「神を呼び求められる幸い」 平和を覚える礼拝 八月第二主日 宣教 2022年8月14日
ヨナ書 1章4〜6節 牧師 河野信一郎
おはようございます。8月第二の主日の朝を迎えました。今朝もオンラインで、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる恵みを神様に感謝いたします。今日は、夕礼拝を5時からおささげできますので二倍の感謝です。今日からヨハネの手紙に聴く新シリーズが始まります。第一から第三の手紙まで聴きます。夕礼拝開始から先月で3年過ぎましたが、コロナの深刻な影響もあって、この礼拝堂に集うのは、奉仕者のみという嵐のような状態が続いています。神様の豊かな祝福が夕礼拝にあるように、また奉仕者たちのためにどうぞお祈りください。
さて、3年ぶりに行動規制のない夏休みということで、今週と来週、郷里に帰省中、各地に旅行中の方々もたくさんおられると思いますが、すでに日本が3週連続でコロナ新規感染者数世界一となっている厳しい現実があり、大変な状況に直面しています。また、中等症の方の容態が急変しても入院できないまま息を引き取られるケースが増えているとニュースで知り、厳しい現状の中に日本全体が置かれていることを知りました。この悲しい現状と突きつけられる厳しい数字を少しでも早く減少させてゆく努力と神様に呼び求める祈りが重要です。
昨日は台風8号の影響で関東にも激しい雨が降り注ぎましたが、北海道、日本海側の7県、東北でも甚大な被害が出ています。有名なりんごの産地・青森や米どころの秋田、山形、新潟県等も洪水で壊滅的な被害を受けているとの事です。自然災害という「嵐」の中に置かれて大きな不安の中にあるこの国に神様の憐れみがあるように共に祈り続けましょう。
日本は大雨に悩まされているのに、世界を見渡しますと、長引く干ばつで世界人口の40%以上になる36億人が水不足の状況であるそうで、イギリスやメキシコも深刻な状態の中にあると聞きました。地球上の自然の厳しいアンバランスさがあることを認めざるを得ません。このアンバランスさが水を奪い合う地域紛争となり、隣国との戦争につながると専門家たちは警告しますが、飲み水・生活水を奪い合う紛争はすでにアジアやアフリカで始まっています。
しかし、そういう中、日本の有能な研究者たちが海水を真水に変えるシステムの研究で新たな発見があったと報道されていました。圧倒的なスピードで変えられる糸口が見つかったそうです。今後の研究の道のりは厳しいとのことですが、今回の発見を他の技術に転用したりもできるそうで、研究が実を結び、実用化すれば、世界平和につながること間違いなしです。
この海水を真水に変える物理学上の画期的な発見を技術へ転換させ、開発にスピード感を持たせるための方法はたった一つしかないと私は考えます。それは今回得た貴重な情報をもったいぶらないで世界中の研究者、技術者たちに開示し、分かち合って、生活水を作り出すプロジェクトに一緒に取り組んでゆくことです。人間は欲深いので、すぐに特許権とか、これまでの研究に捻出してきた費用の回収とか、金儲けのことを考えたりする悪い性質がありますが、人類の命と生活、世界の平和のために情報を分かち合ってゆくことが重要と考えます。
先週の広島市での平和記念式典中の小学生たちの「平和への誓い」は、力強い言葉でした。「本当の強さとは違いを認め、相手を受け入れること、思いやりの心を持ち、相手を理解しようとすること。本当の強さを持てば、戦争は起こらないはず。過去に起こったことを変えることはできないが、未来を創ることはわたしたちにできる」という一致を誓う言葉でした。この誓いの根底には、77年前の8月6日に、世界初の原子爆弾によって大切な人たちを一瞬にして失い、被曝するという本当に辛くて悲しくて残酷な経験があり、現在進行形であります。
日本と世界の平和を願いつつ、「真の平和」を神様に祈り求めるわたしたちですが、もしわたしたちに平和を作り出すことが可能であるとしたら、わたしたちは何を出発点として、何を土台として、「真の平和」を作り始めることができるのでしょうか。大変難しい問いかけであり、戦後77年を迎えた日本に生きるわたしたちの大半は「平和ボケ」で真剣に答えを出そうと動いていないように思えます。活動しているのは一握りの人だけで、臭い過去には蓋をして、今も一部の人々にだけ苦しみを負わせ続けているのが身勝手なわたしたちだと思います。
