「絶望のただ中で神を思う」 十月第一主日礼拝 宣教 2022年10月2日
ヨナ書 2章4〜7a節 牧師 河野信一郎
おはようございます。2022年も、早いもので、10月に入りました。この10月最初の日曜日の朝、この礼拝堂に集っておられる皆さんとオンラインで出席されている皆さんと共に賛美と礼拝を神様へおささげできる素晴らしい幸いを与えてくださる神様に感謝いたします。
皆さんの去る1週間は、いかがでしたでしょうか。先週、感謝なことが3つありましたので、宣教の最初に分かち合わせていただきたいと思います。一つ目は、日曜日の夕礼拝の前のことでした。約半年間待っていた音響機器がようやく教会に届きました。礼拝と配信のため、どうしても必要な機材でしたので、アメリカからの到着をひたすら待つしかありませんでした。6本使えていたマイクが3本しか使えない状態は、毎回綱渡りのような状態で、ハラハラドキドキの6ヶ月間でしたが、夕礼拝の準備をしていた時に到着したので、とっても嬉しくなって、わたしはB宣教師夫妻が教会に来られるのを教会の外で待っていました。夕礼拝後にCS先生がさっそく設定してくださったのですが、わたしは機材とケーブルに貼るラベル作りを担当しました。誰にでもできる簡単な作業でしたが、心は喜び一杯でした。
二つ目の感謝なことは、月曜日の朝にありました。隔月に西地区の牧師会(教役者会)が開催されているのですが、コロナパンデミック中はずっと休止し、今年の初めからオンラインで再開しました。今回の牧師会に、約3年ぶりに、OA教会のO牧師が参加してくださいました。全身に激痛が走って立ち上がれないような難病を長い間患っておられましたが、とてもお元気になられて、今回の牧師会に参加してくださって本当に感謝でした。
三つ目の感謝な出来事も、月曜日の夕方にありました。わたしの妹に31ヶ月ぶりに対面式で再会することができました。感動的でした。この間、お互いの顔や声をLINEで見たり聞いたりはしていましたが、やはり実際に会える喜び、感動を超えるものはありません。この間、彼女の人生にも、わたしと家族の人生にも、色々なことがありました。
皆さんも、同じであると思います。わたしたちは皆、感謝なこと、あまり嬉しくないこと、苦しくて辛いことを3年間で多く経験してきました。この礼拝堂に集まって、共に礼拝をおささげできない期間を何度繰り返してきたでしょう。無力さや虚しさを何度経験してきたでしょう。今でも教会に戻れない方々がおられます。このパンデミックの中で、教会から離れてしまった方もおられます。どのようなことがあっても礼拝を配信し続け、教会の働きを止めてはいけない、宣教を続けなければならないと死にものぐるいでみんなで頑張ってきましたが、3年ぶりに妹の笑顔を見て、いつもの元気な声を聞いてハグしますと、ずっと会えなかった寂しさや心につかえていた様々な感情が不思議なようにどこかに消えてしまいました。感謝な再会の時でした。
9月1日の東京のコロナウイルスの新規感染者数は14,451人で、重症者数は34人、死亡者数は34人でしたが、1ヶ月後の10月1日の新規感染者数は3,834人、重症者数は14人、死亡者数は10人でした。約三分の一に減少していますから、このまま確実に少なくしてゆきましょう。そうしたら、わたしたちはこの場所でずっと共に礼拝をおささげできるようになります。礼拝と祈りと交わりを通して、さらなる霊的成長が与えられ、整えられ、神様に仕え、イエス様が救い主であることを告白し続け、神様の愛を分かち合う教会として建て上げられ、神様の栄光のために、神様の喜ばれる霊の実を多く結ぶことができるようになります。新しいことが始まります。主なる神様とイエス様とご聖霊が新しいことを始められるのです。新しい出会いが与えられ、新しい神の家族が誕生し、教会はさらに祝福されてゆくと信じます。大切なことは、神様に信頼し、絶対に神様の愛から、イエス様から離れないということです。
今朝もご一緒に旧約聖書のヨナ書に聴いてゆきたいと思いますが、今朝の宣教のタイトルを「絶望のただ中で、神を思う」にしました。皆さんは今、神様の愛の中を、神様の愛を味わいながら歩んでおられるでしょうか。喜びと平安のただ中を歩んでおられるでしょうか。ストレスの多い中で、面倒なことが多い中で、悶々とした中で、『不本意』ながら歩んでおられないでしょうか。不安や恐れの中を、あるいは絶望の中、真っ暗闇の中を歩んでおられるでしょうか。不条理としか考えられないような苦境の中で、理不尽な苦難の中で、意味を見出せない艱難の中で、皆さんはいま苦しみ悶えておられないでしょうか。もしそうであれば、心の中で、いま神様に叫んでみてください。「神様、わたしを憐れんでください、助けて救ってください」と心の中で神様に叫んでみてください。なにも遠慮する必要はありません。
