ルカによる福音書8章1〜3節
ルカによる福音書の学びもいよいよ8章に入ります。最初の7章を学ぶのに10ヶ月必要でしたので、24章あるルカ福音書の学びを終えるまで、やはり、あと2年半ぐらいは必要のようです。焦らずに、腰を据えて、ゆっくり聴いてゆきたいと思います。
さて、4章の14節からガリラヤ地方での宣教を始められたイエス様でしたが、このガリラヤでの宣教は9章50節まで続きます。そして9章51節からはエルサレムへ向かって行く旅の中で宣教してゆくことが記されてゆきます。つまり4章14節から9章50節は、イエス様の宣教活動の第一ステージであるということで、9章51節以降は第二ステージです。
バプテスマのヨハネの宣教テーマは、「悔い改めて神に立ち返りなさい」というものでしたが、イエス様の宣教テーマは、確かに悔い改めることも重要ですが、「神の国」についての宣教でありました。この「神の国とは何ぞや」ということに関しては次回から聴いて行くことになりますので、今回はお話ししませんが、第一ステージ中で特記すべきことを挙げるとすれば、確かにイエス様の「権威ある言葉」とか、「神様の憐れみ」とかもありますが、イエス様自らが弟子たちを選ばれたということだと思います。
最近、SIという人気落語家の落語を聞くことが増えているのですが、彼には弟子が4人います。この弟子たちは、I師匠の落語に惚れ込んで、師匠のところへ足繁く何度も通って、「師匠、ぜひ弟子にしてください」と頼んで、それが師匠に許されて弟子とされて行くわけです。「自分の師匠はこの方!」と決めて、「弟子にしてください!」と師匠に頼み込む、これが本来の「弟子入り」の形です。
しかし、イエス様の場合は違います。イエス様の方から弟子たちを選ぶわけです。イエス様は、ヨハネ福音書15章16節で、弟子たちに対して、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」するためと言われました。ここで、なぜ弟子をイエス様が選ばれたのかという理由を明確に言っておられます。「あなたがたが福音を携えて出かけて行って、人々が神様の愛を受け取って喜びと平安と希望に満たされる、「信仰という実」を結び、その実がいつまでも残るため」と言っています。
イエス様の地上での働きの一つに、弟子たちを選んで、この弟子たちをしっかり整えてゆき、彼らを四方八方へ派遣して行くということがありました。今回の8章1節に、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」とあります。イエス様のガリラヤの町や村を巡る宣教旅行というのは、イエス様が弟子たちを訓練するための期間であったということが分かると思います。
さて、今回の8章1節から3節の箇所というのは、前回の7章36節から50節のイエス様が罪深い女性の罪を赦すと宣言されたところから継続されているということが一つのポイントになります。「罪深い女性」の罪が赦された要因は何であったでしょうか。もちろん、第一義的に神様の憐れみですが、50節で、イエス様は女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。つまり、神様の憐れみを信じる「信仰」が要因でありました。今回の箇所にも、この「信仰」というテーマが取り上げられ、信仰という神様への恵みの応答の大切さが記されています。
さて2節と3節前半を読みますと、イエス様の巡回宣教旅行の一団に、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった」と記録されています。イエス様の弟子は、男性だけではありません。女性も大勢いて、彼女たちはその一団の縁の下の力持ち的な重要な働きを担っていたということが分かるのです。この女性たちは、のちに、イエス様のご復活の証人となる非常に重要な人たちです。
当時のユダヤ社会は、完全な男性優位の社会でしたが、イエス様の宣べ伝える「神の国」とは、男女も年齢も不問、強い人・健康な人、弱い人・病を担う人、神様の愛と救いを求める者たちを神様は平等に招かれて、永遠に生かす、時と空間、物質的なものすべてを超越したところ、神様の只中にあることを示します。しかし、その神の国、神の愛の只中に入れられるために唯一必要なのは、「信仰」であるとイエス様は教えられます。なぜ信仰だけなのか。信仰は神様から与えられる恵みで、誰も自分自身を誇らないためです。
さて、この縁の下の力持ちの働きを担った女性たちとは、どういう人たちであったでしょうか。ごく普通の女性たちもいれば、イエス様に悪霊を追い出してもらって救われた女性たち、病気をイエス様にいやしてもらって救われた女性たちもいました。夫に先立たれた女性や家族を救ってもらった女性たちもいたと思われます。
