ルカによる福音書7章24節〜28節
ルカによる福音書7章18節から35節に取り上げられているイエス様とバプテスマのヨハネの関係性について、3回に分けてお話しすることにし、初回は18節から23節の部分を取り上げました。今回は、24節から28節の部分をメインに聴きたいと思っておりましたが、前回の部分に二点ほど追加したいことがありますので、その部分からお話ししてゆきたいと思います。
前回は、バプテスマのヨハネからイエス様のもとに遣わされた二人の弟子がイエス様に対して、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と質問した箇所を聴きました。ヨハネがそのように質問させた意図は、彼がヘロデに捕まり、明日の命も分からない切羽詰まった状況に置かれ、彼を救ってくれるのはあなたでしょうか。それとも、誰か他の方を待つべきでしょうかという切なる思いがあったからであろうということをお話ししました。ヨハネと彼の弟子たちにとって、それは非常に重要な問題で、彼らの答えはイエス様にあると大きな期待を抱いていたと思われます。
しかし、その切迫感のある質問に対して、イエス様はどのようにお答えになったでしょうか。「そうだ、来るべき者はわたしだ。わたしを信じなさい」とは言わずに、「行って、(あなたがたが)見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」とお答えになります。イエス様は、父なる神様がご自分を地上に派遣された目的と使命を理解されていたこと、つまりイエス様は神様の御心のままに忠実に生きておられたということをご一緒に聴きました。
わたしは、前回、イエス様は「目の見えない人には見える自由を、足の不自由な人には歩ける自由を、重い皮膚病を患っている人には清くなって生きる自由を、耳の聞こえない人には聞こえる自由を、死者には生き返って生きる自由を、貧しい人には福音を告げ知らされて信じる自由を与えるため」、イエス様は神様からこの世に派遣され、この地上を歩まれたという趣旨のことを言いました。様々なことに囚われて生きていますが、その囚われている不自由さから解放されて自由に生きることができるように、イエス様は来てくださったと信じていますが、もう一つ大切な観点があったことに気づかされました。
それは、神様の憐れみということです。つまり、「目の見えない人が神様の憐れみによって見えるように、足の不自由な人が憐れみによって歩けるように、重い皮膚病を患っている人が主の憐れみによって清くされて生きられるように、耳の聞こえない人が神様の憐れみによって聞くことができるように、死者が主の憐れみによって生き返らされ自由に生きられるように、貧しい人が神様の憐れみによって福音を聴き、信仰と自由が与えられるように」、イエス様は神様からこの地上に派遣され、この地上を歩まれたという観点です。この神様の憐れみ、愛によってわたしたちは日々生かされているという観点を持ちながら生きることが、わたしたちにとって本当に幸いな人生を歩む秘訣であると思います。
もう一つのことは、「つまずく、つまずかない」ということです。この「つまずく」というギリシャ語はスカンダロンという言葉が使われていて、スキャンダルという言葉の語源となった言葉です。辞書には、「不名誉な噂」とか、「不祥事」とあります。神様の愛と憐れみを信じて生きる者は、神様と人々を悲しませる不祥事はおこさず、イエス・キリストの言葉に忠実に聞き従う者には「不名誉な噂」は立たないということになるでしょう。
さて、イエス様は、「わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃいました。つまり、「イエス様につまずく人は幸いではない」ということになります。しかし、この言葉は、イエス様が「わたしを信じなさい」と招いておられる言うことだと前回お話ししました。ここで重要なことは、イエス様を「信じる、信じない」の決断の自由も、イエス様に「つまずく、つまずかない」の行動の自由も、わたしたちにあると言うことです。イエス様を信じる者、つまずかない人は幸いということでしょう。バプテスマのヨハネも、その弟子たちも、イエス様に少々つまずいたので、あのような質問をしたのでありましょう。
わたしたちも、様々なことにつまずき、傷つくことが多々あります。では、何故つまずいてしまうのでしょうか。様々なことが言えますが、多くの中から基本的な理由を三つ挙げたいと思います。1)闇の中ではつまずきの石に気が付かないからです。あるいは、2)傲慢になりすぎて、いつもお鼻を高く、上ばっかり見て歩いているので、足元にあるものに気付かずにつまずくからです。つまり、行き着くところ、3)イエス様を見上げて光の中を歩まない、イエス様抜きの人生を歩んでいるからです。闇の中で傲慢な人々(わたしたち)が互いにぶつかり合い、人につまずき、人生につまずき、倒れて傷つくのです。
わたしたちに大切なのは、神様の憐れみの中に生かされていることを喜び、謙遜になって生きること、世の光であるイエス・キリストを信じ、この方を見つめて生きてゆくことです。信仰は神様から与えられる素晴らしい恵みですが、この恵みを日々感謝して受け取ってゆく自由があると言うことと、イエス様に従うことを日々選び取ることが大切です。
