ルカによる福音書 3章21節〜22節(15〜16節)
今日は、イエス様がバプテスマを受けられた時のことをルカ福音書から聴きますが、その前に先週触れなかった15節と16節についてお話しさせていただこうと思います。次のようにあります。「15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。』」と記されています。
ここから二つのことをお話しします。まず「民衆」という言葉があります。7節では、バプテスマを授けてもらおうとヨハネのところに押し寄せてきたのは「群衆」であったと記されています。「群衆」と「民衆」は、明らかな違いがあります。「群衆」という人々は、「救い」を求めてバプテスマを受けにきた人たちです。「民衆」という人々について、15節では「メシアを待ち望んでいる」人たちであったと記されています。
注解書か、どなたかが書かれた本に「民衆」とは「救いを受ける用意のある民」と記されていました。この解釈も重要な着目点であると思います。「救いを受ける心の用意」があるか。多くの人々は、現代社会において、日々忙しすぎて、忙殺されすぎて、救いを求める余裕が心にない。疲れすぎて、救いを求める力がない人が多いのではないでしょうか。
わたしたちも「群衆」の一人です。自分の救い、祝福を願う者で、救われるためには何でもする者です。しかし、わたしたちは「群衆」から、一歩前進して「民衆」にならなければならないのです。すなわち、バプテスマという儀式を受けるから救われるのでなく、わたしたちはメシア・救い主によって罪赦され、救われる存在ですから、救い主を求め、救い主によって救われなければ、本当の意味で「救い」はないのです。「群衆」は、儀式にこだわり、儀式が済めば自分は救われたと思い込み、元の生活に戻ってしまいます。しかし、バプテスマを受けることはゴール(地点)ではなく、スタート(地点)であって、救い主イエス様と一緒に歩んでゆく人生がこれから始まるということです。バプテスマ(洗礼)は自分の信仰を公に表明するためにもとても大切です。しかし、最も大切なことは、救い主イエス・キリストと共に歩んでゆくこと、イエス様に従い続けることなのです。
もしかしたらヨハネがメシアではないかと、民衆は心の中で考えていたと記されています。まだメシアが自分たちの前に現れていないのですから、そのように考えても何らおかしくはありません。ここで大切なのは、彼らの考えをすばやく察知したヨハネが「自分はメシアではなく、メシアはこれから来られる。そしてそのメシアは素晴らしい性質を持たれたお方だ」と言うところにあります。彼は言います。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。
これから来られるメシア・救い主は、「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言うのは、聖霊降臨を意味していると考えられますが、人々の求める「表面的な救い、一時的な救い」でなく、わたしたちの内側をまったく新しくする力をもって「本当の救い、永遠に続く魂の救い」を与える方が来られるということを言っているのだと思います。
「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」にどういう違いがあるのか。「水のバプテスマ」は罪からの改心を表すもので、「聖霊のバプテスマ」は救いをもたらすものです。ゆえに、「水のバプテスマ」は「聖霊のバプテスマ」の準備段階と言えると思います。
違った角度から言うと、「水のバプテスマ」は救いを求める「わたしたちの意志・願い」から始まった結果、与えられるものです。しかし、「聖霊と火のバプテスマ」は、わたしたちの想像を遥かに超えて、わたしたちの魂を永遠に救うために「神様の意志・御心」から始まった愛であると考えられます。火によってわたしたちの不要なもの、不純物は焼き尽くされ、新しい心に聖霊が共にいて力を日々与えてくださる。この「力」とは、イエス様を救い主と日々告白し、神様と人に日々仕えるための神様から賜る力、祝福の力です。
さて、次に本題の21節と22節に聴きたいと思います。「21民衆が皆バプテスマを受け、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」とあります。この短い箇所に、たくさんの謎とたくさんの奇跡、たくさんの恵みが記されています。
今日は、4点、ご一緒に着目してゆきたいと願っています。1)なぜイエス様はバプテスマを受けられたのか、2)イエス様は何を祈られたのか、3)聖霊がイエス様に降ったということの意味と目的は何であるのか、4)そして最後の神様の言葉の意味は何であるのかをご一緒に聴いてゆきたいと思います。
