「魚の腹の中から祈っても、神は聞かれる」 九月第四主日礼拝 宣教 2022年9月25日
ヨナ書 2章1〜3節 牧師 河野信一郎
おはようございます。9月最後の主の日の朝です。昨日は、台風15号の影響で激しい雷雨がありましたが、今朝は、神様の憐れみの中、晴天が与えられ、オンラインと礼拝堂に集っておられる皆さんと共に賛美と礼拝を神様におささげできる幸いを心から主に感謝いたします。しかし、台風14号と15号によって被災された地域を覚えて回復をお祈りいたします。
さて、去る19日の夜のことですが、皆さんはエリザベス女王の葬儀の模様をテレビでご覧になられたでしょうか。我が家では女性2名が、夜8時から深夜2時まで、最初から最後まで6時間ずっと観ていたそうですが、私は翌朝に葬儀のダイジェスト版を観ました。新聞によりますと、さすがに世界一有名な女性の葬儀とあって、女王の葬儀は世界中で中継され、40億人以上の人が視聴したそうです。中継から、女王がいかに国民から慕われていたか、どれほど多くの人々が彼女の死を悼んでいるかが分かりました。ご覧になられた皆さんは、どのような感想を抱かれたでしょうか。ご感想などを月報に投稿していただけますと嬉しいです。
今回の葬儀の模様を見ていて、私が注目したのは、エリザベス女王の棺が聖壇の上ではなく、葬儀に参列した会衆と同じフロアレベルに置かれていたことでした。たとえ英国の君主として歴代一位の70年間、国と国民に仕えた女王であっても、どんなに国民から愛され、世界中の人々から尊敬された女王であっても、神様の御前では主イエス様を救い主と信じる信者の一人であり、神様を礼拝する者の一人。女王であっても、国民となんの差別もなく、礼拝者の一人として捉える英国の信仰者たちの信仰の姿勢を垣間見ることができて幸いでした。
葬儀を最後まで観ていた妻は、日本やアメリカの葬儀等でよく見受けられる「遺影」が置かれていないことに気づき、「葬儀を神様への礼拝として、神様に礼拝をささげることに集中させるために女王のお写真がないのかなぁ」と思ったそうです。私は、自分と違った視点を持つ彼女に感心しました。確かに、女王の遺影が前の方にあれば、多くの参列者の目はその写真に集中し、亡き人との懐かしい思い出に埋没してしまうかも知れません。つまり、礼拝をささげる真の対象である神様に集中することができなくなってしまう、ということに繋がります。では、当日、葬儀参列者たちは何に集中したのでしょうか。それは神様のみ言葉です。
今朝は、皆さんに小さなプレゼントを用意しましたので、受け取っていただければ嬉しいです。それは一枚の紙です。これは何かと言いますと、先週19日に英国で営まれましたエリザベス女王の葬儀の時に読まれた聖書箇所とそこで歌われた賛美歌を記したものです。これを日本語と英語で準備するのは結構な時間を要しましたが、ぜひ皆さんに読んでいただき、とても大切なことを考えて欲しいと思いましたので、少し無理して昨日準備しました。
賛美歌は、女王とフィリップ殿下の結婚式の時に歌われた賛美であったりしたそうで、とてもロマンティクだと思いました。アメリカの母教会の姉妹が、賛美された1曲は教団讃美歌第二集の41番、「主はわがかいぬし」だと教えてくれました。バプテスト教会で育った私には、英国国教会の賛美歌は馴染みが薄いのですが、主への賛美は素晴らしいと思いました。
聖書箇所は、エリザベス王女がご自分の葬儀のために生前に自ら選ばれたものもあったそうです。とても嬉しかったのは、拝読された聖句の一つに、大久保教会の今年の年間聖句である詩編34編9節(英語訳では8節)があったことです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」という聖句です。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。皆さん、この言葉は真実です。主なる神様に信頼して、主の許に心と身と寄せる人は、本当に幸いなのです。神様の愛と憐れみ、慈しみを日々の生活の中で味わうことができるのです。神様は本当に素晴らしい方なのです。
今回、何故このようなものを準備したかということ、日本にもエリザベス女王の葬儀をテレビで観た人たちが多くいて、その中には生まれて初めて「キリスト教の葬儀」に触れた人たちが多かったと聞いて、この大久保の地域の人々、皆さんのお住いの地域におられる方々にも、キリスト教に関心を寄せられた方が多いと思って、少し大きいトラクトですが、教会の周りの人たちに配ったり、皆さんの家族やお友だちに手渡して読んでもらったりするのも良いのではないかと思って、思い立ったら作りたくなって、このように作ってみました。