それでは、今回の24節から28節に聴いて行きましょう。まず24節に「ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた」とあります。群衆は、イエス様が宣教活動を始める前の段階で、バプテスマのヨハネがいた荒れ野へ行っていたことが分かる箇所です。イエス様と出会う前、彼らは救いを求めて、バプテスマのヨハネを探しに荒れ野へと出て行って、救いを求めていたということになると思います。群衆の行動の理由は、イエス様が宣教を開始されるまで、ヨハネの言葉に群衆を引きつける力と悔い改めされる力があったからです。ヨハネも群衆に悔い改めを迫っていました。
イエス様は、ヨハネを追いかけて荒れ野へ行っていた群衆に対して、3回(24、25、26節)、「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」と尋ねられます。「何を見に行ったのか」というのは、「何を求めて、何を期待して行ったのか」ということです。イエス様は、この基本的な問いかけに追加する形で、「あなたがたが荒れ野に見に行ったのは、風にそよぐ葦か。しなやかな服を着た人か。預言者か」と尋ねます。これらは、わたしたちが常に心の中に抱く「理想」であったり、「願望」です。
群衆は、バプテスマのヨハネに大きな期待を寄せ、救いを求めていたようです。「葦」は当時の生活を快適にしてくれる素材、加工して様々なことに使用できる優れ物でした。いつの時代も、人々は「しなやかな服を着た人」に憧れます。そして自分たちに生きる方向性を示してくれる「預言者、神の言葉を語る者」をいつの時代も求めます。しかし、イエス様は、バプテスマのヨハネがしなやかな服を着たヘロデに捕らえられ、不自由さの只中に生きていることを知っておられます。群衆も、噂は聞いていたでしょう。ですから、群衆はイエス様を追いかけるようになったとも言えます。群衆は、ヨハネのことを期待外れだと思っていたでしょうか。そうかもしれません。
しかし、イエス様は、バプテスマのヨハネのことを「あなたがたに言っておく。ヨハネは預言者以上の者である」と言われます。27節と28節に「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、 あなたの前に道を準備させよう』 と書いてあるのは、この人のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」というイエス様の言葉があります。
ここでイエス様が引用されている旧約聖書の言葉は、マラキ書3章1節(p 1499)の「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」との言葉と出エジプト記23章20節(p133)の「見よ、わたしはあなたの前に遣いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる」との言葉を混合したものです。出エジプト記の「わたし」とは、神様のことです。神様がイスラエルを約束の地へと導くために使者を遣わすという約束の言葉です。マラキ書は、それを受けて、終末に預言者エリヤのような使者を派遣すると約束します。「あなたより先に」の「あなた」とはメシア・救い主イエス・キリストとなり、「使者」はヨハネになります。
さて、イエス様は、ヨハネのことを「預言者以上の者」、「女から生まれた者のうち、ヨハネよりも偉大な者はいない」と言われます。理由は、ヨハネが救い主イエス様が来られる直前に信仰への道を備える先駆者となったからです。預言者は、神様から預かった約束の言葉を語る役割の人々、旧約の時代の人々でしたが、バプテスマのヨハネは救い主は来たと最初に認めた人で、旧約と新約の時代の架け橋となる働きを担った人でした。
ある注解書には、「救いを預言した時代よりも、その実現の時代の方がより優れたものであるということ」とありました。つまり、救いが来ると約束した時代よりも、救いが来たと宣言する時代の方が幸いであるということでしょう。ですから、ひたすら自分の理想にかなった救い主を待ち望むよりも、すでに神様から遣わされた神の御子イエス・キリストを救い主、罪の贖い主として信じる者の方が幸いであるということをイエス様は群衆に対しておっしゃっていて、救いへと招いておられるのだと理解できます。
さて、28節の最後の部分です。「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼(バプテスマのヨハネ)よりは偉大である」とあります。これはどういうことでしょうか。とても難解な言葉です。ここで注意すべき点は、「神の国」という言葉で、わたしたちはすぐに「天国」を想像してしまいます。しかし、ここでイエス様がおっしゃる「神の国」とはイエス様が共におられる世を指します。つまり、イエス様が近くにいて、イエス様から御言葉を聞くことで神の愛と憐れみを信じることができる幸い。その偉大な幸いに日々感謝し、喜び、その恵みに応答してゆく人が、真に幸いな人であるということだと思います。