「ヨナよ、平気で嘘をつくな」 九月第一主日礼拝 宣教 2022年9月4日
ヨナ書 1章7〜10節 牧師 河野信一郎
おはようございます。9月の第一主日の朝、このように礼拝堂で、オンラインで、皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。わたしの一番好きな季節、秋が日に日に近づいていて、ワクワクします。神様は、この秋にどのような恵みをわたしたちに備えてくださっているでしょうか。いつも神様から恵みを頂くばかりですので、この秋は、神様が喜んでくださる感謝と喜びの実を結んで、ご一緒におささげいたしましょう。
さて、今週土曜日の夕方に執事会がオンラインで開かれます。10日までの感染状況を注視して、9月中旬以降の礼拝のささげ方を討議し、来たる11日の礼拝の時に取り決めたことをご報告いたします。ここ数週間は、「もう教会に帰っても良いですか。もう良いでしょう?」という問い合わせの電話やメールがあり、「教会に連れて来たい人がいます」という声や「高校の課題なのですが、ぜひ大久保教会の礼拝に出席したいです」という学生さんもおられます。わたしの心には、感謝としか言いようのない喜びがありますが、慎重になる部分もあります。
コロナ感染が原因で、日本で初めて死亡が確認されたのは2020年2月13日で、それから死亡者が1万人を超えたのは438日後の2021年4月26日でした。その後、291日かけて今年の2月11日に2万人を超え、さらにたった91日後の5月13日に3万人を超えました。そこから111日かけて4万になったのですが、3万5千人から4万人を超えるまでの期間はたったの19日間で5000人が亡くなったのです。9月2日現在で、4万594人が亡くなっています。
この東京では6月に73人、7月には94人が亡くなりましたが、8月は7月の約6.5倍の652人が亡くなりました。東京都の1日の重傷者数と死亡者数の平均ですが、7月は重症者13.7人と死者3人でした。8月はその3倍の重症者37.3人、その7倍の死者21人です。重症者が亡くなるのではなく、重症になる前の段階で、ご高齢のため、基礎疾患を持ち合わせていたために、しかも入院も叶わないで自宅で亡くなられている方が多い状態です。わたしたちの教会のI兄をはじめ、2年と9ヶ月間、コロナ治療の最前線で働き続けてくださっている医療従事者の方々とその家族を覚え、感染防止の徹底と9月以降減少してゆくよう祈りましょう。
さて先週の礼拝では具志堅先生が宣教してくださいましたが、先生のお話はとても分かりやすくて面白かったと応答くださる方々もおられて感謝です。先生は、「自分は宣教に入るまでの前置きが長い」と言っておられましたが、わたしは心の中で「大久保教会の皆さんはうちの牧師の方がもっと長い!と思っているはず」と思いながら聞いていました。ここ最近、妻から前置きはもう少し短く!と釘を刺されていますので、本題に入ります。
今朝の宣教の主題を「ヨナよ、平気で嘘をつくな」にしました。ヨナについては後ほど詳しくお話ししますが、わたしたちの周りには、平気で嘘をついたり、人の心に平気で土足で入り込んで来たり、傷つけたり、期待を平気で裏切ったり、信頼関係をぶち壊す人がいます。
自分には聞く力がありますと言いつつも、ただ聞くだけで何もしない人。検討しますと言いつつも決断力と実行力がない無責任な人。どうしてそこまで人を小馬鹿にできるのかと思えるような人。傲慢で強情の人のせいで周囲が苦しんでいるのに、いっさい気にかけない人もいます。「聞く力がある」と言う人に対して、ある人が「正確には、聞くには聞くけれど、何もしないでいられる力を持っているんだ。それなら私にもできます」と皮肉を言いました。
わたしたちは、言葉だけなら何とでも言えますし、その場もしのげます。しかし無責任な言葉は無力で虚しいものですから、その言葉は具体化しません。何も実を結ばないのです。豊かな実を結ぶのは、謙遜さと責任のある言葉と行動です。先週お亡くなりになられた日本を代表する実業家の一人は、生前のインタビューで「事業を成功に導く秘訣は何ですか」と尋ねられた時、「常に謙遜に生きることです。傲慢になった人たちが頂点から転がり落ちてゆくのを見て来ました。どんな時も謙遜に、謙虚な姿勢で生きることが大切だと思います」と言っておられました。また、「人生は世のため人のために尽くすこと」とも言っておられました。
皆さんは「謙遜に生きる」という生き方、どのような生き方だと思われますか。皆さんが感じるままで良いのですが、これまでのご経験を通して、「謙遜に生きる」生き方をある程度確立されていると思います。信念のようなものがお有りかもしれません。あるいは、人生の先輩に「謙遜な方」がおられ、その方の素敵な生き様をご覧になって来て、自分もそのように生きたいと思われるロールモデルがおられるかもしれません。いかがでしょうか。
