ヨナの不満と神の問いかけ

「ヨナの不満と神の問いかけ」 十一月第一主日礼拝 宣教 2022年11月6日

 ヨナ書 4章1〜4節     牧師 河野信一郎

おはようございます。11月の最初の主の日を迎えました。今朝も、この礼拝堂に集っておられる皆さん、そしてオンラインでこの礼拝に出席されている皆さんとご一緒に礼拝をおささげできて、本当に嬉しいです。この素晴らしい礼拝へ招いてくださる神様に感謝します。

 皆さんと賛美と礼拝を神様におささげできることは、本当に大きな祝福ですが、韓国、そしてウクライナ、イラン、また国内から悲痛な叫びが次々と聞こえてきます。大勢の人々が、大きな悲しみ、痛み、絶望を味わっています。神様の憐れみを祈らなければなりません。

 日本は、全国で7万4170人の新規感染者の報告が昨日あり、東京では、10代から50代まで、各年代が1000人を超える7967人の報告がありました。全国的に前の週を大幅に超えています。ワクチン接種も必要ですし、感染に十分な注意と対策が必要です。どうぞご家族やご自身の心とよく相談くださって、少しでも不安のある場合は、オンラインでの礼拝に再度お切り替えいただきたいと思います。そのようなためにも、大久保教会ではすべての礼拝の配信を継続しているのです。ですから、お互いの健康が守られるように祈り合いましょう。

 さて、礼拝をオンラインに切り替えることもご検討くださいとお伝えしつつも、その正反対のことを今から申し上げる事をお許しください。先週のメッセージの中で分かち合いました「牧師・教会不要論」に対して、多くのフィードバックをいただき、驚いております。

 新型コロナウイルス・パンデミックに直面し、インターネットを介してのオンライン礼拝の普及と配信技術の向上により、自宅に居ながらも礼拝をささげることができるようになりました。教会への移動も、献金の心配も、メンバーシップの有無も問われなくなった。強いても教会も、牧師もそんなにたくさん必要としない時代になっていると勘違いしている人が多くなったことをお話ししました。オンライン礼拝は、諸事情で、どうしても教会に戻れない方々のために神様が備えてくださった憐れみであって、そこには痛みや苦しみがあり、わたしたちが楽をするためにあるのではないということを分かち合いました。

 あまり神学的なことをお話ししたくないですが、コロナパンデミックを通して、わたしたちは皆、神様に対する信仰の姿勢が問われていると思うのです。礼拝論、教会論、伝道論など、多岐にわたって信仰が問われているのです。それらのことを一言で要約するとすれば、神様との関係性が問われているのです。周りの人は、どうでも良いのです。あなたは、わたしは、本当に神様を信じているのか、神様の何をいったい信じているのか、日々の生活の中で神様が第一とされているのか、神様の御言葉に忠実なのか、イエス様を救い主と信じて従っているのかが問われていると思います。もしかしたら、わたしたちは勘違いをしているのかもしれません。自分の考えや感情や理想だけで、神様とはこういうお方であり、教会はこうあるべき、イエス様はこういう時はこう言われるだろう、こうなさるだろうと、どこか勝手に決めつけて、自分で捻じ曲げた信仰で、聖書を勝手に解釈し、独自の神学をもって、わたしたちは「信仰に生きている」と思い込んでいるのかもしれません。いかがでしょうか。

 キリスト教は何でしょうか。教会とは何でしょうか。礼拝とは何でしょうか。クリスチャンとはどういう存在でしょうか。キリストを中心とした交わりとは何でしょうか。伝道とはいったい何なのでしょうか。一言で言えば、イエス・キリストを通しての神様とのリレーションシップ・関係です。イエス様を通して神様につなげられたことを喜び、感謝し、証しすることが礼拝であり、そのために存在するのが教会であり、主イエス様を中心とした交わりであり、十字架と復活を告白し、証しする伝道ではないでしょうか。神様との親しい関係性を日々持っていたら、その人の信仰は揺るがないでしょう。わたしたちの信仰が揺らぐ時、不安や怒りや不満を抱く時とは神様を見ていないことの表れだと思います。神様を見ているようで、神様の本質を見ていない、どこか信仰のピントがブレているのかもしれません。信仰のピントを正確に合わせるためには、神様との関係性を第一優先しなければなりません。

