ルカ(44) 病と死を支配する力を持たれるイエス

ルカによる福音書8章40〜56節

今回は、ルカによる福音書8章後半の部分に聴いていますが、8章全体はイエス様が「神の国」について宣教されたことが強調されています。1節に「イエスは、神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」とあります。弟子たちが一緒であったとあります。

 

ここで「神の国」とは何ぞやという問いが出てくると思いますが、ここで言う「神の国」とは「神の支配」という意味です。例えば、「神の国に生きる」とは、「神のご支配の中に生かされる」ということになります。ですので、神という存在、神のご支配があること、神の恵みの中に生かされていることを信じる「信仰」をいただいている幸いが「神の国に生きる、生かされる」ということに直結していると言えます。

 

過去2回にわたり、そして今回の8章22節から56節には、イエス・キリストの言葉と行いには「力」あるという共通するテーマがあります。もう一つ加えて言うならば、イエス様の存在自体が、人々の只中へ来てくださり、共に生きてくださること自体が「神のご支配」であり、「神の国」が来たということになり、そこに救いがある、信じなさいという招きになってゆきます。今回の40節から56節には、病と死の力に対するイエス様のご支配、力が記されていて、わたしたちは、「あなたにとって、このイエスはどういうお方であるのか」という信仰の問いかけがされていますので、ご一緒に聴いてゆきましょう。

 

さて、イエス様とその一行は、ガリラヤ湖の向こう側・異邦人の人々が生きるガラサ地方での宣教からユダヤの人々のもとへ戻ってきましたが、イエス様の帰りを待ち望んでいた群衆は大喜びで迎えたと40節にあります。群衆は、イエス様に何を望み、期待していたのでしょうか。その群衆を代表するかのように、二人の人物が信仰をもってイエス様に近づいてきます。一人はイエス様の前から、もう一人はイエス様の後ろから近づきます。

 

一人の人は、ユダヤ教徒たちが神様に礼拝をささげる会堂の責任者・社会的地位と影響力を持つヤイロ、もう一人は、出血の病気をすでに12年間も患い、ユダヤ社会とユダヤ教から「汚れている」と言われて、つまはじきにされていた名前も記されていない女性です。この二人は極めて対照的です。一人は、会堂で神に仕える、いわゆる「清い男性」、もう一人は会堂に近づくことすらできない、いわゆる「汚れた女性」です。確かに二人は対照的ですが、二人とも、大きな苦しみを抱えていました。そしてイエス様に対する確かな信仰・信頼を抱いていました。この箇所で重要なのは、苦しみの極限にあっても、イエス様に対する信仰心を持ち、主イエス様に信頼して前進してゆくということです。

 

まず41節から42節の前半まで読みます。イエス様の所へ「ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。」とあります。ユダヤ教のシナゴーグという会堂・集会場の長、地位と人々から一目されていた人がイエス様の足もとにひれ伏し、渾身の思いでイエス様に「わたしの家に来てくださり、死にかけている12歳の一人娘を助けてください」と願い出るのです。周囲にいる人々は驚いたことでしょう。しかし、群衆の目を気にしている暇などヤイロにはありません。最愛の娘が生きるか死ぬかの瀬戸際です。イエス様に信頼するしか彼には方法が見つかりません。

 

ユダヤ社会では、少年は13歳になった時に成人します。「バルミツバー」と言います。この年齢になると「モーセ五書」であるトーラーや「預言書」と呼ばれるハフトーラーの一部をスラスラと読めなければなりません。少女の場合、「バトミツバー」と言って、12歳で成人します。少女から女性になった人は、結婚適齢期に達します。ですから、一人娘で、結婚適齢期に入った若い娘が瀕死の状態にあることは親には耐えられない事です。

 

ヤイロの家に行くことに同意されたイエス様はヤイロと共に家に向かおうとしますが、「そこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た」とあります。ヤイロはヤキモキしたことでしょう。しかし、彼の信仰がさらに試されることが起こります。それが43節から48節に記されている出血の病気を12年間も患い続けて苦しんでいる女性の出現です。43節に「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた」とあります。民数記5章1節〜4節には、思い皮膚病や血に関わる病を持つ者、死体に触れた者は汚れた者として町の外に出しなさいという律法が記されていて、この女性もその一人であったと考えられます。人の前に出てきてはならない存在で、命を失うリスクを負って、覚悟してイエス様に近づいたと考えます。

 

44節に「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」とあります。「後ろから」という言葉に、彼女の12年間の苦しみが表れていると思います。また、「服の房」という言葉がありますが、このことに関して民数記15章38節と39節を読みますと、主なる神はモーセにこう命じます。「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである」とあります。ユダヤ人男性の服の房にはそういう意味があります。

 

さて、このイエス様の服の房に触れて一瞬の癒しと救いを経験し、その事実を知っていたのは自分だけとこの女性は思ったでしょう。しかし、イエス様も気づかれました。「イエスは、『わたしに触れたのはだれか』と言われた」と45節前半にありますが、その後半に、「人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、『先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです』と言った。しかし、イエスは、『だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた」とあります。

