ルカ(22) 徴税人を弟子に招くイエス

ルカによる福音書5章27節〜32節

2週にわたって重い皮膚病と身体が麻痺している中風の病にある人たちを癒やされたイエス様のことを聞いてきましたが、今回はイエス様が弟子を招かれることをご一緒に聴きます。イエス様が弟子を招かれるのは、今回が2回目のことになりますが、1回目は漁師たちを弟子に招かれました。今回、イエス様は徴税人(税金取り)を弟子として招きます。

 

この徴税という仕事は、ユダヤ人が担っていましたが、ローマ帝国のために働き、税金を必要以上に取り立て、その中から自分たちの懐に入れてしまうということが横行していましたので、徴税人は同胞から嫌われる仕事ランキングで常に上位にある職種の人でした。

 

2017年の日本の消費者投票による「嫌われる職業ランキング」では、トップ3に政治家、弁護士、不動産屋が選ばれたそうです。アメリカや韓国はどうでしょうか。この3つの職業に共通するのは、「何らかの権威で人を威圧する」というイメージが強いと言うことで、汚職や贈賄など、いつも金銭がらみで貪欲なイメージが定着しているようです。

 

政治家は「自分ことしか考えない嘘つき」、弁護士は「お金のためなら犯罪者の肩を平気でもつ」、不動産屋は「エゴの塊」という批判があるとのことです。それ以外には、N H K受信料などを取り立てる代金回収業者、業務執行人、駐車違反監視員なども冷酷という評価を受けています。牧師が入っていなくて安心しましたが、最近では異端である旧統一教会関係の献金問題などで、だいぶイメージが悪くなり、今年は宗教家全般もお金の亡者のように思われ、嫌われるランキングに入るのではないかと個人的に危惧していますが、それ以外に人々からあまりイメージを持たれていない職種は、どのようなものがあるでしょうか。

 

それでは今日の箇所をご一緒に丁寧に聴いてみましょう。27節に「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。」とあります。ルカ福音書とマルコ福音書(2章)では「レビ」という名前ですが、マタイ福音書(9章)では「マタイ」になっています。

 

この部分で注目したいことは、イエス様が最初にレビという徴税人を「見た」、ご覧になられたということです。漁師たちをお招きになられる時も、イエス様が浜辺で網を洗ったり、網の手入れをしている漁師たちを最初にご覧になられたということが記されていました。これは、イエス様が弟子を招かれる時のイニシティアティブ、スタートはいつもイエス様から始まる、主導権はイエス様にあるということです。そして、イエス様ご自身が人々を、わたしたちを「わたしに従ってきなさい」と招かれるのです。

 

日本では「弟子入り」という言葉があるように、何かの道を極めた人を「師」と仰ぎ、弟子になりたい人が「先生・師匠、わたしを弟子にしてください」とイニシティアティブを取る場合、いわゆる「志願する」ケースが多いと思います。しかし、イエス様がご自分の弟子を選ばれる時、イエス様はまず父なる神様に祈ってから、弟子を選びます。

 

ヨハネによる福音書15章16節に、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」というイエス様が十字架に架けられる前に弟子たちにおっしゃった言葉があります。

 

なぜイエス様はそう言われたのか。愛し合いなさいと言われたのか。それは、弟子たちの心に競争心という弱さ、自分と他の弟子を比較するという弱さがあって、誰が一番イエス様に愛され、信頼されているだろうかとか、誰が一番イエス様に忠実であろうかという小競り合いが常にあったからです。そういうことは実にナンセンスです。他人と自分を比べること、自分の持ち物と人の持ち物を比べることは不幸の始まりです。イエス様は、すべての人を招かれます。イエス様に「招かれた」という事実は、すべての人に平等であって、優劣というものはなく、実に感謝なことであって、「恵み」であるからです。

 

では、イエス様の「わたしに従ってきなさい」という招きに対するレビのリアクションは、どうであったでしょうか。28節に「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。漁師たちも同じように「すべてを捨てて従った」とあります。ここで注目すべきは「立ち上がり」という言葉です。この言葉はギリシャ語では「アニステミー」という動詞ですが、ルカ24章7節で復活の朝、墓に来た女性の弟子たちに対して天使たちが「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と言った時の「復活」という言葉と同じなのです。

 

