「一筋の心を与える神」 一月第二主日礼拝 宣教 2023年1月8日
詩編 86編11節 牧師 河野信一郎
おはようございます。新しい年を迎えて、2回目の主の日を迎えました。先週の1日の新年礼拝には、幼い子どもたちを含めて37名の礼拝者が与えられ、とても賑やかな礼拝となり、とても感謝でしたので、わたしは「毎年元日が日曜日であったら良いのになぁ」と思いました。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげできることを神様に感謝いたします。オンラインで礼拝に出席されている皆さん、ビデオで宣教を聞かれる海外の皆さん、ご一緒に礼拝できて感謝です。今年も日曜日は礼拝をささげる日として大切にしてまいりましょう。
皆さんは、新年の最初の数日をどのように過ごされたでしょうか。旅行に行かれたり、ご家族と楽しい時間を過ごされた方もおられると思いますが、教会の中には年末に怪我をされた方々が複数おられ、不自由な日々であったと思います。我が家は、1日の夜から3日のお昼過ぎまで、大変な時間を過ごしましたので、少し証しをさせていただきたいと思います。
元日の晩に、喘息持ちの息子がホコリを吸い込んでしまい喘息の発作が出てしまいました。時間が経過するにつれ、症状が悪化してゆき、呼吸困難になってゆきます。病院に連れてゆく事にしましたが、正月休みでかかりつけのクリニックも閉まっています。教会裏の新宿区の保健センターにも電話しましたが、発熱外来でごった返ししているので、もっと大きな病院に行ってくださいと言われました。Iセンター、J病院、K病院など大きな病院の救急センターに電話しても診察できる医師が不在であったり、コロナ感染者やインフルエンザ感染者の対応が忙しいようで、すべて断られて途方に暮れてしまいました。
息子は顔を真っ赤にして今にも倒れそうです。救急車を呼ぼうと思いましたが、保健センターに再度電話しましたら、点滴など特別な処置はできないけれど一応連れて来なさいと言ってくださったので、息子を連れてゆき、発作を抑える薬を処方してもらいました。薬を服用後、徐々に症状が収まってゆき、翌朝には回復しました。元気になった息子・弟・孫の顔を見た家族は、大きな安堵感と喜びで満たされ、蔓延の笑みで神様に心から感謝しました。
喘息で苦しんでいる息子のために電話で病院を探し回っていた時、わたしは出産間近のマリアを連れてベツレヘムに着いたヨセフが宿泊する場所が見つからなかった時の気持ちを生まれて初めて分かった気分になりました。わたしはただ電話を片っ端からかけるだけでしたが、ヨセフは宿泊場所を確保するためにどれだけ歩き回り、もどかしい時間を過ごしたことでしょう。探しまわって、やっと落ち着いた所は馬小屋でした。どんなに不安な気持ちであったでしょう。そのような闇の中、世の光として救い主イエス・キリストがお生まれになられました。子が無事に産まれやヨセフとマリアの喜びと安堵感はいかばかりであったでしょう。大きな不安や恐れ、深い闇の中にも、神様のお守りと備えがあることを新年早々の出来事を通してわたしと家族はみんなで体験し、憐れみの主に賛美と感謝をおささげました。
わたしも幼い時に喘息を患っていましたので、母をはじめ、家族に心配をかけました。一番記憶に残っている出来事は、教会員の方のご実家がある岡山県の倉敷で夏休みを過ごしたもう45年以上も前の出来事です。わたしは旅先で喘息の発作が出てしまい、わたしと弟を連れて行ってくださったご家族やご実家の方々に多大なる心配と迷惑をかけてしまいました。「すなほのおばちゃん」と呼んでいる姉妹がわたしを病院に連れて行ってくださったり、寝ずの看病をしてくださいました。そして発作が収まるとみんながとても喜んでくれました。
今回の出来事を通して、わたしはルカによる福音書15章の御言葉が心に迫って来ました。15章には「迷子になった羊」のたとえ、「銀貨一枚を無くした女性」のたとえ、有名な「放蕩息子」のたとえが記されていて、そこには主イエス様の言葉があります。「あなたがたに言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。天に大きな喜びがある。息子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」という主イエスの言葉です。