オンラインで出席されておられる皆さんのお顔の表情は見えませんし、礼拝堂に集まっておられる皆さんの表情もはっきりと読み取れません。問題なしの顔のマスク、笑顔のマスクを被っているのかもしれません。皆さんの表情も、心の内も、私には読み取れません。しかし、神様はわたしたち一人一人の心の内をすべてご存知です。隠し通すことはできません。ですから、神様は愛と真実なお方ですから、わたしたちも素直に、正直に生きれば良いのです。
メディアの力を借りて世界中を見渡しますと、本当に目も当てられないような悲惨なことが日夜起こっています。ウクライナでロシアがしている略奪行為、戦争、北朝鮮から日本海側に連日放たれる弾道ミサイル、世界のいたる所の大地が干上がる大干ばつ、はてまたアメリカ東海岸を襲った巨大ハリケーンと大洪水被害、西海岸側では山火事、内陸では大雨や竜巻によって命やすべての財産を失ってしまう被害が多発しています。一番驚いたのは、カナダの東部にハリケーンが直撃したという信じられないニュースでした。本当に耳を疑いました。
フロリダ州知事は、「500年に一度の巨大ハリケーンと洪水」と今回発言しましたが、私は「アメリカ合衆国は、今年で建国246年ですよ」とツッコミを入れたくなりました。しかし、45名の命が奪われ、大切な家族や友を失い、これまでの地道な努力の成果がすべて吹っ飛んでしまって、すべてを失って途方に暮れている方々が多くおられます。大きな失望感の中に置かれていることでしょう。そのような人たちにどのような言葉をかけられるでしょうか。
最近、自身も、周囲の人たちも、職場でも、病気や怪我や事故など、様々な課題や問題に苦しむアメリカ人の男性が、牧師からこのように言われたそうです。英語で最初に言いますが、”You have to go through tests to get to your testimony”という言葉です。日本語にするのは難しいですが、感覚的には「生きている証し、生かされている証しを得るためには、いくつもの試練を通り抜けなければならない」となると思います。人生の中で、大変な時を過ごさなければならないこともある。人生の中で幾度も嵐の中を通らされる。しかし、それらの嵐を通して、わたしたちが進むべき道へと導かれる、神様が導かれると信じることが大切です。
先日、大変励まされる写真に出会いました。
何十年も前の大地に大きな嵐がきたのでしょう。大木がなぎ倒されました。しかし、その大木の根っこの一部はしっかり大地に根ざし続けたようです。写真のように育ちました。自然の力、生命力って、本当にすごいですね。この木は、わたしたちに何を教えてくれるでしょうか。人生の中でどんなに巨大な嵐に襲われても、主なる神様に信仰の根を下ろし続けることの重要性です。信じ続ける、信頼し続けることです。この大木が暴風で倒れた時、大きな音がしたでしょう。大きな叫びがあったと思います。しかし、祈るというのは、神様を信じることです。神様につながり続けることです。主イエス様は、わたしたちの近くにいつも居てくださり、「わたしに繋がっていなさい。わたしの名によって神様に祈りなさい。あなたを助ける」と言って、祈ることを励ましてくださいます。
すべての人ではありませんが、わたしたちは、素直ではなくて、強情で、偏屈で、意固地なところがあります。本当は心配性なのに、さみしがり屋なのに、臆病なのに、それを隠してしまう、そういうところがあります。しかし、神様は、そういうわたしたちをありのままに、無条件で愛してくださり、わたしたちが神様に立ち返るのをひたすら待ってくださいます。
ヨナ書を今朝も読み進めてゆきましょう。神様に逆らって逃げ出したヨナを引き戻そうとして、神様は海に向かって大風を放たれ、海は大荒れとなり、ヨナが乗っていた船は沈没寸前までになり、この災難が降りかかった原因を作った張本人を探すためにくじが引かれ、ヨナがくじを当てます。船員たちがヨナに対して「あなたをどうしたら、海が静まるだろうか」と尋ねた時、ヨナは自分のせいで大嵐が来たことを知っていると認めつつも、「わたしの手足を捕らえて海に放り込めば海は穏やかになるだろう」と答えるだけで、まったく悔い改めようとも、神様に祈ろうとも、その素ぶりさえも見せません。本当に強情な人です。船員たちは、恐れながら、祈りながら、ヨナの言葉どおり彼を海へと放り込みます。そうしたら、すぐに風は止み、海は静まり、船に乗っていたすべての人は主なる神様に礼拝をささげます。