わたしは、とても単純な性格なので、あのような人になりたいと憧れる人や、その反対に、このような人には絶対になりたくないと思って距離を置く人も過去にも現在にもいます。尊敬する人は年上の方だけでなく、年下の方もおられて、とにかく良い影響力のある人たちから学ぼうという思いを常に持って生きて来ました。ですので、わたしには「ロールモデル」のような方は特にいません。しかし、牧師にされてから、たくさんの間違いや判断ミスを繰り返す中で、その苦い経験から、二つのことをいつも自分に言い聞かせて歩んでいます。
一つは、「人生には落とし穴が必ずある」という思いです。傲慢になって上ばかり見ていると下の落とし穴や躓く石を見落として失敗してしまいます。もう一つは「上には上がいる。必ずいる」という思いです。自分よりも優れた人はたくさんいる。自分よりも愛と配慮と知恵と経験に富んだ牧師、説教がうまい牧師、牧会が上手な牧会者は五万といる。自分のしていることに満足したり、自惚れては絶対にダメ、何故ならば、教えようという上から目線の傲慢な言葉は、み言葉を求めている人たちの心には絶対に届かないと体験しているからです。
さて、わたしたちは、ヨナ書をシリーズで聞いています。このヨナ書を通して、わたしたちに対する神様の御心は何であるのか、神様とヨナの関係性はどのようなものか、ヨナという人の生き様から大切なことを学ぼうとしています。しかし、1章の1節から6節を読むだけでも、ヨナという人はけっこうひねくれた人で、神様に反抗的で、非常に自我が強く、傲慢で、頑なで、反面教師としかなり得ない人のようです。こういう人には絶対になりたくないというのがわたしたちの本音であると思います。しかし、神様はヨナを決して諦めません。神様はヨナを愛し、作り変えて用いようとされるのです。ヨナの人間性には問題や課題がありすぎて、わたしたちとの関係性がないように思えるかもしれませんが、彼のどこかある一部分に、わたしたちは自分の弱さを見つけることができ、変えられるのではないかと思うのです。
ヨナ書1章の1節から6節を読んで行きますと、様々なことが分かります。神様の御心はアッシリア帝国のニネベにヨナを派遣して、ニネベの市民に神の言葉を告げさせ、悔い改めさせることでした。しかしヨナは神様からの指示を拒絶しました。イスラエルとその民を愛する愛国者ヨナにとって、イスラエルを苦しめてきた敵が悔い改めさえすれば今までの罪は許されて救われるということは絶対にあり得ないと感じ、ニネベとは正反対の方角へ向かう外国船に乗り込み、神様からも、自分の預言者としての使命からも逃げようとするのです。
思ったこと、感じたことをすぐに実行に移す瞬発力は凄いのですが、その判断力と実行力が神様のご意思に反していれば、すべては無駄になってしまいます。神様は、その判断力と実行力の間違いをヨナに気づかせ、ヨナに軌道修正させるために大風を海に向かって送り、嵐を起こします。嵐はヨナが反抗したことへの神様の怒りを表していると捉えられることは確かに多いですが、神様から離れれば、絶対に人生の大波、嵐を経験するのです。平安の源である神様から離れるのですから、不安や恐れや怒りに心が満たされるのは自然なことなのです。人生の嵐や災いなどは、辛くて苦しいですが、わたしたちに悔い改めさせて、神様に立ち返らせるための神様からの招きなのです。嵐や災難でわたしたちの心や体は傷つきますが、神様に立ち返った後、神様がその傷や痛みを癒し、新しい者へと作り変えてくださるのです。
しかし、激しい嵐によって船が沈みそうになっても、船乗りたちが沈没を回避するために積み荷を海に捨てたり、恐怖に陥ってそれぞれ自分の神に助けを叫んでいても、ヨナはまったく無関心で、神様から逃げることができたと安心したように船底でぐっすり寝込んでいます。船長がヨナのところへ降りて来て、ヨナを叩き起こし、「こんな時に寝ているとは何事だ。さあ、起き上がってあなたの神を呼び、助けを求めよ。あなたの神に祈りなさい。あなたの神が気づいてわたしたちを助けてくれるかもしれない」と祈ることを促します。
しかし、ヨナは神様に祈ったでしょうか。いいえ、祈らなかったのは明白です。何故ならば、嵐がまったく止まないからです。ヨナが悔い改めて祈らないので嵐は収まらず、そのために船に同乗しているたくさんの人たちが死を恐れ、絶望するのです。それ程までにヨナは頑ななのです。しかし、祈らないヨナに祈らない自分が映るでしょうか。わたしたちが悔い改めないために、周りの人が苦しんでいるという可能性はあるのです。
