ルカによる福音書 4章1節〜13節
ルカによる福音書の学びもイエス様の本格的な宣教活動が始まる4章に入ってゆきます。何をもって「本格的」というのか。それはイエス様のバプテスマの後に神様が宣言された「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉にあります。イエス様は、神様の御心に適うことをするために生きてゆかれるのです。わたしたちも神様に愛されている者ですので、神様の御心を行う者とされて行きたいと願いますが、その最善の方法は、イエス様を救い主と信じ、「模範」として従うことです。
4章1節前半に「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」とあります。イエス様の中に、神様の霊が満ち溢れています。そのイエス様がヨルダン川から宣教の地であるガリラヤ地方へ赴く途中、「荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」と2節前半までに記されています。
ここで注目すべき点が4つあります。まずイエス様は「“霊”・聖霊」によって荒野へと導かれたということ。これは神様の御心にイエス様が従った最初の出来事です。「荒れ野」とは、人がいない所、人の声がない所、非常に寂しい所です。しかし、神(聖霊)が一緒にいる所、神の声がある所、神様によって整えられる所でもあります。
イエス様がなぜ聖霊によって荒れ野へと導かれたのか、それはこれからの宣教の準備のため、トレーニングのためです。大きな働きを担う前には、技能だけでなく、精神的な研修が必要です。
二つ目ですが、「四十日間」という期間です。これはイスラエルの民たちがエジプトを出て40年間荒野を彷徨って、様々な試練や試みの中で整えられ、一新され、神の民として約束の地に入る準備がなされた事を表しています。復活されたイエス様は、弟子たちと40日間過ごされましたが、その期間というのは弟子たちを全世界へ派遣するために必要なトレーニングの期間であったのです。「40」という数字は、神様による訓練を表す大切なものです。
三つ目。この40日間、「悪魔から誘惑を受けられた」とあります。先ほど、荒れ野は「人がいない所、人の声がない所は、神(聖霊)が一緒にいる所、神の声がある所」と言いましたが、神様がおられる所には、すぐ近くに「悪魔」もいるのです。光と闇の関係です。神様へ引き寄せる力がある所には、神様から引き離そうとする力が存在するのです。
ですから、気を引き締めてイエス様に集中していないと、気が緩む(少し鷹を括ったり、傲慢になる)と、すぐに心を惑わす存在が近寄ってきて、わたしたちをイエス様から引き離そうとします。
四つ目に注目したいのは、なぜイエス様は荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたのかということです。そもそも誘惑を受けられる必要があったのかという疑問が出てきます。このことに関しては、二つの側面からその理由を知ることができます。
一つは、神様からの側面です。先ほど言いましたように、本格的に宣教が始まる前に、神様からのトレーニングをイエス様があれので受けられるという意図を持った試練・誘惑です。イエス様がどのように試練と誘惑に向き合ったのかを知ることによって、わたしたちは、人生の試練・誘惑にどう向き合うかという良い模範が示され、励まされるのです。
もう一つは、人の立場に立った側面です。つまり、わたしたちのためにイエス様は試練にあわれたということです。わたしたちの人生というのは、「試練・誘惑」の連続です。様々な誘惑によって心は彷徨い、様々な試練によって心は疲れます。魂に飢えと渇きを覚え、満たされない思いが心を満たします。そういうわたしたちの弱さに寄り添うために、イエス様は宣教を始める前に、あえてその誘惑と試練の中を歩まれたのだと思います。
ヘブル人への手紙2章17節と18節に「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司(贖い主)となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たち(わたしたち)と同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身(イエス様)、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」という言葉があります。
イエス様は、わたしたちに寄り添い、試練から守り、罪を贖い、わたしたちを苦しみから救い出すために、荒れ野での40日間の試練の時を過ごされたのです。
40日間、「何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」とあります。これは肉体的にも精神的にも追い詰められた極限の状態を表しています。そのような時、自分は何者であるのか、何のために生きて来て、これからどう生きていくのか、誰に頼って生きるべきなのかが分からなくなります。それが、わたしたちなのです。
そのような時に悪魔が近寄ってきて、イエス様を3回試みます。イエス様が荒れ野で悪魔の試みにあわれた出来事は、マタイ(4章)、マルコ(1章)、ルカ福音書に記録されていますが、マルコには試みの内容がありません。あるのは、マタイとルカだけです。しかし、興味深いのは、3つの試みは同じなのですが、その順番がマタイとルカでは違うのです。
ルカは、1)「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」、2)「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」、3)「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」という順ですが、マタイは1、3、2の順で記します。
