「裁きを思い直される神」 十月第五主日礼拝 宣教 2022年10月30日
ヨナ書 3章5〜10節 牧師 河野信一郎
おはようございます。10月最後の主日の朝を迎えました。今朝も、礼拝堂に集っておられる皆さん、オンラインでこの礼拝に出席されている皆さんと礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。ここ最近コロナ感染者が増加傾向にあります。朝晩も寒くなってきており、体調を崩しやすい時期ですし、インフルエンザが襲いかかってくる時期にもなります。くれぐれもお大事にお過ごしください。私も気を付けたいと思います。お祈りしています。
今朝の礼拝は、E姉とK姉が奏楽を担ってくださっています。E姉は、礼拝堂のピアノに慣れるため、祈祷会前に練習され、翌日も教会に来て準備してくださり、感謝しています。MB姉がサポートしてくださっていることも感謝です。K姉は、ピアノの発表会が昨日ありましたが、帰宅後に私に発した第一声は、「ただいま!教会で奏楽しているから全然緊張しなかった。楽譜がよく読めて、うまく弾けた。教会で奏楽するほうが緊張する!」でした。私は、父親として、とても頼もしく、嬉しく思いましたが、彼女が奏楽者として成長できたのは、神様の励ましとY先生の忍耐強いご指導のおかげです。わたしたち大久保教会の礼拝が神様の栄光を常にあらわす捧げものであることを祈ります。そのためにも皆さんに教会の働きに加わって頂き、それぞれ神様からいただいている賜物を持ち寄って頂き、ささげて頂きたいと主の励ましと導きがあることを祈っています。
さて、先週の歩みの中で考えさせられたことを一つ分かち合わせていただきたいと思います。私は、「牧師必要論」ということ、つまり日本の教会に牧師が徐々に足りなくなってきており、必要とされている現状を理解しているつもりでいましたが、先週、世界に「牧師不要論」なるものが実在し、今その「牧師不要論」が加速していると聞いて、私の心の中に激震が走りました。とても動揺しました。教会に牧師が不要な時代が本当に来るのか。とても信じ難いことです。いや、もうすでに来ていて、それが「加速している」というのです。
F県にあるバプテスト教会の牧師の言葉を引用します。「教会もこのコロナのなかで、思うような宣教活動はできなくなった。そして、話し合いや交流もzoomで済ますことが多くなった。礼拝も教会に集まらなくてもできるのである。それでいて、どの教会の礼拝にも(インターネットを介して)出席できる。優れた牧師がより優れた聖書解釈をしてくれる。より面白い聖書の話を聞かせてくれる。社会のテーマをより鮮明にしてくれる。そんな説教者の話が家を出ないで、好きな時に自由に聞ける。一つの教会にもう縛られることもいらないし、献金の心配もない。教会籍・メンバーシップなんて、一昔前の話という時代がすぐそこまで来ているかもしれない。しかし、聖書からは牧師と信徒の関係は、羊飼いと羊のごとくで必要だとも読める。」とありました。皆さんは、この牧師の言葉をいまお聞きになって、どのようにお感じになられるでしょうか。同意されるでしょうか。衝撃でしょうか。
確かに、この3年の間、世界的コロナパンデミックの中で、わたしたちは今朝のように教会に集って礼拝をおささげすることが何度もできなくなりました。福音を携えて外に出て行って、人々と出会ってイエス様を紹介することをしませんでした。教会の活動、教会学校、祈祷会、交わり、食事、さまざまなことが出来なくなりました。多くの教会は、インターネットを介してオンラインで礼拝を配信することを一斉に始めましたが、インターネットにつながれる人たちは問題なくオンライン礼拝をおささげ出来ましたが、そういった環境につながれない人たちは礼拝ができず、徐々に孤立し、教会から離れる人たちが多くなりました。
世界中の教会がインターネットで礼拝を配信し始めましたので、家に居て、様々な教会の礼拝に参加できるようになりました。パジャマで、食事をとりながら、あるいはコーヒーを啜りながら礼拝を見ることができるようになりました。大久保教会のユーチューブチャンネル登録者数が75名、教会員の約3倍で驚きました。他の教会と登録者数の競争をするつもりはまったくありません。大久保教会の切なる願いと祈りは、様々な事情や理由で教会に来ることが叶わない、戻ることが叶わない方々、礼拝と御言葉を聞くチャンスがない方々が、賛美と聖書から語られる神様の言葉によって、慰められ、励まされ、魂の飢え乾きが満たされ、喜びの中で真の礼拝者とされてゆくことです。オンラインで礼拝をおささげ出来ない方々には、宣教原稿を毎週お送りしていますが、受け取るのに時差が生じてしまいます。