ヨナが悔い改めて神様に祈らないので、残念ながら、周りの人たちが何をしても嵐が収まりません。そのため、7節です、船上の人々はくじを引いて、この災い、危機が誰のせいで生じているのかを知ろうとします。その時代の人々は、自然の災いや災害の原因として、人間の罪に対して神が怒りを発せられるという考えを持っていましたので、人々は神の怒りを生じさせた犯人を探そうとし、その手段でくじを引きました。このくじは日本人が思い描くような紙のくじを引いて、当たりかハズレかを知る方法ではなく、サイコロのような石を投げて、誰の前に落ちるかという方法であったようで、その投げた石がヨナの前に落ちたのです。
「そもそもくじを信じるの?」っていう懐疑的な方もおられると思いますが、「くじ」は極めて聖書的です。モーセがイスラエルの12部族に土地を分配する時、くじによってどの部族にどの地域を与えるかが決定されたことが民数記26章53節以下に記されています。イエス様の時代でも、イスカリオテのユダが12弟子から欠けてしまった時、補うためにくじが引かれて、マティアが当たり、使徒の仲間に加わったことが使徒言行録1章26節に記されています。
箴言16章33節に「くじは膝の上で投げられるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる」とあります。重大な決定をする時や、神様の御心を知るために、人々はくじを用いました。そこに神様の御心が表されると信じて、そのようにしました。くじの結果を神の御心と信じてそのまま受け入れていく素朴な信仰です。そしてくじを引いた結果、ヨナに当たるのです。くじを引く前に、ヨナは何を思ったでしょうか。まさか自分には当たるまいと思ったかもしれませんが、神様は真実なお方ですから、くじを通して御心を示されるのです。
人々は、神を怒らせたのはヨナであると確信します。8節をご覧ください。そして「人々は彼に詰め寄って、5つの質問をします。1」この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか、2」あなたは何の仕事でどこへ行くのか、3」どこから来たのか、4」どこの国の出身か、5」どの民族かと尋ねます。その質問に対して、9節で「ヨナは彼らに『わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。』」と答えます。
ヘブライ人とは、異邦人とユダヤ人を区別し、自分はユダヤ人だということをはっきり表す時に用いる呼び方です。しかし、次の彼の答えはいただけません。「ヨナよ、平気で嘘をつくな!」と言いたくなります。「海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と平気で答えるのです。神から逃亡中の人のどこが「主を畏れる者」かとツッコミたくなります。海と陸を創造し、すべてを支配されている神様から逃げているつもりでも神様の前から逃げられないヨナがいて、困ったことに、その真実にまったく気づかないヨナがここにいるのです。
しかし、確かなことがあります。ヨナは神様に反抗して逃げていますが、神という偉大なる存在を信じています。確かに神様の御心に沿って生きることを拒みます。けれども、それはヨナの云う「主なる神様を畏れる」ということではないのです。畏れるというのは、神様が絶対の存在であると信じて従うことです。しかし、わたしたちの多くは、神様を愛し、神様に礼拝をささげてはいるけれども、絶対的な服従をしないで、都合の良い時だけ神様の言葉に聞いて、都合の悪い時は自分の好き勝手に判断してしまって生きていないでしょうか。
10節後半には、人々に問い詰められる中で、ヨナが神の前から逃れて来ていることを白状します。その時、嵐に悩まされていた人たちは非常に大きな恐れを抱きます。嵐の原因は、自分たちの目の前にいる人が彼の神から逃げている神の怒りの表れだと信じたのです。それは彼らにとって絶望的なことであったでしょう。「何という事をしたのだ」と言うのです。この人々の叫びは、他でもないヨナを悔い改めさせ、神様に立ち返らせる招きであったのです。
わたしたちも「神を畏れている。イエス様を信じている」と告白しつつも、クリスチャンであることを隠したり、イエス様の言葉を都合の良いように聞いていないでしょうか。しかし、そういうわたしたちを神様は愛し、忍耐くださり、嵐や苦しみを通して、また人々を通して、わたしたちの歩みに軌道修正を与え、わたしたちを神様に立ち返らせ、本来なすべきことを誠実にさせようとして下さるのです。悔い改めて主の言葉に生きる人を主は祝福されます。