 

イエス様は、なぜこのように「わたしに触れたのはだれか」、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われたのでしょうか。理由は二つあると考えられますが、一つ目の理由は47節に記されています。つまり、イエス様は、主に触れて即時に癒やされ、救われた女性に「信仰告白」のチャンスを与えたのだと思います。ある牧師は、彼女に「けじめを付けさせた」と言いました。どういう意味でしょう。

 

「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」とあります。「震えながら」とは、汚れた者がそこにいると群衆が分かること、それによって処罰があるということを恐れたという震えではなく、「一瞬にして癒やされた!」という心と身体が経験した救いの大きさ、喜びと感動の大きさから来る「震え」であったのではないかと思います。

 

しかし、イエス様の前に進み出て癒やされ、救われた体験を包み隠さずに言うことが、イエス様が望まれた彼女の信仰告白であったと思います。イエス様が自分に何をしてくださったかという救いの力、救いのみ業、自分は救われたと公表することが、イエス様が彼女に望まれたことであり、わたしたちにも望まれることです。もし彼女が自分に起こった奇跡と救いを言い表さないでそのまま帰ってしまったら、彼女の信仰は時が経つと共に徐々に無くなってしまったかもしれません。救われた喜びと感謝を証しすることは力です。

 

もう一つの理由は、48節にあります。「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」とあります。イエス様は、彼女を自分の家へ、社会の中に戻すために、救いを宣言するために、彼女が自らの意思で進み出てくるように促されたのです。それがないと、彼女が清くなったことを群衆に認められ、社会復帰することができなかったからです。イエス様は、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と彼女に宣言します。「イエス様にわたしを癒し、清める力がある」と信じて、勇気を振り絞ってイエス様に触れた彼女の信仰とその信仰から来る行動が彼女をイエス様に結びつける祝福につながり、社会へ戻されることになっていったのです。

 

さて、ヤイロはこの間中、気が気でなかったでしょう。そのような中、彼のもとに最悪のニュースが届けられます。49節です。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。』」とあります。ヤイロはそれを聞いて絶望し、大きな悲しみが彼に襲いかかってきたことでしょう。しかし、この箇所で重要なのは、イエス様がヤイロに言われた50節の言葉です。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」

 

「恐れることはない。ただ信じなさい」とのイエス様の言葉。「恐れることはない」とは、娘を失う恐れ、痛みや悲しみに対する恐れに対しての言葉です。主イエス様は、「ただ信じなさい」と言われます。「わたしを信じなさい。信仰をもってわたしの所に来たその信仰をそのまま持ち続けなさい、信頼し続けなさい」という励ましの言葉です。

 

51節の「イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった」とは、娘の部屋に入る人を限られたということです。部屋の外にいる人々は、若い娘さんが亡くなったことを悼み、泣き悲しんでいたのですが、その人々に対して、部屋に入る前のイエス様は「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」と言われますが、「人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った」と53節にあります。「あざ笑った」とは不信仰の表れです。「泣くな」というイエス様の言葉は、彼らへの同情の言葉ではなく、「死んだらすべて終わり」という絶望を抱くことへの叱責の言葉です。人々は目の前に神のご支配があること、神の国が近くにあることに目を向けず、神様に信頼することをしないで泣いていたのです。イエス様を救い主と信じないで、神様のご支配を求めない人は、残念ながら、絶望するしか方法はないのですが、イエス様を救い主と信じる者だけが、死に勝利する力を体験し、復活を経験し、死の先にある「永遠の生命」を喜ぶことができるのです。信仰なくして、救いはないのです。

 

54節と55節に「イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた」とあります。イエス様は娘に触れます。先ほどの女性がイエス様に触れることで癒やされたように、イエス様がこの娘に触れ、「起きなさい」と声をかけられたら、娘はイエス様の言葉と行動によって霊が戻り、すぐに起き上がります。そして「食べ物を与えなさい」と言われる。娘が息を吹き返した事実の確認をさせます。

 

「娘の両親は非常に驚いた」と56節にあります。絶望から救い出され、彼らに希望が与えられ、娘が救われただけでなく、自分たちも救いの経験をしたので、神様の憐れみに驚くのです。しかし、彼らの信仰が神様の憐れみとイエス様の愛を実際に経験する恵みへとつながり、主に結び合わされる恵みを受けることへとつながって行ったのです。イエス様はこの両親に「この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった」のですが、それは不可能なことではないでしょうか。部屋の外では、神様の愛と憐れみを必要としている大勢の人々が嘆き悲しんでいるのです。信仰のない人には神様の愛、イエス様の力を理解することはできません。しかし、信じたいと信仰を求めている人に伝えてゆくことは大切なことであると信じます。イエス様を信じる者は、神様の愛の中で救われるのです。