 ずいぶん前にトニー・エバンスという牧師がこのようなことを言うのを聞きました。「『教会に行かなくても、クリスチャンになれる。』という主張は間違ってはいない。キリストを信じる信仰によって、救いは与えられる。では、こうは言えるか。『家庭に戻らなくても、結婚関係は継続できる』と。しかし、家庭に長期間戻らないなら、配偶者との関係性も、子どもとの関係性にも、大きな悪影響を与える。教会も然り。」と。神様との祝福された関係性を維持するためには、神様の前にいつも帰ること、教会に戻ることはとても重要なのです。

 さて、今朝もご一緒に、ヨナ書を通して、神様の御声に耳を傾けてまいりたいと思いますが、最初にお詫びと申しましょうか、一つお断りをしておかなければならないことがあります。それは、今回のヨナ書4章1節から4節は、これまでの学びの中で最も難しい箇所であると言うことです。できる限り分かりやすくお話しますが、皆さんも祈りながら、御心を慕い求めながら、神様からの語りかけをお聞きいただきたいと思います。

 今朝のメッセージのポイントは、二つだけです。タイトルにありますように、1)預言者ヨナの不満と怒りは何であり、どこから来るのか。2)そのヨナの怒りに対して、主なる神様は何と言っておられるのか。基本的にはこの2点なのですが、ここを読み込んでゆくと、けっこう複雑なのです。では、いったい何が複雑なのかと言いますと、ヨナの心理状況です。喜ぶべきことを何故ヨナは怒るのか。これを知るのはけっこう大変です。

 さて、皆さんにお尋ねします。皆さんには、何かに対して不満に思っていること、怒りを覚えていることがあるでしょうか。どれだけの方が、神様に対して不満や怒りを抱いておられるでしょうか。どちらかと言うと、わたしたちの不満や怒りの矛先は、人や組織に対することが多いのではないでしょうか。先週の韓国の悲惨な事故の怒りは、責任を全うしなかった政府や警察の人々に対して向けられ、ロシアのウクライナ侵攻や北朝鮮の連日のミサイル発射に対する怒りも、それを許可した人たちに向けられます。

 しかし、今回のケースは、事もあろうか、ヨナが神様に対して不満や怒りをぶつけるのです。しかし、そこに至った理由と経緯など、よく分からないことがたくさんあります。確かに、ヨナは神様の最初の派遣命令に反いて逃亡し、その結果、死に直面しました。しかし、そのようなヨナを神様は諦めずに死の淵から助け出し、巨大な魚を腹の中に三日三晩置き、ヨナは真っ暗闇の中で悔い改め、心を入れ替えたかのように見えました。その証として、2度目の派遣命令にはすぐ従い、神様が語れと言われた、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」という言葉をアッシリアの都ニネベを練り歩きながら人々に宣言しました。しかし、その民が悪の道を離れ、悔い改めたことを見ると、神様は裁きとして災いを下すことを思い直され、ニネベは救われたのです。その結果にヨナは不満をぶちまけ、怒り狂うのです。

 3章10節と4章1節を読みましょう。「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った」とあります。ヨナは、神様がニネベの人々を滅ぼす計画を思い直され、滅ぼすことをやめられたと言うことに怒ったとあります。心を入れ替えたはずのヨナは、実は変わっていなかったと言うことが分かります。皆さんは、ヨナに裏切られたと感じないでしょうか。死の恐怖から救われ、心が新たにされたと思ったのに、ヨナは変わっていなかったのか、と。しかし、ヨナ自身は、自分が神様に裏切られたと思い込み、非常に大きな不満を抱き、神様に対して怒りをあらわにしたのです。彼の訴えを聞いてみましょう。この2節と3節の訴えの言葉から、ヨナの心理状況を読み取る以外に方法はありません。

 まず2節に、「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」とあります。これが神様からの最初の命令にヨナが従わなかった最大の理由です。簡単に言えば、「恵みと憐れみの神がニネベを滅ぼさないと分かっていたので、わたしは逃げたのです」と言うことです。つまり、ユダヤ人ヨナは、敵国アッシリアの人々を神様が滅ぼされないと知ったので、その任務を拒否したということです。ヨナにとって、ニネベの人々が救われることは許し難いことであったのです。