わたしの今年の祈りは、わたしを通して、またこの大久保教会を通して、一人でも多くの方々がイエス様の福音を聞き、神様の愛に触れ、神様から愛と罪の赦しを受け取って大きな喜びに満たされ、イエス様を救い主と信じて従う人が次々と起こされることです。この礼拝堂に大勢の人が礼拝者として集い、主なる神様とイエス様をほめたたえる教会になることです。どうぞ皆さんもご一緒に祈っていただき、大久保教会の働きを共に担ってください。現在、日曜日の教会学校と水曜日の祈祷会では、ルカによる福音書に聴いています。毎回、たくさんの励ましや慰めを受け、喜びと感動に満たされていますので、ぜひご参加ください。
さて、今朝のメッセージに入る前に、もう一つお願いがあります。わたしは、今月から3月まで、来週の15日から第三の日曜日に、日本バプテスト連盟の宣教部と大久保教会から、説教者としてN教会へ月に一回派遣されることになりました。N教会は、昨年の7月から無牧師となり、突然の牧師辞任で大変な半年間過ごしておられます。わたしは、連盟の地区宣教主事として、N教会が次の牧師を招聘することができるように役員会に陪席し、また牧師招聘委員会に助言する重要な役目を担います。N教会は大久保教会の母教会です。伝道所の時代に支えていただきましたから、今度はわたしたち大久保教会が支える番です。
3月までメッセージを3回しますので、シリーズでお話しすることにしました。「信仰・希望・愛」というテーマで御言葉を分かち合う準備をしています。来週は、神様が与えてくださる信仰という恵みを聖書から分かち合います。お祈りに覚えていただければ幸いです。
わたしたち大久保教会は小さな教会ですが、大変恵まれています。副牧師もいますし、メッセージができる宣教師たちも与えられています。その恵みを独り占めすることは、非常にもったいないことです。恵みを他教会と分かち合い、支え合うことが「協力伝道」です。今月29日から2月5日まで「協力伝道週間」を過ごしますので、また分かち合いをいたします。
さて、先週の新年礼拝では、主なる神様がわたしたちの必要を満たしてくださる恵みの源であり、新しい年を神様に信頼しながら歩む力をも与えてくださるお方であることを詩編84編から聞きましたが、今朝は詩編86編から神様に信頼しながら歩むとは、神様に祈りながら生きることである、ということをご一緒に聞きたいと願っています。つまり、祈りの中で真実な神様と日々会話しながら生きることが重要であるということです。今朝のメッセージの中心は11節となりますが、この詩編86編の表題には「祈り。ダビデの詩」とあり、つまりこの詩編は「ダビデの祈り」であると考えられます。祈りというのは、神様との親密なコミュニケーションです。そこに信頼関係がなければ、祈りは成立しません。
では、わたしたちはどうでしょうか。日々の祈りの中で、神様にさまざまな事を一方的に願い求めるだけになってはいないでしょうか。しかし、祈りとは、わたしたちの願いを神様に一方的に伝える手段ではありません。神様の御心を慕い求め、信仰の耳を澄ませて、神様からの語りかけを聞く時でもあります。祈りとは、神様とわたしが一対一でコミュニケーションをとる時であり、また教会という信仰共同体や信仰のコミュニティーが神様とコミュニケーションをとり、神様の御心を求めて、共に神様の御旨を聞く手段でもあります。
祈りは、決して一方通行ではありません。祈りは、信仰のキャッチボールとも呼ばれます。独りでは壁にボールを当てて拾うだけで、キャッチボールにはならないのです。ボールを相手に投げる存在と相手のボールを受け取る・キャッチする存在があって成立します。