ルカとマタイでは、どうして2と3の順番が入れ替わっているのでしょうか。それは、3つの試みに対するイエス様の「答え」に関係があるのですが、つまりユダヤ人マタイと異邦人ルカでは、イエス様の言葉で強調したい点が違うのです。
マタイによる福音書は、ユダヤ人を対象と書かれました。ユダヤ人たちを救い主へ導くためです。ですので、マタイ版の誘惑の順番は、出エジプト記に記されているイスラエルの民が荒れ野で誘惑を経験したことに重ねているのです。
最初の試みは、「パン」のことですが、荒れ野を旅しているうちにパンがなくなった民は呟きます。しかし、不思議な形で彼らの「飢え」を満たしたのは神様でした。天から「マナ=パン」を送りました。出エジプト記16章にそのことが記されています。
次の試みは出エジプト記17章1節から7節にある「水」のことです。食べ物の後は水の問題で彼らは呟きました。しかし、彼らの「渇き」を満たしたのも神様でした。
最後の試みは「礼拝」です。誰を礼拝するのかということで、出エジプト記32章に関係しています。シナイ山からなかなか戻らないモーセにしびれを切らせたイスラエルが祭司アロンに迫って「金の子牛」の像を作り、偶像を礼拝する大きな罪を犯します。
それでは、異邦人に対して書かれたルカによる福音書は、わたしたちにどのような大切なことを教えてくれるのでしょうか。ご一緒に見て行きましょう。
悪魔の最初の試みが3節にあります。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」というチャレンジに対して、イエス様は「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになります(4節)。旧約聖書の申命記8章3節の言葉です。
悪魔から「わたしは知っている。あなたは確かに神の子だ。それなら、父なる神に頼らないで、自分の思いのままに生きたらどうか」とけしかけているようです。しかし、イエス様は「人はパンだけで生きる者でなく、神の言葉によって生かされる者、人は神様により頼んで生きる者である」とおっしゃっています。
わたしたちは、神様という存在を脇に置いて、自分の知恵と力で生きようとする傲慢さがあります。しかし、わたしたちは、神様が存在されているからこそ生きられる存在であることを覚えたいと思います。わたしたちが人生の中で試練、悪魔の試みにあった時に大切なのは、それでも神様に信頼して、神様の言葉、イエス様の声に聴くことなのです。
5節から7節に二つ目の試みがあります。「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。』」とあります。
それに対して、イエス様は「『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある」と8節で答えられます。これは同じく申命記6章13節の言葉の引用です。この地上の権威は、悪魔にあるのではなく、神様にあり、またイエス様に委ねられています。
わたしたちが犯しやすい間違いは、生きる自由、権利、権威が自分にあると思い込んで好き勝手に生きることです。しかし、わたしたちは神様に愛され、生かされることによって、初めて生きることができるのであって、この愛と憐れみの神様を畏れて生きること、神様を拝み、感謝と喜びをもって主に仕えて生きることが御心です。わたしたちは礼拝される者でなく、神様を礼拝する者、仕える者であることをイエス様はその身をもって教えてくださいます。
9節から11節に三つ目の試みがあります。「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、 あなたをしっかり守らせる。」また、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」』」とあります。
それに対して、イエス様は「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった」と12節にあります。イエス様は、ここで申命記6章16節の言葉を引用します。
ここでマタイとルカの試みの順番の違いの鍵となるのが「エルサレム」です。ルカは、イエス様の最後の試練、試みをエルサレムの十字架とし、わたしたちをそこに集中させようとします。なぜならば、この地上での誘惑、試練に打ち勝つお方がイエス・キリストであられ、罪と死に勝利された方がイエス様であることを強調したかったからです。
人生に試練が起こり、行き詰まりを感じると、わたしたちは混乱してしまいます。自分のことも、人生のことも、何もかも分からなくなります。そのような中で、神様を試し、神様が存在するのか、本当に愛してくれているのなら証明してみろと言ってしまいます。
しかし、わたしたちのなすべきことは、神様を試みることではなくて、神様をとことん信じ続ける、悪魔と罪と死に勝利してくださった救い主イエス様を信じ続けることなのです。わたしたちの試練、誘惑、行き詰まりの中にも、神様は、イエス様は、いつも共におられるのです。
最後の13節に、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」とあります。「時が来るまで」とは、イエス様の十字架の時を指しています。イエス様は、十字架に架けられる前の数日間、たくさんの試みを経験します。裏切られます。たくさんの言葉や肉体の暴力を受けます。弟子たちに逃げられます。十字架の下からイエス様を試みる者たちの声や罵倒する声が聞こえます。
しかし、イエス様は神様の御心を行うために、神様だけを見つめてゆかれました。十字架から降りられませんでした。そこにイエス様の従順さがあり、その従順さは「イエス様のご性質だから」と言って片付けるものではなく、宣教開始前の荒れ野でのトレーニングがあったから、すべてはわたしたちを試練や誘惑から救うための苦しみであったということを覚えたいと思います。