ルカ(19) 漁師を弟子に招くイエス

ルカによる福音書5章1節〜11節

ルカによる福音書の学びも、5章に入ってゆきますが、4章同様、この章にもイエス様の言葉には権威と力があることが記されています。主イエス様の言葉を群衆は求め、聞く人々は圧倒され、心が揺さぶられ、慰められ、励まされます。そして、イエス様の言葉に聞き従う人は、驚くべき奇跡を体験します。

さらに、イエス様の言葉によって、イエス様の弟子となって従うように招かれてゆきます。この招きは、すべての時を超えて、主イエス様の言葉を聞くすべての人に、つまりわたしたち一人ひとりに与えられています。今回の箇所にもたくさんの素晴らしいことが記されていますので、余すことなく聴いてゆきたいと思います。見出しに「漁師を弟子とする」とあります。

今回の舞台は、「ゲネサレト湖畔」とありますが、ゲネサレトとはガリラヤ湖の別名です。1節を読みますと、この湖畔にイエス様が立っておられると、群衆が「神の言葉」を聞こうと押し寄せて来たとあります。群衆は、イエス様の口から出る言葉を「神の言葉」と捉えています。

神の言葉を聞こうとしていたというのは、群衆が霊的に、魂の飢え渇きを感じていたと言う事の表れであり、そして何より、イエス様の言葉は、その言葉を聞く人々の魂が平安で満たされる程に力強く、権威に満ちていたということだと思います。

2節に「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった」とあります。イエス様は、群衆に語りかけ、教え、彼らの霊的必要を満たすために、漁師たちに協力してもらおうと依頼しますが、3節にありますように、そのうちの一そうはシモンの持ち舟でした。

このシモンという人は、前回聞いた4章38節から39節で、高熱にうなされ、苦しんでいた姑をイエス様にいやしてもらった人です。すでにそういう関係性があり、またイエス様に対する感謝の思いがあったのでしょう。しかし、漁を一晩中して疲れていたはずですし、網を洗い終わった家に帰る予定であったと思います。しかし、他ならぬイエス様の頼みです、イエス様の依頼どおりに舟を岸から少し漕ぎ出して、イエス様が群衆に語りかけるのを聞きます。イエス様は、腰を下ろして舟から群衆に教え始められたと3節に記されています。

さて、どれくらいの時間が過ぎたでしょうか、イエス様の話も終わり、疲れているシモンも「さぁ、やっと家に帰れるぞ」と思ったでしょう。しかし、ここから面白い展開になってゆきます。4節です。イエス様は、「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた」とあります。

シモンにとって、自分が今やりたいことの正反対のことをしなさいと言われてしまいます。しかも、漁に関してど素人の人から言われるのです。疲れていますからムッときたと思います。わたしならばそう感じたと思います。

シモンの「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」という言葉に彼の抵抗が読み取れる気がします。「先生」とは、ある特定のことに精通した人を指す呼び名です。イエス様の言葉には権威があるのはよく分かるが、漁については素人のイエス様をそう呼んだのだと思います。

魚は、昼間は海や湖の深いところにいて、夜になると浅いところまで上がってくる習性がありますので、基本的には、漁は夜やるものです。ましてや、プロフェッショナルの自分達が一晩中漁をしても何もとれなかった、収穫がないのです。こんなにもストレスフルで、疲れを覚えることはないと思います。

しかし、大切な姑もいやしてもらいましたし、イエス様の言葉に権威と力があることは知っていましたので、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。「お言葉ですから」という言葉は、一抹の希望を持ったということでしょうか。致し方ないという思いでしょうか。くどいようですが、網を湖に降ろすとは、またこの後で網を洗わなければなりません。イエス様が責任をとって洗ってくださる訳ではありません。疲れている身にとっては、非常にやっかいなことであったと思います。皆さんは、どう思われるでしょうか。

また、6節に「漁師たちが」とあります。マルコやマタイ福音書と照合しますと、シモンの兄弟アンデレが一緒であったでしょう。素人のイエス様に「漁をしなさい」と言われて、彼らはどう思ったでしょう。しかし、彼らは、イエス様のお言葉どおりに網を下ろしたのです。そうしたら「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」とあります。

シモンたちは、漁師として、今までに経験したことのない、日中の漁で「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」という驚くべき豊漁を経験します。自分たち漁師がこれまで経験したことのないことが自分たちの目の前で、網を握っている感覚の中で経験するのです。たぶん、生まれて初めての経験であったと思います。つまり、イエス様の言葉に自分たちのこれまでの経験を遥かに超えた大きな力があることを見せつけられるのです。

しかし、自分たちが両腕でつかんでいる大量の魚が入った網をどうにかしなければなりません。7節に、「そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」と記されています。シモンたちの仲間とは、10節にある「ゼベダイの子のヤコブとヨハネ」です。彼らも、シモンたちと夜通し働きましたが、何も漁れなかったのです。

