ルカ(10) イエス様の献児式

ルカによる福音書2章21〜40節

前回は、天使からイエス・キリストの誕生を知らされた羊飼いたちが「自分たちの救い主」を探し出して、礼拝したこと、天使が自分たちに告げたことがすべて正確であったので、自分たちのような境遇の者たちでも神様に愛されているという真実を知って、神様をほめ讃えたという箇所を聴きましたが、今回はその後のこと、つまりイエス様の誕生の出来事を締めくくる部分をご一緒に聴いてゆきたいと思います。

 

まず21節ですが、前回の学びの最後にお話ししても良い内容だとも思いましたが、イエス様がお生まれになったその日の夜の出来事に集中したかったので、生まれて8日後のことを切り離してお話しすることにしました。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」とありますが、バプテスマのヨハネの時にもお話ししましたが、神様とイスラエルの民との間に交わされた約束のしるしとして男児に割礼を施すこと、そして名前を付けることは核家族だけでなく、その一族全体、またコミュニティーにおいても大きなイベントです。

 

しかし、イエス様の割礼と名前を付ける時、ヨセフとマリアは旅の途中でありましたので、核家族だけで祝うイベントになりました。人間的に言うと、とても寂しいことで、多くの親族や友人達に一緒に喜び祝ってもらいたかったでしょう。しかし、この部分で重要なのは、この夫婦は、御使ガブリエルから示された名前を付けたという事、神様のご意志に従ったという事です。「イエス」という名は、「主(神)は救い」という意味です。

 

次に、イエス様の誕生の出来事・物語を締めくくる重要な出来事が22節から40節までに記されていて、大きく4つの出来事が記されています。

 

まず22節から24節が最初の区分となりますが、ここではヨセフとマリアが、律法に従って、イエス様を神様に献げるためにベツレヘムからエルサレムの神殿に来たことが記されています。彼らがいかに神様を第一にし、御言葉に従う純粋で忠実な夫婦であったということが分かります。

 

「22さてモーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。23それは主の律法に「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24また主の律法に言われているとおりに山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった」とある。

 

22節に「清めの期間」とあります。産後の母の清めについての規定が旧約聖書のレビ記12章に記されていますので、そちらをご参照いただきたいと思いますが、女性が宗教的に汚れている期間は、男児出産の場合は33日間とされていますので、イエス様が誕生してから1ヶ月ほど、多く見積もって40日間ほど経過した時期のことが記されています。

 

23節に記されている「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」ということは、出エジプト13章2、11〜12、15節に背景が記されています。24節に記されていることは、先ほどのレビ記12章に記されていることと重なるのですが、民数記6章にもつながってゆきますので後ほど説明します。

 

この最初の区分で重要なことは、イエス様が「主なる神様のために聖別される」ということです。御使ガブリエルもマリアから生まれる子は、「聖なる者」と呼ばれるとあります。聖書には、神様のために献身して生きる人が聖別されると、「ナジル人」と呼ばれますが、バプテスマのヨハネも「ナジル人」と呼ばれていました。イエス様も神様のために生きる人として、ここで両親によって神様に献げられ、聖別されたと考えられます。

 

神に仕えるナジル人とされた者は、祭司によって祝福の祈りを受けることが民数記6章の22節から26節にあるのですが、それが次の区分になる25節から35節にあるシメオンという人の賛美と重なるとされています。

 

まず25節から27節で、二つのことに注目したいと思います。まず「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た」とあります。

 

ここに「聖霊」がいつも共にいるシメオンという人が登場します。なぜ彼に神様の霊がとどまっていたのでしょうか。それは神様が聖霊によって彼を守り、導き、そして救い主を見せるためでした。聖霊を通してシメオンは決して死なないという約束を信じることができ、聖霊に導かれて神殿の境内へと導かれて行き、そしてまだ生まれて一ヶ月ほどの乳飲み児が救い主であると見ることができ、神様をほめたたえるようにされました。

 

