宣教「祈るダニエル」 大久保バプテスト教会副牧師石垣茂夫 2022/08/21
聖書:ダニエル書2章27~36、44~45節(p1,382)
招詞:招詞:ペトロの手紙一2章4~5節(p429)
8月から9月にかけて、教会学校では「ダニエル書」がテキストです。そのため、わたしの宣教は、本日と9月は、ダニエル書からとさせていただきます。
- 旧約聖書地図 ダニエル書の舞台は、この地図の全てに及ぶ広い範囲を、新バビロニア帝国やペルシア帝国が支配下した時代です。
その範囲は、エルサレムのあるパレスチナを中心としますと、南はエジプト、西は現在のギリシヤ、トルコ、東に向かってイラク、イランを経て、インドと接するあたりまでに及びます。
今朝は、こうした時代、主に新バビロニア帝国(地図に中央)が舞台のダニエル書から、前半の幾つかのエピソードを取り上げます。ダニエル書に現わされたキリストの姿をご一緒に示され、、今日こんにちの、わたしたちへの言葉としてお聞きしたいと願っています。
【はじめに、子どもたちの読む絵本をお借りして、1章から3章の物語をお話します。】
- バビロンのダニエル バビロニア王ネブカドネツァルは、捕虜としたユダヤ人王族の中から、優れた若者四人を選びました。彼らに、宮殿内でバビロニアの学問を学ばせ、バビロニアのために仕えさせようと考えたのです。
宮殿で、四人の若者が三年の修養を終えたときには、国中のどの学者よりも十倍も賢く、王のどのような質問にも答えられるようになっていました。しかもその四人は、信仰を異にする異国の人々の中にいても、これまでのように、“主なる神”への礼拝を続け、信仰を持って仕えて行ったのです。(1章1~21節)。これが第1章の物語です。
次は第2章の少し長い物語りです(2:1~49)。
- 王の悪夢 ある日ネブカドネツァル王は、大きな偶像が現れる夢を見ました。それは自分にとって、怖くて悪い夢に思えました。同じ夢を繰り返し見ているうちに不安になり、王は眠れなくなっていました(2:1)。
やがて王は、なんとしてもその夢の意味を知りたくなりました。
- 金の巨大な像 その夢に現れるのは、いつも大きな偶像です。頭は純金、胸と腕は銀、腹は銅、すねは鉄、足は鉄と陶土で出来ていました。
- 砕かれた偶像 ところが突然、その偶像に向かって一つの大きな石が落ちて来て、一番もろい、鉄の足を打ち砕きました。そのためでしょうか、その像全体がばらばらに、砕け散ってしまったのです。
やがて、像を打ち砕いた石が大きくなり、それが地上に溢れていく、そのような夢でした。
王は、この夢を繰り返して見たのですが、夢の意味が分からないうちは、どうにも不安でなりませんでした。
- 学者を集める王 ネブカドネツァル王は、バビロニア中の優れた学者たちをみな集め、無理な問題を課しました。
自分の見た夢を伝えずにこう言いました。「まず、わたしの見た夢を言い当ててみよ、そしてその夢を解いてみよ」と要求したのです。当然ですが、誰もこの難題に応えることが出来ませんでした。
王は憤慨し、乱暴なことですが、学者たちを皆、処刑するようにと命令を出しました。そのため、ダニエルたちも、殺される運命に置かれてしまいました。
- 祈るダニエルたち そのような危機の中でダニエルは、許しを得て時間をもらい、三人の友と一緒に神に知恵を求めて祈りました。すると神は、ダニエルたちの祈りに応えられ、王の見た夢と、夢の解き明かしを与えてくださったのです。侍従長の執り成しを得たダニエルは、王の前に進み出て、これを伝えました。
- 偶像が示す王国の末路 「王様に申し上げます。」とダニエルは語り出しました。
最初にこう切り出しました。
『ネブカドネツァル王よ、あなたに、この国を治めるようにと許したのは主なる神様です。神様こそが、あなたにこの国をまかせたのです。』と(2:37)。
『純金の頭、これがあなたの国、新バビロニア帝国です。銀の胸と腕うでは次に興るメディア、次に青銅の腹と腿ももの国ペルシアです。鉄の“すね”はマケドニア帝国で、鉄と陶土で出来た足は、マケドニアが四つに分けられた後あとのギリシヤの国々です。鉄と陶土が交じり合わなないように、一つとなれない脆もろい国です。やがて神が投げた大きな石によってその足が砕かれると、皆、滅びていきます。このように、長く存続する国というのは一つもないのです。』と、このように夢の解き明かしをしました。
