「祈りの中で神に変えられる」 十月第二主日礼拝 宣教 2022年10月9日
ヨナ書 2章7b〜11節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。去る金曜日は、秋を飛び越して、冬になってしまったかのような天候に見舞われましたが、明日はまた暑くなったり、その後は肌寒くなったりと、体調管理が難しい時期です。どうぞ健康にはくれぐれもお気をつけて日々お過ごしください。守られるようにお祈りしています。
さて、礼拝堂に集われている皆さんは、今朝、席に座られて、「あれ、いつもと感じが違うなぁ」とお感じになられたでしょうか。2週間前の日曜日の礼拝でしたが、新来者を含め、たくさんの方々が礼拝堂に集ってくださいましたが、この前に立って見渡すことができる私には適度なスペースを取れていない状態のように見えましたので、こちらの講壇の上にあった長椅子2つを会衆席側に戻して、左右一つずつ増やしてみました。コロナ感染第7波が徐々に落ち着いてゆき、教会に戻られ、招かれる方々が今後多く起こされていくように祈ります。
さて、去る週の歩みはいかがであったでしょうか。嬉しいこと、感謝なこともあったと思いますが、わたしたちの心を騒がせる、苦しめることも色々あったと思います。特にタイ国の託児所で幼い子どもたちが犠牲になったことは本当に痛ましい悲惨な事件です。また、日本の総理大臣は国会で誠実な答弁ができないと痛烈に批判され、韓国の大統領も暴言が外交問題になっています。しかし一番は、ロシア、ウクライナ、アメリカ合衆国のそれぞれの大統領の口から出た衝撃的な言葉で、世界中の人々を震撼させたと思いました。「核」とか、「アルマゲドン」という言葉です。大きな不安、恐怖を与える言葉で、とても悲しく思いました。
私の心は、先週、様々なことで何度も揺さぶられましたが、そのような時に、いつも親しくしてくださっているF教会のI牧師から写真のような十字架のストラップが送られてきました。I牧師は、わたしたちの教会の献金箱を作ってくださった方でもあります。今年の夏に、北海道旅行をされた時に、ご友人から貰い受けたクルミの木材を機械で削って作られたそうです。私は、この十字架を見た時に、神様から、「あなたは人の言葉で心を騒がすな、主イエスだけを見つめ、イエス様の言葉にだけ聞きなさい」と言われているように感じ、ハッとさせられました。
わたしたちの多くは、人々の無責任な言葉に悩み、苦しみ、悲しみ、傷つくことがあります。しかし、そういう時こそ、イエス様に集中しましょう。迷い出ないように、イエス様だけを見つめ、イエス様の言葉だけに聞きましょう。そうでないと、わたしたちの心は落ち込むだけで、それは神様の御心ではなく、サタンの思惑通りとなります。わたしたちを見つめ、「恐るな!わたしを見なさい」と励ましてくださる主を見上げましょう。
このI先生からいただいた十字架のストラップですが、すべての方には行き渡らないので、今後の夕礼拝に出席される新来者にプレゼントしようと思います。今日も17時から夕礼拝がささげられます。来会者が中々与えられません。どうぞ主の祝福をご一緒にお祈りください。
さて、8月から開始しましたヨナ書のシリーズも、今朝で7回目となります。12回のシリーズですので11月末まで続きますが、この学びは皆さんの信仰の助けとなっているでしょうか。霊的成長の助けとなっているでしょうか。わたしの独りよがりになっていないか心配していましたが、複数の方々がメールでフィードバックしてくださったので、神様のみ言葉が伝わっていると安心しましたが、このヨナ書は実に興味深い神様からの語りかけです。神様というお方は、本当にすごいなぁと宣教の準備をしている中でいつも驚かされます。この感動が今朝も皆さんの心に届くように、神様に信頼しつつ、ご聖霊の導きに従いたいと思います。
今朝の宣教は、ヨナ書2章7節の後半から11節で、先週の続きとなります。「祈りの中で、神に変えられる」という主題にしましたが、神様にお祈りする中で、わたしたちは神様の御心に沿って生きる者として造り変えられてゆくということを聴きたいと思います。ここで誤解しないで頂きたいのは、わたしたちが神様に祈ったから、その祈りによって自分自身が変わるのではなくて、祈りの中で、神様との深いコミュニケーションの中で、神様がわたしたちを新しく変えてくださるということです。わたしたちの内側には自分を変える力はありません。ある説教者は「祈りの中で神は人を再創造される」と言いましたが、神様と真剣に向き合う時に、愛に満ちた神様がわたしたちを包み込み、御心のままに変えてくださるのです。