エリザベス女王の葬儀で読まれた数々の聖書のみ言葉は、キリスト教の核心を衝く重要な箇所です。これらの聖書の言葉を神様のみ言葉、救い主イエス・キリストのみ言葉と信じて聞き従って生きた一人の女性の証しでもあると思うのです。これを誰かに手渡して、その人に読んでもらうのは、イエス様を伝える絶好なチャンスになると思います。たくさん刷りましたので、ぜひお持ち帰りいただいて、ご家族やお知り合いにお渡しいただければと思います。聖句に関して、皆さんが何か説明する必要はありません。神様、イエス様、そしてご聖霊が、み言葉を読む人の心に何かを語りかけてくれると思います。それを期待して、祈りましょう。
皆さんの心に、今朝もう一つ留めていただきたいのは、ご自分のことです。皆さんが、この地上での生活を終えた時、この地上での最後の証しとして、葬儀でどのような聖句を読んでもらいたいでしょうか。どのような賛美歌を神様におささげしましょうか。その備えは、もうすでに済んでおられるでしょうか。最近では「葬儀など必要ない」という方もおられるかもしれませんが、必要であれ、不必要であれ、ご家族や教会の家族に知らせておくのは、とても大切なことではないでしょうか。わたしたちの息は、いつ取り去られるか分かりません。
自分の寿命を生き抜いたと言える人もいるかも知れませんが、すべての人がそうではありません。こればかりは、神様の御手の中にあって、わたしたちには分かりません。ですから、エリザベス女王の葬儀で拝読された聖句をお読みになって、ご自分の地上での命と最後の証しのことを少し考えてみてください。神様に祈ってみてください。そしてコツコツと日々の生活の中で、聖書に記されている神様の言葉を読み、神様と向き合い、心を澄まして主の語りかけに聴いてみてください。主に求めながら聴く時に、神様のみ言葉があなたに宿り、あなたを慰め、励まし、導き、希望を抱かせ、残された地上での命に生きる力となるはずです。そのように整えられていったら、賛美が心に湧き上がり、賛美歌が与えられるでしょう。
さて、わたしたちは、シリーズでヨナ書に聴いています。少しだけ振り返りたいと思いますが、主なる神様は預言者ヨナに対して、アッシリア帝国の都ニネベへ行って悔い改めるように告げよと命じます。しかし、イスラエルを悩ませる敵国のニネベの人々が滅びることを願っていたヨナは、自分の働きが彼らを救うことになるかも知れないと考え、神様のご意志に反対し、預言者としての任務を放棄し、主なる神様から逃げ、ニネベとは正反対の方角へ進む船に乗り込みます。ヨナを引き戻そうされる神様は海に向かって大風を放たれ、海は大荒れとなり、船は難破寸前の状態に陥りました。船上の人々は苦しみます。この災難が降りかかった原因を作った者を探すためにくじが引かれ、神様から逃亡中のヨナがくじを当てます。くじを当てると言いましょうか、くじを通してヨナに対する神様のご意志が示されます。
神様のご意思とは何でしょうか。神様の許に今一度立ち返って、神様から託された働きを担うということです。しかしヨナは、それを拒否します、拒絶します。ヨナは、まったく悔い改めません。船に乗るすべての人が自分たちの神々に必死に祈っていても、ヨナは神様に祈りません。とっても強情な人です。船員たちはヨナに対して、「あなたをどうしたら、海が静まるだろうか」と尋ねても、ヨナはあたかも冷静に、「わたしの手足を捕らえて海に放り込めば海は穏やかになるだろう」と答えます。彼は自分のせいで大嵐が来たことを「知っている」と認めつつも、まったくもって悔い改めようとしません。祈ろうともしません。海に投げ込まれて死ねば、預言者としての責任から、神様からも完全に逃げられると思ったのでしょう。
船員たちは祈りながら、ヨナの言った通りにヨナを海へ放り込みますと、今まであれだけ荒れ狂っていた海は静まりかえりました。船上にいた人々は、真の神様を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた、というところまで聞きましたが、覚えておられるでしょうか。
さて、今朝は荒れ狂う海に放り込まれたヨナのその後について聴いてゆきたいと思いますが、ヨナが海へ放り込まれた時、海に沈んでゆく中で、彼は何を思ったでしょうか。これで自分の命は尽きると感じたでしょうか。これで神様のご命令に従わなくて良くなると安心して、スッキリしたでしょうか。これで敵国のニネベへ行かなくて良くなったと喜んだでしょうか。命の源である神様から逃れる、遠く離れるとは、つまり死を迎えるということです。