果たして王は、何処まで理解したのでしょうか。ともかく、このように、見事に王の見た夢を言い当て、その夢を解いたので、王はダニエルたち四人を、国の重要な役目に就かせました。
以上が第2章の物語です。
そして3章の物語になります。
ダニエルは先ほどこう言っていました。『ネブカドネツァル王よ、この国を治めるようにと許したのは主なる神様です。神様こそが、あなたにこの国をまかせたのです』と、神の存在をはっきりと伝えていました。王もそれを理解したようにおもえました。
ところが、“真まことの神”の存在を教えられたはずのネブカドネツァル王でしたが、何時しかそれを忘れてしまったようです。
- ドラの平野の金の像 これは3章の物語です(3章1~30節)。
ネブカドネツァル王は、ドラという平野の真ん中に、金色に光る大きな像を建て、これを拝めと命じました。「礼拝を告げる音楽を聞いたなら、これを拝め。拝まぬ者は“燃える炉”に投げ込む」との命令を出したのです。
実は、この命令というのは、日ごろからダニエルたちユダヤ人を妬ねたんでいたバビロニアの民族、カルデヤ人たちの謀はかりごとでした。彼らは、ダニエルたちは当然、金の像を拝まないと、見透かしていたのです。
彼らは、「ダニエルたちは、礼拝を告げる楽がくの音ねを聞いても守らなかった」と、王に告げました。
- 燃える炉の中へ やがて王の命令に従わなかった罰によって、三人が“燃える炉”に投げ込まれてしまいます。
しかしこの時、神は使者を送って“燃える炉”から彼らを助け出しました。以上が3章までの概略です。
この後も、高い地位に就いたダニエルたち異邦人を引きずり落そうとするカルデヤ人によって、繰り返し悪意のある企たくらみが続きます。
「ダニエル書」前半の6章までは、「ダニエルを主人公」にした五つ出来事が起こりますが、揺るがぬ信仰をもって、これを克服したダニエルたちの物語が綴つづられています。
「ダニエル書の目的」
旧約聖書を開いていただきますと、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、この三人の大預言者の書と並んで次がダニエル書です。主人公のダニエルも預言者ですが、このダニエルだけが、実在の人物ではありません。物語も、古代の王を登場させたフィクションなのです。想像上の預言者が、バビロニアの時代に身を置いて活動する、創られた物語です。なぜ、このような、架空の預言者の物語が作られたのでしょうか。
紀元前160年の頃、隣国シリア王となったアンティオコス四世は、エルサレムに攻め込み、ギリシヤの神ゼウス像をエルサレム神殿に置き、「これがわたしだ、この像を拝め」と命じました。
更には、ユダヤ人の嫌う豚肉を食べるようにと、人々に強要したと言われます。この書物が書かれたのは,シリア王のこうした圧政のもとで、神殿が汚され、そのうえ食物の辱はずかしめを受けるという辛い時代のことでした。
ダニエル書は、「信仰者は、このような試練の中をどう生きるのか」、そのような目的をもって書かれました。
著者は、危機的な迫害の時代ではあるが、やがて支配者が打ち砕かれるときが来る。忍耐強く、主なる神への信仰を守って生きようと、人々を勇気づけるために書かれたと言われています。
「ネブカドネツァル王の見た夢」
ダニエル書2章は「ネブカドネツァル王は夢を見た」(2:1)と、始まります。「何度か同じ夢を見て不安になり、眠れなくなった」(2:1)と、初めに書かれていました。
ある人はこの箇所についてこう解釈しました。
「暴力的な支配者は“悪夢”を見る。その時こそ、悪夢を通して神が働いておられるのだ」と言っていました。
これは、ネブカドネツァル王だけの問題ではなく、現代の独裁的な指導者にとっても無関係ではないと思えます。現代の独裁者たちも、「ネブカドネツァル王の見た夢、悪夢」、そのような夢を見ているのでしょうか。
是非とも彼らに“悪夢”を見てもらい。そして神に出会ってもらいたいと思わされてなりません。