この詩編86編の中で、ダビデは神様に対して12回も「主よ、神よ!」と叫び求めています。そこからダビデがいかに主なる神様に全幅の信頼を置いていたかが分かります。しかし、ダビデの置かれていた状況は必ずしも歓迎できるものではなかったようで、むしろたいへん困難な状況に置かれていたようであります。14節では、「傲慢な者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者の一党がわたしの命を求めています」とあります。また17節ではダビデを憎む者が存在していたことが分かります。憐れみの神様を知らない人であれば、生きていることが辛いことであると思います。しかし、ダビデは憐れみの神様を知っているだけでなく、真実な神様を信じ、信頼を置いていました。自分の命が神様の御手の中にあることを。
わたしたちを創り、生かし、愛してくださる神様は真実なお方です。わたしたちのために大きなご計画をお持ちです。この真実な神様を常に見上げて歩んでゆけば、主が必ず自分の命を守ってくださるということをダビデは心の奥底から信じきっていました。ですから、苦難・苦境に立たされ続ける中でも、真実な神様に祈り続け、慈しみと憐れみ、赦しと救いと加護を求めることができました。その信仰も、祈る力も、忍耐する力も、救いを待つ力も、すべて神様から与えられた恵みなのです。それらは、わたしたちにも与えられています。
わたしたちが大きな試みの中に置かれたり、心に不安や恐れが日々の歩みの中にあると、真実な神様に集中して祈ることができなくなり、一方的に、闇雲に、こちらの願いを神様に投げつけてしまうことがあります。しかし、わたしたちの心は、不安や恐れでボロボロな状態、引き裂かれた状態ですから、神様の御声を十分に聞き取ることができません。
そのような心の状態ですので、祈っても神様は何も答えてくれないと勘違いをし、神様に対して不信感を抱いてしまい、心が神様から離れ、自分の思いを優先させ、自分の知恵と力で自分の思い描く理想の道を歩もうとしてしまいます。それがさらなる不幸の道であることを知らずに、です。そこに時間や富や有りとあらゆる力を注ぎますが、何もかもまったくうまくいきません。なぜでしょうか。神様の祝福が添えられていないからです。
では、神様の祝福を得る方法があるとすれば、それはいったい何でしょうか。どのような心を持ち、どのように生きれば、祝福に満ちた日々を歩むことができ、幸いな人生を送ることができるのでしょうか。答えは、いたって簡単です。真実な神様に立ち返るしか方法はありません。自分の間違い、弱さ、罪を認め、悔い改めて神様に信頼して生きる決心をすること、主に委ねて生きて行くことを選び取ることです。そうしたら、神様がわたしたちの傷ついた心、ボロボロになって裂けた状態の心を愛で包み込み、わたしたちが本来持つべきしっかりとした心、一筋の心へと回復してくださいます。ですから、もう神様の御声を聞き逃すことがなくなり、神様とキャッチボールができるようになります。
わたしたちに大切で、生活に関係性のある重要なことを神様はダビデを通して、この詩編86編から教えてくれます。わたしたちに対する神様の御心を教えてくださいます。わたしたちに大切なこと、それは11節にあります。「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまこと・真実さの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください」と日々祈り求めることです。ダビデは「主の道」を求めました。
「主の道」とはイエス・キリストです。そしてこのイエス様は、神様の御言葉です。わたしたちの心を癒し、神様に再びつなげてくださる救い主です。わたしたちを救うために十字架の道を歩んでくださり、十字架でわたしたちの罪を贖ってくださいました。この主イエス・キリストが真理の道となって、わたしたちに神様の真実さの中を歩む生き方を教えてくださいます。どのように神様を畏れ、敬い、主の御名を賛美しながら生きることが神様の御心であるかを教えてくださいます。神様には忠実に、人々には誠実に生きる力を与えてくださいます。神様とイエス様は、わたしたちの命を奪う方ではなく、わたしたちに永遠の命を与えてくださる愛と憐れみに富まれた神です。この真実な主に信頼して、共に前進しましょう。