それでは海に放り込まれたヨナはどうであったでしょうか。先週、ヨナは自分の命が終わるかもしれないと察知した時に、やっと神様に祈るようになったという部分を聞きましたが、今朝はその祈りの最初の部分をご一緒に聴いてゆきたいと思います。まず先週聴きました3節のヨナの言葉を確認しておきましょう。「苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声を聞いてくださった」とあります。「苦難の中で、陰府の底から」という言葉に、死の世界にまで落ちる苦しみ、絶望を経験したということです。少し先に飛びますが、7節の前半に、「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」というヨナの言葉がありますが、これも地の底まで落ちきったヨナに扉が永遠に閉ざされ、二度と地上に戻れないという彼の絶望感を表しています。
しかし、次の4節と5節のヨナの神様に対する言葉に首を傾げてしまいます。「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み波また波がわたしの上を越えて行く。わたしは思ったあなたの御前から追放されたのだと」とあります。これを聴いて、「あれ?」と思った方もおられると思います。神様のご命令に従わずに逃げてしまった責任はヨナであるのに、自分のことは棚に置いて、神様がヨナを海に投げ込まれ、怒りに満ちた神様がヨナを追放し、苦しみを与えてしまっている神様が悪いというようにも聞こえます。
この部分だけを読むと、そういう受け止め方ができてしまいます。つまり、自分の罪や過ちは決して認めないで、自分にとって不利なことはすべて神のせいにしたり、他人のせいにして、自分は被害者のように振る舞ってしまう、そういう弱さをわたしたちは持っています。しかし、ヨナの祈り全体を読むと、ヨナにはそのような考えは一切ありません。ヨナは、苦しみ、死に直面するような絶望を経験する中で、自分の罪、過ちを認め、神様は自分を悔い改めへと導くために、立ち帰らせるために自分を海に投げ込まれたのだと分かったのです。
新約聖書のコリントの信徒への手紙IIの7章10節(p333)に、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる」という言葉があります。わたしたちの人生には不条理なこと、理不尽なこと、悲しみや痛みや苦しみの意味が分からないことが起こります。しかし、その大部分は、わたしたちの罪が原因なのです。戦争や紛争もしかり、自然災害も人類が作り出した温暖化に原因があることもしかり、自分たちのことしか考えない利己主義や欲望が苦しみや悲しみを作り出します。しかし、その苦しみを通して、絶望のただ中にあっても、神様という存在を思う時に、神様に祈り叫ぶ時に、悔い改める思いが与えられてゆき、神様との関係性の中でわたしたちの心が新しくされてゆき、そこから新しい命が生まれてくる、新しいことを神様がわたしたちの内に起こしてくださるのです。
ヨナは深い海の中で、波に揉まれ、水草が頭に絡みつき、海水を飲み込み、息苦しさを感じ、「ああ、もう神の都と神殿には戻れない、もう死んでしまう」と絶望を味わい、全身の力が尽き、海底に沈みかけたその時に、神様の力強い救いの御手がヨナを抱え込み、神様が備えておられた巨大な魚の中にヨナを置き、ヨナの命を守られるのです。それはなぜか。それは神様にはヨナを用いて成し遂げたい救いのご計画があったからです。
今回のみ言葉から、わたしたちは何を聞くことができるでしょうか。確かに、苦しみや危機的状況は、神様から切り離された感覚を受けさせます。しかしその逆に、それらの苦しみ、絶望を味わうことを通して神様へ立ち返るチャンスが与えられている、救いへと招かれていると信じることもできます。神様の御心は、わたしたちが神様に立ち返り、神様の子として神様と共にいき続けることです。切り離されたと思っても、切り離されてはいないのです。神様を遠くに感じても、実はすぐ近くに主はおられるのです。神様を信じてゆく、それがイエス・キリストを通してわたしたちに与えられている信仰であり、平安であり、希望です。感謝ですね。神様の愛を今朝も受け取りましょう。