罪にまみれ、争いが渦巻く中にこそ、神は働いておられます。いつまでもあなたの時代が続くことはないのだと、神は“悪夢”を通してネブカドネツァル王に伝えていました。王が悪夢を見るときこそ、そこに神が働いておられます。“悪夢”は、悪いことの前兆ではなく、わたしたちにとっては、むしろ、希望の“しるし”なのでしょう。
「人手によらぬ石・生きた石」
ダニエル書2章の、王の夢の中に、「人手によらず切り出された一つの石」という、救い主を予感させる言葉が
ありました。
2:34 見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。
2:35 鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打だ穀場こくばのもみ殻がらのようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。
偶像礼拝に例えられる独裁的な支配は、「人手によらず切り出された一つの石」(2:34)によって、砕かれるというのです。そしてその石は、「大きな山となり、全地に広がった」(2:35)と言われています。
この「石」、「大きな山」、それは神の国のシンボルです。それによって偶像が砕かれるのです。価値のないものに見える、ただの「石」ですが、それは偶像を砕き、更に「大きな山」になると聖書は言っています。
7月の教会学校でも、「石」とは何だろうと、皆さんで考えたことがありました。
エペソ書など、聖書には、主イエス・キリストは「かなめ石」、「隅の頭かしら石いし」(エペ2:20)という言葉があります。わたしたちは今朝のダニエル書から、「石」とは「救い主」のことを言っていると感ずることが出来たのではないでしょうか。
人の目には価値のないと思われる「石」こそが、「金、銀、青銅、鉄、陶土」の、人の手によって作られた偶像の世界を打ち砕くのです。
招詞では“ペトロの手紙一”のみ言葉をお読みいただきました。ここでも救い主が「石」に例えられています。
2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
2章4節のはじめに「この主のもとに来なさい」との、命令形の言葉があります。ある聖書ではこの言葉を、「あなたがたは、既にこの主のもとに来ている」と、現在形で訳していました。
『主イエスは、人々には捨てられたが、神のものとなることによって“生きた石”となった。あなた方はすでに、その主イエスのもとに来ている。』と、4節は言っています。これは、「わたしたちはすでに、金、銀、銅を打ち砕くことのできる「石」、主イエスのもとに集められている」と言っています。
続く25節ですが、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」
と言われています。パレスチナの家はみな、石を積み上げて作られています。石といっても、多くは、柔らかな日干し煉瓦のような石だと思われます。初めは材料としてばらばらですが、選ばれた石が家とし積み上げられてまとまるなら、全体が家となり、石は生きた石となります。
2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
「霊的な家」とは教会のことです。
わたしたちの家は、小さな声の、小さなひと群れすぎませんが、これが、“生きた石”に支えられる教会の営みだと聖書は言っています。
時には、わたしたちのこのような礼拝に対して、これで何が起こるのかと問われることがあります。そこにどんな価値があるのかと問われることもあります。礼拝は、人々の目に、まるでうずくまっているいるように見える営みかもしれませんが、しかし、その営みは死んではいない。“生きた石”である「主イエス」と共にある営みだと聖書は言っています。
わたしたちに求められるのは、どのような状況下にあっても、ダニエルのように、まず、“いつものように”主なる神を礼拝し、祈るということです。わたしたちは、“いつものように”、皆さんで、変わることなく集い、礼拝を続けていくことを、喜びとしましょう。
「わたしたちはすでに、主イエスのもとに来ています」。この確信をもって、礼拝から始まる、この一週の歩みを辿らせていただきましょう。
【祈り】