 しかし、それだけがヨナの怒りの理由ではないようです。こういう事も考えられます。つまり、ヨナはこう考えたのかもしれません。「ニネベの人々が救われることを完全に拒絶して逃げた自分の命をそれでも神は守られ、再度ニネベへ派遣し、『あと40日すれば、ニネベの都は滅びる』と宣言せよと命じる神がおられる。つまり、神は本当にニネベを滅ぼすのではないだろうか、そしてその裁きを自分に宣言させ、その裁きを目撃せよとの特別な任務を任してくれているのではないか」とヨナは思い込んだのかもしれません。つまり、神は絶対にニネベを滅ぼし、イスラエルの苦しみを取り去ってくれると信じて、勇気を振り絞ってニネベへ言って宣言し、災が下されるのを期待していた。しかし、その国の王をはじめ、人々が悔い改めるのをご覧になられた神様は、思い直されて、宣告した災いを下すのをやめた。それはヨナにとって許し難い事であった。だから、神様に対して怒ったとも考えられます。

 3節に「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」というヨナの悲痛のような叫びが記されています。ヨナの怒りは頂点に達していました。「滅びる」という預言も嘘のように変わり、預言者としての面目も丸潰れです。敵国の人々がユダヤの神によって救われるなどあり得ないし、耐えられない。異邦人を愛する神には本当に幻滅した。絶望した。そんな神にこれ以上仕えたくない。もう死んだほうがましだと思ったのでしょう。それほどまでに、神がニネベに憐れみと救いを与えたことが許せなかったのかもしれません。ですから、「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」という言葉は、不満と怒りの中で、神様を皮肉る言葉であったのかもしれません。皆さんにはどのように聞こえますか。

 さて、ヨナの心理状況を十分理解するには、もっと時間と考察力が必要であると思いますが、今度はヨナの怒りの言葉を聞いた神様はどのようなリアクションを取られたのかを聞いてゆきたいと思います。神様は、ヨナに対して一つの問いかけをしました。4節をご覧ください。「主は言われた。『お前は怒るが、それは正しいことか。』 」とあります。

 神はヨナに対して、「あなたの怒りは本当に正しいのか」と問われます。この問いかけは、「あなたの怒りは何処から来るのか。あなたの怒りの根拠は何か。あなたの怒りには正当性があるのか。あなたの怒りという感情は神の御心を超える正義なのか」ということを確認しているようにも聞こえてきます。「あなたの怒りは正しいのか」とヨナに問いかけることを通して、神様はヨナの心に「正しくないことがある」ことを教えようとしています。

 それでは、ヨナの心の中にある「正しくないこと」とは、いったい何でしょうか。いくつか考えられますが、一つだけお話しします。これから皆さんにお話しすることは、今朝、神様があなたに直接語りかけられて、問いかけられている事としてしっかり捉えていただきたいと思います。そうでないと、日々の生活の中で抱く不満や怒りに支配されてしまい、その感情に言動が左右され、神様との関係性の悪化だけでなく、人間関係も悪化してしまい、挙句のはてに神様からいただいた信仰を捨ててしまうという大事になりかねないからです。

 ヨナの心にある「正しくないこと」、それは自分の考えや感情や思い込みだけで、神様の愛と、人を愛する神様の自由さと、神様の愛の対象とその範囲を限定してしまうということです。ヨナは、イスラエルの民だけが神様に愛されるべき対象で、異邦人は神の愛の対象ではなく、その罪ゆえに滅びても良いと考えていたようです。ですから、怒ったのです。

 しかし、主なる神様は愛の神であり、何にも束縛されない自由な神です。誰を愛し、どれほど愛するのかという自由と権限は、主なる神にあるのです。つまり、愛する範囲を決めるのは神様であって、わたしたちにはそのような権限は一切ないのです。ですから、わたしたちが敵とみなす人々をも神様は愛し、憐れみ、悔い改めることを待っておられることを覚えましょう。すべての人は、神様に造られ、愛され、生かされています。しかし、そのことを忘れさせてしまい、差別や嫉妬や憎しみや怒りを生じさせているのは、わたしたちのうちにある「罪」なのです。その罪に支配されたわたしたちの罪を贖い、神の正義を教えるために、イエス様はこの地上に遣わされ、神様の愛と赦しの言葉として共に生きてくださるのです。