マグダラの女と呼ばれたマリアという女性は、1つどころか7つの悪霊を追い出してもらった人でした。「悪霊」と聞くと薄気味悪い印象を持たれるでしょうが、この言葉は人間にはどうすることもできない力、神様の力でない別の力を表す言葉です。この力は、がんじがらめにする力であって、神様の力のように、すべてのものから解放し、自由にする力ではありません。
さて、話をもとに戻しますが、マグダラのマリアは悪霊を追い出して救われた女性でしたが、次に「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」と「スサンナ」いう女性の名前が記録されています。スサンナは、この箇所にしか出てない名前ですが、ヨハナはイエス様のご復活の証人の一人です。このヨハナは「ヘロデの家令クザの妻」とあります。夫は領主ヘロデに仕える人、つまり社会的地位や富をある程度持っていた人の妻であったということです。
ルカは、ここで何を示したいのでしょうか。それは、イエス様を信じて仕える人たちの間に、社会的な地位とか富とか、そのような上下関係は存在しないということです。神の国も同じです。一人一人が、神様から与えられた信仰をもって主イエス様に心から仕える。それが最も重要であることを伝えたいのだと思います。富んでいるから仕えられる。貧しいから仕えることができないという考えはそもそもおかしいことで、イエス・キリストを通して神様に愛され、罪赦され、恵みの中を生かされているということを喜び、感謝すること、それが神様に仕える原動力であることを伝えたいのだと思います。
さて、3節後半に、「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とあります。ここからいくつかの事を学ぶことができます。まず、「一行」という言葉ですが、女性たちはイエス様にだけ仕えていた訳ではありません。イエス様とその弟子たちのために大切な働きを担っていたということです。イエス様に仕えるということは、イエス様に仕える働き人たちに仕えるということでもあります。
次に「奉仕していた」というギリシャ語は、「もてなす」(ルカ10:40)という意味もあります。彼女たちは心を配って奉仕していたということに注目しましょう。イエス様が宣教をし、弟子たちを訓練するために必要なサポート、そして弟子たちがしっかり訓練を受けられるようにサポートしていたということ、そういう面には決して出ない地味な働きがあって宣教は前進して行ったということを覚えたいと思います。面に立つ人も大切です。しかし、その背後で支える忠実な働き人たちの存在をルカはしっかりと記録しています。
最後に、「自分の持ち物を出し合って」、奉仕していたことに注目したいと思います。どうでしょうか。「自分の持ち物」、皆さんもそれぞれお持ちであると思います。それらをまず家族のために用いたいと思うのが親心、子心だと思います。しかし、この女性たちは、本来は年老いた親や子どもたち、それ以外の家族たちのために用いる物を出し合って、提供して、イエス様たちに仕えたのです。これに対して様々な意見が噴出すると思います。父母や子たち、配偶者を蔑ろにするのかということを投げかけられます。確かにそうです。しかし、イエス様はこのことに関して何と言っておられるかが重要になります。
例えば、ルカ福音書8章19節から21節にイエス様の家族とは、肉親ではなく、「神の言葉を聞いて行う人たち」であると言っておられます。また14章33節では「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」とあります。18章29節ではペトロに対して、「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」とおっしゃっています。
とても厳しく、自分には従えないと思えるような言葉です。しかし、パウロとシラスは使徒言行録16章31節で、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と救いを求める人を励まします。イエス様がおっしゃりたいことは、神様を第一にしなさい。わたしを救い主として信じなさい。信仰を神様からいただきなさい。神様を第一とする者を神様は祝福してくださり、あなたも、あなたの家族も、その信仰によって救われ、祝福されるからといって、救いに至る道には順番があることを教えてくださいます。
ここに記されている女性たちは、イエス様によって病や悪霊や様々な苦しみから解放されて救いを受けた女性たちです。彼女たちは、救われたという喜び、感謝の気持ち、信仰が原動力となって、それぞれの持ち物を持ち寄って主イエス様に仕えるという自発的で積極的な行動になりました。イエス様に仕えることを彼女たちは心から喜んだのです。キリスト教会は、献金しないとあなたと家族は救われないと恐怖を煽る偽りの宗教団体ではなく、神様の愛を伝え、その愛を共に分かち合い、互いに仕え合う神の家族なのです。