しかし、神様には他のプランがありました。ヨナとまったく正反対のご計画です。それは、まずヨナを生かすということ、次に彼を新しく造り替えること、その次にヨナをニネベへ派遣するということ、そしてニネベの人々を救うというものでした。そして、この計画を進めるために、主なる神様は巨大な魚を用意されていました。2章1節に「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた」とあります。この巨大な魚は突如現れたかのようですが、そうではありません。神様のご配慮の中で、ずっと前から準備されていたヨナを救う手段であったのです。この事にどういう意味があるのかと言いますと、神様に対する罪、そしてその中で経験する闇からわたしたちを救うために、救いの手段が大小の規模に関わらず、神様の愛と配慮の中で備えられているということです。それほどまでに、神様はヨナを愛し、わたしたちを愛してくださっているということです。
大迷惑であったのは、巨大な魚です。強情なヨナを呑み込み、三日三晩も彼を体内に留めておかなければならなかったのです。しかし、託された神様のご命令に魚はただ従ったのです。この魚の働きなくしてヨナは神様に造り替えられることはなかった事を覚えたいと思います。
さて今朝、わたしたちが聴くべきみ言葉は2節です。「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげた」とあります。魚の腹の中には光はありません。真っ暗闇です。その中で出来る事は限られています。皆さんならば、何をするでしょうか。ヨナは真っ暗闇の中で、魚の腹の中から神様に祈るのです。今まで拒絶して来たこと、神様に心を向けて祈ることを始めるのです。真っ暗闇の中で確かなことが二つあったと思います。一つは、自分は生きているということ。もう一つは、神様がいるということです。それの確かさをヨナは感じ取り、自分は神様の愛と憐れみの中に生かされていると初めて体験したのではないでしょうか。
わたしたち人間という存在は、非常に愚かで、自己中心で、傲慢で、自分の力だけで生きている、生きていけると勘違いをしています。そうやって、創り主である神様から遠く離れてゆきます。神様はわたしたちを御許に引き戻そうと様々な手段を講じますが、わたしたちの心はこの世の惑わしに魅了され、儚い安心感の中でぐっすり眠ってしまっています。しかし、命の源である神様から逃げ去って離れてゆくとは死に向かってゆくということです。その中で、闇を経験します。自分の知恵や力や富や頑張りようではどうすることもできない大きな壁にぶち当たります。その時、初めて、誰かに助けを求めますが、神様がベストです。
昔、アメリカでこのような話を聞いたことがあります。海で溺れている人を救う時、救助員はすぐさま溺れている人を助けないそうです。もがき苦しんでいる時は必死ですから救助員にしがみついたりして救助を難しくし、挙げ句の果てに救助員の体力をも奪ってしまうのだそうです。溺れている人が力尽きた頃に、ガッと抱え込んで、一気に救助するのだそうです。
わたしたちはどうでしょうか。人生の荒波に揉まれて今にも力尽きようとしていないでしょうか。人生の暗闇の中を虚しさを抱きつつ、ひたすら彷徨っていないでしょうか。生きる意味も、生きる目的も知らないまま、神様から遠く離れて生きていないでしょうか。暗闇の中に置かれたヨナにとって唯一幸いであったことは、神様の存在を知っていたことでした。そして闇の中で神様にやっと祈るのです。3節です。「苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声を聞いてくださった」と。
今朝、皆さんに覚えていただきたいことは、ヨナが魚の腹の中から祈ったら、主なる神様はその声を、祈りを、叫びを聞いてくださったということ。同じように、苦難の中で、闇の中で、陰府の底から神様に祈ったら、神様はわたしたちの声を、祈りを聞いてくださる、そのような真実なお方であるということを信じて、いつも神様に祈る者となること、それが神様の御心であるということです。ちょっと戻りますが、2節に、ヨナは魚の腹の中から「自分の神」に、主に祈りをささげたとあります。神様はあなたの神、個人的で親しい神、あなたを、わたしたち一人一人を愛してくださる神であるのです。この愛の神様に日々祈りましょう。