さて、今朝の宣教は、先週までの内容を踏まえないとしっかり伝わらないと思いますので、2章の6節と7節を振り返りながら進めてゆきたいと思います。先週は、深い海の中に放り込まれたヨナが、あれほど強情で、神様に従うことも、祈ることを拒否して逃げ出したヨナが、海の中で沈んでゆく中でやっと神様に祈ったということを聴き、そのような者の祈りに神様が答えられたこと、その事には神様には大きなご計画があったからということを聴きました。
2節から10節は、ヨナの祈りの回想なのですが、その中で6節に、「大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に飲み込まれ、水草が頭に絡みつく」と沈んでゆく状態が記されていますが、「大水がわたしを襲って喉に達する」とは、命の危険にさらされている状態を表しています。「深淵に飲み込まれ、水草が頭に絡みつく」とは、もがけばもがくほど、水草が頭や全身に絡みつき、身動きがまったく取れないことを表しています。7節前半に、「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」とありますが、昔の人々は山の基は海の底にあり、海から突き出て陸地となり、山々が立ったと考えていましたので、ヨナは自分が山の基まで沈んで行った、最も深い海の底まで、つまり落ちるところの極限まで落ち、死と隣り合わせの状態、絶望の極みまで行ったということを表しています。
少し話が逸れますが、この状態はアッシリア帝国のニネベに生きる人々が落ちる極限へ沈んでいるということ、今日に生きる人々が、神という存在を知らず、聞かず、悔い改めて神様にたちかえらなければ直面すること、現在進行形で死に向かっているということであります。
死の間際まで追い込まれたその時、ヨナは神様に祈り、助けを求めます。そのような絶望の極みにまで追い込まれないと叫ばないのがわたしたち人間の強情さ、頑なさという弱さです。皆さんは、どうでしょうか。皆さんの周りには、そういう方はおられないでしょうか。多くの場合、神という存在を聞いたことがないから知らない、聞いても認めようとしない、自分には関係ないと言う、神様を無視して、自分の知恵や力や富などに頼ることが多くあります。
ある人は、「死」ということを不吉なこととして捉え、死について真剣に向き合うことを最後の最後まで、死に直面するまで先送りにしたがります。そして死の間際に追い込まれて初めて助けを求めて叫ぶか、あるいは生きることを諦めることが多いのです。ですから、若いうちから創造主であり、すべてをご支配なさる神様の存在を信じ、愛と恵みのうちに生かされていることを喜び、感謝して生きることは、何と幸いなことではないでしょうか。
ヨナは、神という存在を知らなかったわけではありません。信じていなかったわけでもありません。ただ、神様がイスラエルの長年の敵であるニネベの人々を愛しておられるのかが、分からなかったので、彼は神様の命令に背き、神様のみ前から逃げて、落ちる極限まで落ちて行ったのです。しかし、その陰府の底から神様に助けを求めると、神様はヨナの祈りを聞いてくださったのです。7節の後半に、「しかし、わが神、主よ、あなたは(わたしの)命を滅びの穴から引き上げてくださった」とヨナは感謝の言葉、賛美を主なる神様にささげます。
この「しかし」の神様の憐れみと救われたことをヨナが初めて知ったのは、神様が備えられた巨大な魚に呑み込まれて、その腹の暗闇の中で、自分の命が助けられたと知った時です。ここで重要なのは、最初に神様の愛と憐れみ、救いのみ業があったということです。この神様の配慮と備えがあって初めて、わたしたちは自分が救われたことを知り、神様の愛を体験するのです。その愛に気付かされ、神様に立ち返る(悔い改める)人の心を神様が新しくレストアされてゆくのです。レストア(restore)とは、復元、元どおりにされるということです。
前のスクリーンの写真を見て頂きたいのですが、これは28年間動かなかった巨大なエンジンが6ヶ月間かけて分解され、すべての部品のサビや汚れが洗い落とされた後、再びすべての部品が元どおりのエンジンに組み立てられたら動いたという写真です。