どういうことかというと、つまり、イエス様に出会うまで、レビは魂が死んでいるような人であったけれども、イエス様の言葉によって魂が完全に新しくされ、本当の意味で生きる者に変えられたということになると思います。彼は、徴税人として働くことに虚しさを感じ、疲れていたのかも知れません。同胞のユダヤ人たちから嫌われて除け者にされることに苦しんでいたのかも知れません。生きがい、生きる目的、意味、喜び、希望を失っていたのかも知れません。そういう人がイエス様の「わたしに従いなさい」という言葉で生きる目的、意味、喜び、希望を見出し、すぐさま立ち上がって従うのです。

 

「何もかも」という時、それは仕事や富や誇示してきた地位やプライド、つまり自分のために用いてきたすべてを意味すると思います。徴税人を辞めるということです。しかし、レビに不安は一切ないようです。その反対に、彼の心は喜びで溢れていたようです。それを物語るかのように、29節に「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」とあります。盛大な宴会が彼の大きな喜びを表しています。彼の心も、人生も変えられたのです。

 

そのレビが催した宴会に「徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」とあります。徴税人や他の人々とはレビの仲間・友人知人です。ファリサイ派の人々や律法学者たちは彼らのことを「罪人」と呼んでいます。ここでいう「罪人」とは、神の掟、律法を守らない人たち、教養もなく、世俗的なことに溺れている人たち、信心の生ぬるい人たちを指す、人を見下す差別的な呼び方です。しかし、そういうことはどうでも良くて、大切なのは、その宴会に差別されていた人たちが集められていたということです。レビは、自分の大切な友人・知人、家族たちにもイエス様を紹介したかったのだと思います。イエス様に出会えば、自分と同じように、大切な人たちも新しく変えられると信じたのだと思います。その信仰は、本当に素晴らしいことで、イエス様に救われたことを証しします。

 

しかし、30節に「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。』」とあります。残念なことに、「つぶやく」人たちが登場します。彼らがなぜレビ主催の宴会の周辺にいたのか、たぶんイエス様の粗探しをしていたのだと思います。イエス様を糾弾する証拠や材料を得るためにイエス様を監視していたのだと思います。

 

けれども、この箇所で興味深いのは、イエス様の粗探しをしている人たちは、イエス様に直接質問しないで、弟子たちに質問しているというところです。なぜでしょうか。彼らにとって、イエス様だけでも目の上のたんこぶです。しかし、その目の仇イエスの身近にいる人たち、弟子たちが、多くのユダヤ人たちがイエスに感染しているようである、影響され過ぎていると感じ取り、つぶやくのです。その影響力の大きさに不安、危機感を覚えたのだと思います。これ以上、この悪い感染、汚染が拡大しないように、弟子たちを正気に戻し、イエスから引き離そうとしたのかも知れません。

 

ファリサイ派や律法学者たちの弟子たちへの質問に対して、イエス様が答えておられるのも面白いと思いますが、イエス様は31〜32節でこのように答えられます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と。

 

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」は、至極まっとうな事実です。大切なのは、イエス様の次の「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という言葉です。イエス様がこの地上に来られた目的は、1)罪人を招いて、2)悔い改めさせるためとあります。

 

罪人とは誰のことでしょうか。それは、わたしたちのことです。ヨハネの手紙一の1章8節に、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはありません」という言葉がありますが。わたしたちに罪がないならば、イエス様は人となってこの地上に来る必要はありませんでした。イエス様がわたしたちのもとに来てくださったのは、わたしたちが神様から遠く離れて罪と闇の中に生き、苦しみ悶ていたから、悶ているからです。

 

最後に「悔い改めさせるため」というイエス様の言葉に注目したいと思います。「悔い改める」とは、「方向転換して、神様に立ち帰る」という意味があります。罪と闇の中にいるとは、神様から遠い場所に生きていることを意味します。罪と闇の「深み」へと現在進行形で突き進んでいると言うことであり、それは希望のない「死」に向かっているということでもあり、それはわたしたちが回避したい以上に、神様が願っておられないことです。ですから、神様はイエス様をこの地上に救い主として派遣してくださったのです。

 

ある人は、「自分の過去の間違いを潔く認め、心から反省したら良いのでは」と言います。しかし、イエス様は、「反省しなさい」とではなく、「悔い改めなさい」とわたしたちに言われます。「反省」というのは、過去を精算するだけで終わってしまいます。しかし「悔い改め」は、自分のこれまでの間違いを認めるだけでなく、悔い改めることによって神様に間違い、罪、弱さを赦され、新しくされて生きることにつながり、未来に向かって生きることなのです。レビのように、これまで自分のために生きてきた人が、方向転換をし、これからは神様と人々のために生きる者へされてゆくことなのです。それが神様の願い、御心なのです。