もし「真の平和」を作り出すこと、将来に希望を見出すことがわたしたちに可能であるとしたら、その出発点、その土台は、わたしたちの過去の「痛み、悲しみ、苦しみ」であると思います。日本は唯一の被爆国です。確かに過去の体験が逆効果になって、人々の中に怒りや憎しみや恨みを抱かせ、敵意を増幅させることにつながるかもしれません。しかし、最愛の家族や友や仲間の死を体験し、掛け替えのないもの、唯一無二なもの、大切なものを失った痛み、悲しみ、苦しみの経験は、不正や不義を嫌い、無意味な争い・戦争を避け、戦いのない「真の平和」を希求する原動力、土台となると私は信じます。そのように信じ祈る者です。
そのように信じる根拠はいったい何か。それは、わたしたちの救い主イエス・キリストです。イエス様は、神様に対するわたしたちの罪、敵意、不誠実さ、傲慢さ、有りとあらゆる肉の思いをすべてその身に負って十字架上で死んで贖ってくださいました。主の命を贖いの供え物としてささげてくださった。この主イエス様の十字架の贖いの死によって、わたしたち罪人の罪は赦され、神様との和解、真の平和が与えられました。イエス様は、わたしたちのような本当に取るに足らない、小さく、傲慢で、強情で、自己中で、どうしょうもない者に神の愛と平和と希望を与えるために、その命を十字架上で引き換えにしてくださったのです。
神様がわたしたちに与えてくださる救い、真の平和は、イエス様の贖いの死の上にあり、御子を犠牲にする神様の悲しみ、痛み、苦しみの上に積み上げられた愛の結晶です。神様がわたしたちに求めておられる真の平和は、イエス様を救い主と信じ、十字架の死を通して与えられた神様の愛とイエス様の犠牲を感謝し、永遠の命の約束、復活の希望に生きる中で、聖霊と共に結んでゆく「霊の実」と言えます。地上の真の平和は主イエス様との共同作業であって、決してわたしたち単独では結べない。ですからイエス様につながる必要があるのです。
さて、先週からヨナ書に聴いていますが、預言者ヨナは神様からニネベに行って、その民に悔い改めさせよと命じられます。ニネベはイスラエルを悩ます敵国アッシリアの首都であり、その敵の民が悔い改めて救われることなどあり得ない、許せないと怒りを抱いたのでありましょう、ヨナは正反対の方角へ逃げてしまいます。つまり、神に仕える預言者としての責任を放棄して国外に逃れて雲隠れしようとするのです。ヨナは大きな勘違いをしていました。それは、主なる神様はイスラエルの民だけを愛し、守り導き、繁栄を与えるべきで、ユダヤ人以外は滅びても良いという考えです。しかし、その考えは神様の思いから遠く離れています。神様はすべての人、世界の人々を造り、生かし、愛しておられるからです。ある特定の地域に生きる一民族だけではなく、世界中のすべての人を神様は深く愛しておられます。
しかし、イスラエルをこよなく愛し、イスラエルを常に苦しめる敵国アッシリアに対して強い反感を抱いていたヨナにとって、神様がアッシリアの罪を赦すなど、とんでもなく許しがたいこと、絶対に受け入れられないことでした。ですから、3節に「ヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった」とあります。ヨナは神様に反抗し、責任を放棄し、神様から逃げようとするのです。
その行為はヨナの傲慢さの表れで、神様に対する「罪」であったわけです。普通なら、そのような不従順な者には見切りをつけて、新しい人を選び、派遣しようとするでしょう。しかし、神様はヨナを見切ることなく、神様の愛する民の救いのために彼を用いようとされます。神様にはヨナを用いて神の愛の豊かさをすべての人に示すご計画があったからです。また、ヨナを反面教師として用い、わたしたちに大切なことを教える目的があったと思います。
ですから、だいぶ荒手のように感じるかもしれませんが、ヨナを引き戻そうと神様は大風を海に向かわせます。そのことが4節から記されています。「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった」とあります。自然現象の中に神様の御心を見る古代人の信仰観がここに描かれていますが、ここで勘違いしやすいのは、この大風は神様の怒り「だけ」を表していると捉えてしまい、神は恐るべき方で、命令に従わないとこういう恐ろしい仕打ちをなさる恐ろしい神であると思い込んでしまうことです。