このエンジンは、人の命を奪う戦車のエンジンでしたが、レストアされて農地に水を送るポンプのエンジンになったそうです。どのような人でも、どんなに罪にまみれ、心が死んだような状態の人でも、この「しかし」の神様によって、神様の愛と御力によって、人は新しい人のようにレストアされ、自分のためにしか動いていなかった心が、神様と人々のために生きる者の心として再び動くようになり、その新しい心が、神様の御用のために用いられるのです。
8節前半に、「息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた」とありますが、口語訳聖書では「わたしは主をおぼえた」と訳され、新改訳聖書では「わたしは主を思い出した」と訳されています。ヨナは、命尽きる前に神様を思い出したのです。それまでは、自分の思いのままに生きることで夢中になり、命を与えてくださっている神様を忘れていたのです。
わたしたちも、目の前に輝く物に魅了され、富や社会的地位や名声をひたすら追い求め、そこに命、時間、健康やお金を湯水のように費やします。わたしたちの多くは、神様を忘れてしまって、自分の力だけで生きようという間違いを犯してしまいます。神の存在など、どうでもよくなります。しかし、歳を重ねて行く中で、今まで何不自由なくできたことが徐々にできなくなったり、徐々に体が老い始め、病気や怪我や苦難の中で不安や恐れを抱くようになります。しかし、それらの苦難も神様が備えてくださる神様へ立ち返るチャンスなのです。
この「唱えた、おぼえた、思い出した」と訳されているヘブル語は、ただ単に過去のことを記憶として留めているというのではなく、思い出したものに向かって進んでゆく、自分から積極的に追い求めていくという意味の言葉が使われています。つまり、今まで神様から逃げていたヨナが、祈りの中で新しくされて、神様の許へ戻ってゆく様子が表れている言葉です。自分の思いのままに生きてきた人が、神様のために生きてゆこうと変えられてゆくのです。神様には、変えられない人間はいないのです。しかし、変えられたいという願いが必要です。
8節の後半に、「わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した」とあります。ヨナの祈りが神様に届いたということで、この恵みは神様によって死の淵から救い出され、命へと戻されたことによって知り得たことであり、神様の愛の深さを味わうことができたことでした。ですので、わたしたちも最後の最後まで神様に信頼して、祈り続けるよう励まされています。
9節と10節を読みましょう。「偽りの神々に従う者たちが忠節を捨て去ろうとも、わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある」とヨナは祈りの中で一つの誓いと一つの告白をしています。「忠節」という言葉は、本来、神様がわたしたちに与えてくださる神様の愛や慈しみや真実を意味する言葉です。そして、これはヨナ自身が神様に背いて逃げる中で、自分から捨てたものです。しかし、神様の愛によって新しくされ、再びその忠節が与えられたヨナは、主の憐れみを喜び、感謝し、神に礼拝をささげ、主に仕えるという決意を表しています。
「救いは、主にこそある」とヨナは神様に対する信仰を告白しています。神様に背いて生き、海で溺れて死にそうであった者をも神様は憐れんで救いの御手を差し伸べて引き上げてくださったと告白し、ヨナが生きるのも、死ぬのも、一切を取り仕切る主権を持たれるのは、主なる神様にあると告白しています。「わたしはこの憐れみ深い神に生かされ、神と共に歩み、神のために生きる」というヨナの堅い決意が表れた言葉であると感じます。
ヨナは、巨大な魚の腹の中、闇の中で神様に真剣に祈り、その祈りの中で、神様の愛によって新しくされてゆきました。そして新しくされたヨナは、光の中へ戻されてゆきます。11節に「主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した」とあります。新しい命の中に、光の中に、神様のご計画があり、ヨナの使命があるのです。
わたしたち一人一人にも、この神様に心を注いで祈ることが許され、イエス・キリストの名によって神様に祈り、神様につながりなさいと招かれています。この神様が、わたしたち一人一人を新しい者へと変えてくださる力のある唯一の神、主なる神なのです。神様の愛の中で、この神様を信じさせて頂き、光の中を歩ませていただきましょう。神は愛です。