話しが少し逸れました。確かにインターネットは素晴らしいツールです。しかし使い方を間違えば、わたしたちを堕落させます。恵みを受けるだけで、消費者のようになり、神様から受ける恵みへの応答をしなくなります。つまり、何処そこの礼拝には参加しているけれども、真の礼拝者となっていないということです。自分の好みやその日の気分で、教会も、牧師も選べます。説教のテーマも選べます。そういう信仰を、私は「カフェテリア信仰」と呼びます。好きな物だけ食べると栄養が偏り、魂の健康を害し、信仰を失うことになります。
ですから、わたしたちはお互いの存在が必要なのです。いつも近くに居て理解し合い、お互いを覚えて祈り合い、励まし合う信仰の友、愛し合う教会の家族が必要です。辛いことを分かち合って共に泣き、感謝なことを遠慮なく分かち合って一緒に笑う人たちが必要なのです。聖書の御言葉を分かりやすくストレートに解き明かす人、聴くべき神の言葉を伝える人が必要です。神様の愛の世界には、「分断、孤独、孤立」という悲しみはないのです。
たぶん、牧師に完璧な人はいないと思います。私のことで恐縮ですが、残念ながら間違いをあちこちで繰り返します。しかし、主なる神様がその人を牧師として立て続け、変え続け、語るべき言葉を与え続け、「わたしがあなたと共に行くから、あなたもわたしが遣わす地へ進んで行け」と遣わし続けてくださるのです。神様の愛と憐れみとお守りなくして、イエス様の伴いと祈りなくして、ご聖霊の日々の励ましなくして、牧師の働きは出来ないと思います。もちろん、教会員、信徒の方々の愛と祈りと忍耐も必要不可欠で、感謝しています。
ヨナ書をご一緒に聴いていますが、ヨナも神様のご計画の中で必要とされた人です。最初は、神様のご命令に背いて、神様から逃げようとしました。それゆえに死の淵に立たされて死に恐怖し、光のまったくない暗闇を経験しましたが、その闇の中で神様の愛と赦しを体験し、その愛と憐れみの中で新しくされてゆきました。そのヨナが、最初に拒んだアッシリア帝国の都ニネベへと遣わされ、そこで神様から示された言葉を人々に忠実に宣言しました。
その部分は先週の宣教で触れましたので、多くを振り返ることを今朝いたしませんが、どうしても一つのことだけは振り返る必要があります。それはヨナが都ニネベに入って、人々に対して、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫んだ言葉です。この宣言には、二つの受け止め方、聞き方があると先週お話ししました。一つは、その言葉のまま、あと40日すれば、ニネベは滅びるという神様の裁きの言葉として聞くことができるというものです。もう一つは、悔い改めて救われるためにまだ40日の猶予が与えられているということ、神様の愛と救いへの招きの言葉として聞くことができるということです。
さて、どちらが神様の御心であるのか。それは言うまでもなく、ニネベの人々が悪の道から離れ、悔い改め、神様に立ち返って、赦しと救いを受けることです。神様は、わたしたちを滅ぼすことを望んでおられる神ではなく、わたしたちを愛し、赦し、救って生かしてくださることを望んでおられる憐れみの神であることを聞きました。その神が新約の時代に、御子イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わして、主イエス様がわたしたちに臨んでくださったことを聞き、この救い主の言葉に日々聞き従うことが神の御心であると聞きました。
さて、本題に入ってまいりましょう。ヨナの「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」という宣言をニネベの人々はどのように聞いたでしょうか。受け止めたでしょうか。3章5節を読んでみましょう。「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった」とあります。凄いですね。ニネベの人々は、ヨナの宣言を神の言葉と信じ、その言葉に聞き従い、「断食を呼びかけ、粗布をまとった」とあります。つまり、彼らはそれまでの悪に満ちた生き方を認め、神の御前で心から悔い改めるのです。