わたしたちも、聖霊の導きと励ましによってのみイエス様を救い主と認めて信じること、初めて告白することができ、救い主をほめたたえることが可能になります。自分の力だけでは救い主を見ることはできないし、告白することも賛美することもできないのです。

 

さてこのシメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」とあります。「慰められること」とは何か。この「慰め」という言葉は「パラクレーシス」というギリシャ語が使われていますが、神の民として生きてゆくためにはなくてはならぬものです。この「慰め」という言葉は、使徒言行録では9章31節や13章15節に出てきますが、「励まし」とも訳されています。旧約のイザヤ書40章1節、51章3節と12節、52章9節に主の民は慰められるという約束が記されています。この「パラクレーシス」という言葉は、合成語で、「傍らで」、「声をかける」という二つの言葉から成り立つ言葉です。

 

つまり、シメオンをはじめイスラエルの民たちが切に求めていたのは、主なる神様が傍らに立って声をかけてくれること、「わたしはあなたといつも共にいるよ、あなたは独りではないよ」という慰めと励ましの言葉、救いを求めていたということが分かります。そしてその願い通りに、「神われらと共にいます」というインマヌエルの神、救い主が誕生したことをシメオンは聖霊によって知り、感謝と喜びの賛美をささげるのです。

 

それが28節から32節の「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。29『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31これは万民のために整えてくださった救いで、32異邦人を照らす啓示の光、 あなたの民イスラエルの誉れです。』」という言葉です。

 

シメオンは、自分の腕の中にいる救い主は万民のため、すなわち異邦人とイスラエルの全ての民のために神様が備えてくださったメシア・救世主であると告白し、賛美します。そのようにできたのは、神様の霊がシメオンと共にいて、彼を励ましてくれたからです。

 

33節に父ヨセフと母マリアは「幼子についてこのように言われたことに驚いていた」とありますが、彼らが驚いたのはシメオンが神様の御心を知っており、主を賛美し、幼子を祝福したから、「ここにも神様の御業を信じ、感謝している人がいる」と知ったからです。

 

さて、これまでシメオンは主を賛美しましたが、34節と35節では対照的に幼子の受難と死を予告します。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」。

イスラエルの救いのために生まれたイエス様は、イスラエルから拒絶される、すなわちイザヤ書8章14節にあるように「イスラエルのつまずきの石、救いを受ける妨げの石、仕掛け網、罠」となってします。しかし、イザヤ書28章16節には、イエス様につまずかない人たちの「信仰の礎の貴い隅の石」となると言っています。イエス様を神様から遣わされた救い主と信じる人は祝福されるが、信じない人はイエス様を切り捨てようとして殺そうとします。それ故に35節でシメオンはマリアに対して「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と言っています。愛する子が十字架上で殺される時、マリアはさぞかし悲しかった、辛かった、苦しかったと思いますが、すべてはわたしたちを救うためでした。

 

36節から38節が三つ目の区分ですが、アンナという女預言者が登場します。ここで注目すべきは彼女の年齢です。2000年前の84歳です。ルカ福音書に登場する人物でヨセフとマリアと羊飼い以外は、みんな高齢者です。ザカリアとエリサベトもそうでしたが、今回のシメオンもいつ死を迎えてもおかしくない年齢でした。ルカという人は長かった旧約の時代が今や終わりに近づき、新時代が来ているということを若いヨセフ夫婦と御子イエス様の誕生と、それ以外の人達の年齢で現そうとしたと考えられます。しかし、アンナの素晴らしいことは、神殿から離れずに、夜も昼もずっと神様に仕え続けたということ、その忠実な僕に救い主の誕生を神様は見せます。アンナは神を賛美し、救い主の誕生を人々に話して聞かせます。どんなに歳を重ねていても、わたしたちにできることです。

 

最後の区分は、39節から40節で、「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。40幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」とあります。マタイによる福音書とは違う内容となっていますが、神様を畏れ敬う両親が神様から託されて子を大切に育てたことが最重要です。