今までに経験したことのない衝撃的なことをシモンは体験します。8節で、彼の名前が突然「シモン・ペトロ」となります。ペトロとは「岩」という意味です。衝撃的な経験を通して、シモンの心にあったふわふわとした柔らかい「思い」が、イエス様を信じる堅い「信仰」へ、信じたいという思いへ変わったことを意味しているのだと思います。

シモン・ペトロは、「イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った」と8節にあります。イエス様を「主よ」と呼んでいます。先ほどの「先生」とは大違いです。イエス様を「先生」と捉えている時は、半信半疑であったのです。しかし、イエス様が救い主であることを感じたシモンはイエス様を「主よ」と告白します。

イエス様を「主」とすることが弟子たる者の出発点です。この告白は、9章20節にあるシモンの信仰告白の前触れと捉えることができます。イエス様を救い主と告白するのは一回限りのことではなく、毎日の告白なのです。

シモンは、「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言います。「罪深いわたしから離れてください」と言います。シモンは、イエス様の言葉、つまり神の言葉に触れて、自分という存在の小ささ、弱さ、罪深さを知ったのだと思います。漁れた魚の量に圧倒され、自分の考えや知識や経験を頼りに生きて来たけれども、そのすべてがとても小さく、浅はかで、儚いものだと感じ、その中で自分の罪深さを知り、恐れを抱いたのだと思います。そのような気持ちは、シモンだけでなく、アンデレも、「ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった」と10節にあります。みんなが恐れを抱いたのです。

さて、ここで質問です。8節に、シモン・ペトロは、「イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った」とありますが、順番からして、「イエスの足もとにひれ伏す」という行為と「わたしは罪深い者なのです」という言葉はどちらが先になるでしょうか。つまり、どちらが第一義的でしょうか。たぶん、順番的には、まずイエス様の言葉の力に畏れを抱き、その力に圧倒される中で自分の罪を認め、イエス様の足もとにひれ伏す、つまり礼拝するということになると思います。

神様の愛の強さ、深さ、広さ、高さを経験することによって、自分がいかに小さい存在であり、罪深い存在であるか分かります。その神様の愛に触れる方法は、イエス様に出会い、イエス様の言葉を聞くことから始まります。聖書には、神様の愛はイエス・キリストを通して豊かに与えられると記されています。わたしたちに大切なのは、神の子であり、神の言葉であるイエス様に個人的に出会い、日々イエス様と共に生きるということです。

神様の偉大さ、イエス様の言葉の力強さ、自分の罪深さを経験して恐れているシモンたち、わたしたちに大切なのは、10節後半にあるイエス様の言葉です。「すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』」とあります。

ここに3つのことが記されています。まず「恐れることはない」とは、神様の愛が、イエス様が共にいてくださるから、何も恐れる必要はない、自分の力でどうこうする必要もない、心配する必要はいっさいないということです。

次に「これから後」とあります。古い状態から新しい状態へ転換してゆくということ、イエス様によって古い者から新しい者にされてゆくという意味です。大切なのは、どうすることもできない過去のことはイエス様にすべてお委ねし、これからはイエス様に集中し、イエス様の言葉に聞いてゆくということです。過去に縛られて生きるのではなく、今からイエス様につながって生きてゆくこと、その者をイエス様が新しく造り変えるのです。

シモンに「あなたは人間をとる漁師になる」とイエス様は言われます。ここではシモンに集中していますが、アンデレやゼベダイの兄弟に対しても、そしてわたしたちに対しても言われている言葉です。「人間をとる漁師」の直訳は、「人間を生け捕りにする者」です。今まで「魚」を相手にして来ましたが、これからは「人間」を相手に生きる働きに招かれていきます。以前は魚を捕り、魚を殺して売って生計を立てて来ましたが、これからは人々と向き合い、神様の愛を分かち合い、喜びと平安と希望に生きる仕事へと招かれてゆきます。

「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とあります。同じようなことは自分にはできないと誰もが思うと思いますが、ここでルカが伝えたいことは、シモンたちの「優先順位が変わった」ということです。今までは、自分と家族のために生きることを優先してきたし、それが当然と考えてきました。しかし、イエス様の招きに応えて、これからは人々のために生きること、神様の愛を必要としている人のために生きることを選び取ったのです。

舟は、教会を表しています。イエス様のお言葉どおりに、わたしたち教会が沖へと漕ぎ出し、お言葉どおりに網を下ろす時、予想だにしない人々と出会ってゆき、神様の愛を必要としている人々が神様の愛、イエス様につながって永遠に神様の愛と祝福の中に生かされてゆくのです。

わたしたち大久保教会に大切なことは、イエス様の言葉を信じて、網をおろしてゆくこと、人々にイエス様を紹介してゆくことなのです。それなしにわたしたちの教会が人々で溢れることはありません。それなしにわたしたちの心が大きな喜びと感動に満たされることはありません。主イエス様の権威と力に満ちた言葉に聞き従いましょう。