これは4節にある「ヨナが都に入り、1日分の距離を歩きながら叫んだ」結果であり、主なる神の言葉には聞く人々の心を揺さぶり、間違いに気付かせ、悔い改めさせる力があるからであり、人々が神の力ある言葉を聞いた結果です。ヨナも頑張りましたが、ヨナに力があったからではありません。神様の言葉はさらにその国の王に届き、その人を悔い改めへと導く力があります。6節に「このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座した」とあります。「このこと」とはニネベの民が、身分の高い者も低い者も悔い改めたと部下から聞いたからです。王は王座から降り、王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとい、灰の上に座し、断食します。つまり、力ある者も、神様の御前では一人の人として悔い改めているということです。人を介して聞くだけでも人を悔い改めさせる力、その聞く人の心を新しく変える力が神様の言葉にはあるということです。
さて、7節をご覧ください。7節から9節には、王と大臣たちの名によって出した布告の内容が記されています。ここに興味深いことがたくさん記されています。一つは、断食と悔い改めの行為が国民だけでなく、牛や羊といった家畜にまで至っていることです。人は神に対して罪を犯したとき、家畜をその道具として使うこともあったので、家畜にも断食させたのでしょう。家畜は人間から被害をいつも被って苦しんでいる立場ですが、王が自分たちの罪の深刻さを徹底的に理解していたということの表れであったと思います。
二つ目は、8節です。「ひたすら神に祈願せよ」と命じています。ひたすら謙って、神様に叫べ、神に向かって憐れみと助けを叫び求めよ、ということで、真剣さが伝わってきます。三つ目は、「おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」と命じています。粗布をまとい、断食する行為は心の方向転換を表しますが、悪の道を離れ、その手から不法を捨てるというのは、生き方においても方向転換するということです。そして神様に向かって生きるということです。心が変われば、生き方も変わります。神様自らが、神様の愛の力が、わたしたちの心を新しく変え、歩むべき道をはっきり示し、祝福への導いてくださるのです。
四つ目の注目点は9節にあります。「そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」という王の言葉です。嵐に悩まされていた船長が船底で眠っていたヨナに放った言葉にも共通します。船長は、「眠っているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない」と叫びました。
この船長と王の言葉から、わたしたちは今朝何を聞くべきでしょうか。少なくとも二つあると思います。一つは、「もしかすると神様は憐れみと愛をもって救ってくださるかもしれない」という期待と希望を持ち続けるということ、決して諦めないでいるということです。神様の愛と憐れを信じ、主に期待し、希望を持ち続けるということ。つまり、わたしたちの罪の身代わりとして、贖いの供、小羊として十字架上で死んでくださったイエス様と、そのイエス様を三日目の朝に甦らせた神様を信じて、希望を抱き続けて生きるということです。
もう一つは、信仰と希望をもってわたしたちは生きるけれども、最終的に決定されるのは神様であるということを信じ、心を明け渡すこと、神の御心に従うという「服従」です。わたしたちを生かすのも、命を取るのも、神様の絶対的な権威と自由にあることを認めて、委ねるということ、それが服従であると思います。わたしたちの主、イエス・キリストが御心に生きられ、その生き方を十字架上でわたしたちにはっきり示してくださいました。
さて、人々が悔い改めて、神様にすべてを委ねた結果はどうなったでしょうか。10節に記されているとおりです。「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」とあります。この言葉を軽く受け止めてはなりません。神様は謝れば、すぐに赦してくださると思って、神様の愛と赦しを軽く見てはなりません。わたしたちが罪を犯すとき、その罪を悲しまれる、痛まれる神がおられるということ、しかしそれでもわたしたちを慈しみ、憐れんでくださる神がおられるということを忘れてはなりません。イエス様が、わたしたちの身代わりとなって死んでくださったことを軽く受け止めてはなりません。神様の愛と憐れみ、赦しの中で、イエス様の執りなしの中で生かされていることに感動し、悔い改め、喜び、感謝をささげる生き方を日々選び取ってゆきましょう。それが神様の言葉に忠実に生きることであり、恵みに応えて生きることです。