1)イエス様がバプテスマを受けられたことは、マタイ福音書3章とマルコ福音書1章にもっと詳しく記されていますが、ルカ福音書ではもっと簡素に記されていて、バプテスマのヨハネの名前さえありません。素朴な質問として、なぜイエス様はバプテスマを受けられたのか。そもそも受ける必要があったのかということを考えたいと思うのですが、わたしの神学的立場から言いますと、イエス様は神の子であられるので、バプテスマを受ける必要はなかったが、あえて受けられたと申し上げ、その理由をシェアしたいと思います。
21節に「民衆が皆バプテスマを受け、イエスもバプテスマを受けて」とあります。バプテスマを受けた民衆とイエス様が並列に記されています。これは、イエス様が罪にある人々と共に生きるためにバプテスマを受けられたと考えることができると思います。すなわち、神の子がわたしたちの一人となって、共に歩んでくださるためであったと言えます。
また、イエス様はこれまで「ヨセフとマリアの子」として仕えて生きてきましたが、これからは神の子・メシアとして神様と人に仕えるためにバプテスマをお受けになられたと捉えることができます。このバプテスマから、イエス様の公の宣教活動が始まります。
2)バプテスマを受けてイエス様が最初になさったことは「祈り」です。イエス様は神様に祈られた。そしてずっと祈り続けるお方です。ルカによる福音書には「祈るイエス様」が何度も記されています。そして祈られるイエス様が記されている時、それは宣教においていつも特別な段階、新しい段階に入る前に必ず祈られる姿が記されています。そして今回の箇所もそうですが、神様はいつもイエス様の祈りに応えてくださるのです。
さて、イエス様はここで何を祈られたのでしょうか。色々あったと思われます。順序は分かりませんが、まず群衆のため、民衆のために祈られたのではないかと思います。群衆が民衆になり、民衆が弟子となってイエス様に従ってゆくために祈られたと思います。また、これからの歩み・働きのために祝福を祈られたと思います。ご自分を通して神様の御心が成りますようにと祈られたと思います。残してゆく家族のためにも祈られたでしょうか。他にもどのようなことを祈られたと思いますでしょうか。この後、分かち合っていただければと思います。
3)イエス様が祈っておられる時に「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」とあります。このことにどのような意味・目的があるのでしょうか。「天が開く」という時、それは神様の奥義を神自らが明らかにする「啓示」を意味します。とっても重要なことがここで明らかにされるということです。それは神様の言葉にありますので、後ほど聴きます。次に「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」とあります。暗闇の中を彷徨う民・わたしたちを探し出し、光りの中へと導く霊と力、愛を神様からはっきりと、確かに、そして豊かに授かったということです。その愛と力がわたしたちにも与えられていることは、本当に素晴らしい幸いであると思います。
4)公に宣教活動・宣教生活をこれから開始されるイエス様に対して、神様はなんとおっしゃったでしょうか。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とおっしゃいます。そのように「宣言」なさるのです。詩編2編7節に「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」という神様の言葉があります。またイザヤ書42章1節には、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」という言葉があります。
イエス・キリストこそが、神様によってこの地上に派遣された救い主であるという宣言であり、イエス様を励まし、祝福する言葉であり、神様の喜びを表す言葉、そしてイエス様を派遣する言葉であると捉えることができます。イエス様が、神の愛を受け継ぐ御子であり、このイエス様を通して、人は神様の愛と赦し、救いを受けることができるということではないでしょうか。「わたしの心に適う者」とは「わたしの願いを行う者」という意味があります。わたしたちも神様の御心を行う者とされ、生かされてゆきたいと願います。
イエス様の祈りが神様によって応えられ、祝福のうちに始まります。このイエス様の歩まれる道は、エルサレムの十字架に向かう道であることを覚えましょう。今後もルカ福音書を読み進めてゆく中で、神様の御心をイエス様から聴いてゆきましょう。先週も聴いたように、神様に愛され、赦され、生かされ、祈られている証しとして「実を結ぶ」こと、役に立たない燃やされる麦の殻ではなく、麦になって仕えてゆくことを求めましょう。