しかし、わたしたちはヨナの不信仰と無責任さをどこかに棚上げしてしまっています。つまり、ヨナが神様の命令に従わないことによって神様との関係が乱れてしまったという根本的な間違い・原因を忘れて、神は非情な方だと思い込むことは御門違いであり、わたしたちも同じことをしていることに気づく必要はあると思うのです。つまり、苦痛の原因はわたしたちの側にあるのに、それを神様の所為にしてしまう弱さがあるという事実を認めることです。
ここで神様がヨナに対してしていることは、単に神様の恨みとか怒りの表れではなく、神様から逃れ、神様に対する責任を放棄しようとするヨナを元どおりの正常な関係性に戻すための手段であるということ、神様の愛から出ていることだと捉える必要があると思います。人生には確かに大変なことが多々ありますが、それはもしかしたら、いえ、非常に高い確率で、わたしたちの不信仰、不忠実さに原因があって、神様は愛と憐れみと忍耐をもって、わたしたちを御許に引き戻そうとされている御心があることを知る必要があると思うのです。
わたしたちの傲慢さ、不忠実さで苦しむのは、神様だけではありません。周囲の人たちが苦しむことになるということを次の5節の前半から知ることができると思います。なんとあるでしょうか。「船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした」とあります。つまり、ヨナが責任を放棄して神様から逃げたため、大風によって嵐が起こり、海は大荒れになります。船の沈没、命を、何もかも失うかもしれないという恐怖に落とされたのは、何も背景を知らない船乗りたちや他の乗客たちであったということです。
船乗りたちは、乗客と自分たちの命を守るために積み荷を海に投げ捨てて船を軽くしたり、自分たちの神に助けを求めて叫んだと記されています。たぶん彼らは異邦人であったと思われるので、自分たちが信じている神々に必死に助けを求めて祈ったと思います。しかし、海が大荒れになる原因を作った張本人のヨナは、その時なにをしていたでしょうか。
5節後半に「しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた」とあります。なんという図太い神経の持ち主でしょう。自分の傲慢さでどれだけ多くの人々が怯え、苦しみ、助けを叫んでいるのかを見て見ぬ振りをするのです。「船底に降りて」とは、現実からさらに逃避していることを表しています。そしてヨナは神から逃れることができたと思い込んで、偽りの「安心感」、思い込みの「平安」の中にくつろぎ、しばしの睡眠を得ているのです。呆れて開いた口がふさがりません。
しかし、神様は、異邦人の船長をヨナに遣わし、彼を現実へと引き戻し、神様へ立ち返らそうとされます。6節をご覧ください。「船長はヨナのところに来て言った。『寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。』」とあります。危機回避のためにみんなが懸命に働いているのに、全員がそれぞれの神に心を注いで祈っているのに、嵐が収まらないのはどうしてだろうかと思っていた船長は、船の中でただ一人、祈っていないヨナがいることに気づき、もしかしたらこの寝ている人が信じている神の怒りが嵐を引き起こしているのかもしれないと考えたのでしょう。ヨナを叩き起こし、「あなたの神を呼び、助けてくださるように求めよ、祈ったら神が気づいて助けてくれるかもしれない」と言うのです。異邦人であっても、最後の最後に救ってくださるのは神だと船長は良くわきまえています。主なる神様は、その真実をヨナにわきまえさせようと、ヨナが軽蔑していた異邦人を、異邦人の船長を用いるのです。神様のなさることは本当に不思議です。神様は、わたしたちを神様に立ち返らせ、果たすべき使命と責任を負わせるために、周りの人や状況を用いされるのです。
イエス・キリストの御名によって神様に祈れること、神様に助けを求めることができるのは本当に幸いなこと、恵みです。しかし、わたしたちはどれだけ真剣にその幸いを喜び、感謝しているでしょうか。自分や家族や親しい人のためには真剣に祈りますが、世界の平和のため、人々の救いのため、わたしを用いてくださいとどれだけ真剣に祈り求めているでしょうか。目の前に起こっている出来事だけに心を費やし、不平不満を抱き、怒りや苦々しい思いを抱いてしまい、真の平和を与えてくださる神様に呼び求めていないのではないでしょうか。
77年前に戦争が終わった日を前に、イエス様の十字架を見上げ、今一度悔い改めて神様に立ち返り、み言葉に聴き、神様から委ねられている責任を受け止め、各自が果たすべき責任を誠実に果たし、教会が果たすべき責任を忠実に果たせるよう、主の助けを祈り求めましょう。