされた御使ガブリエルが現れます。これが第一の「御使いの出現」です。11節に「11すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った」とあります。そして第二の「恐れの反応・リアクション」が12節にあります。「12ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」とあります。神殿の聖所・至聖所に入って、主の御前に立つだけでも恐れおののき、緊張しますが、そこに御使いが突然現れると誰でも困惑すると思います。
さて、次の三番目の「神のご意志の伝達」です。御使ガブリエルはこう言います。13節から。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。14その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」
御使いに名付けよと命じられた「ヨハネ」という名前は、「主は恵み深い」という意味です。この子は、ザカリア夫婦にとって「喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」と御使いは宣言します。その喜びも、楽しみも、すべて神様の恵みであります。
さて、新共同訳聖書では「あなたの願いは聞き入れられた」となっていますが、口語訳聖書などでは、「あなたの祈りが聞きいれられたのだ」と訳されています。さて、ここにある「ザカリアの願い、祈り」は何であったのでしょうか。子どもが与えられること、その子と一緒に神様に仕えたいという願い、祈りであったでしょうか。もしそうであれば、その願いは歳を重ねるごとに遠のいていきました。しかし、高齢である妻エリサベトが妊娠し、子を産む、しかも男の子を。不安と喜びと迷いなどが混在したと思われます。
次の15節から17節には、ヨハネがどの様な人として成長し、成人した彼がどの様な働きを担うのかが伝えられています。「15彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、 16イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。 17彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」とあります。
ヨハネは、神の霊に満たされて成長し、「ナジル人」という忠実に神様に仕える者となり、イスラエルの民を悔い改めへと導き、神様のもとへ立ち返られる働きを担うと言われます。彼は預言者エリヤの生まれ変わりではなく、預言者エリアと等しい預言者としての霊と力に満たされて、忠実に神様から託された働きをし、イスラエルが神様から遣わされた救い主イエス・キリストを信じる心を耕す、土壌を用意すると言われています。ヨハネの使命は、一個人の幸いでなく、イスラエルの民全体、共同体全体の救いの備えをすることです。これが先駆者の重要な働きで、ヨハネは民の心を神様に向けさせ、救い主の来られる準備をした人です。
さて、御使ガブリエルの言葉に困惑していたザカリアは、四番目の「反論」をします。18節です。「18そこで、ザカリアは天使に言った。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』」と。人間の側からしたら、御使ガブリエルが言ったことはすべて不可能に思えることばかりです。ですから反論といいましょうか、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」と尋ねます。「何によって神様の御心だと知ることができるか」、それは信じるしかない、信じ続けるしかないのだと思います。
五番目の流れ、「神のしるしの授与」ということですが、19節から20節にあります。「19天使は答えた。『わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。20あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。』 」とあります。神様からのしるしとして、ザカリアは口が利けなくなります。これはザカリアにとって神様のご計画と御業に対して沈黙して待つことを意味します。
この「しるし」は、民衆にとっても大きな意味がありました。彼らは、ザカリアが聖所から出てきて、祝福の言葉を与えることを待っていました。その言葉は民数記6章24節から26節の言葉です。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」という言葉です。
21節から22節。「21民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。 22ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。」 ここでは民衆は祝福の言葉を受け取ることができませんでしたが、民衆が聞くべき言葉はザカリアからの祝福の言葉ではなく、その息子ヨハネからの「悔い改めよ。そして主なる神に立ち返れ」という言葉であったのかも知れません。
23節。「23やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った」とあります。彼は言葉を発することはできませんでしたが、エリサベトに神殿の中で何があったのかを密かに伝えたと思います。彼が彼女に伝えたことは、神様のご計画と御心であり、この夫婦を用いて救い主の到来を準備する者が生まれるということであったと思います。
それはエリサベトにとって大きな喜びとなり、楽しみとなり、希望となったと思います。「24その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。25『主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。』」
この箇所から何を学ぶことができるでしょうか。それは、神様はわたしたちを救うため、祝福するための計画をもたれ、その計画を着々と進められるということです。わたしたちが神様の愛を聞き、知り、受け取るためにたくさんの人が不思議な方法で用いられました。そこには恐れや不安もあり、反応も様々あったと思われます。しかし、神様の御心、ご計画は着々と進められてゆきます。そこには神様の約束が確かであることを示す「しるし」もあります。神様のご計画の中に生かされていること、誰かが神様の愛を受け取るために神様がわたしたちをも用いようとされていることを覚え、感謝し、その働きを担ってゆきたいと思います。