ルカ(45) 弟子を派遣するイエスと戸惑うヘロデ

ルカによる福音書9章1〜9節

今回から、ルカによる福音書の学びも9章に入りますが、その前に重要なことが8章にありますので、そちらについてまずお話しさせていただこうと思います。

 

8章1節に「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」とあります。イエス様は「神の国」について、その良き知らせ・福音を告げ知らせるために町々、村々を巡られたことが8章に記されている訳ですが、この「神の国の福音」は誰に届けられ、誰がこの福音の力によって救われていったのか、この神の国に属する者とは誰なのかということ、そして神の国に人々を入れる権威と力を持たれるのはイエスであることが記されています。神の国に招かれ、そこに属することができるのは、血筋によらず、伝統によらず、イエス様を救い主と信じ、この主イエス様の言葉を素直に聞いて、従順に行う信仰を持つ人であるということが記されていました。

 

イエス・キリストには、風や波という自然を治め、悪霊を支配し、病をいやし、死をも支配される権威と力があることが8章で伝えられてきましたが、8章で最も重要なのは、この権威と力を持つイエス・キリストを「信じる」ということに尽きると思います。目の前に立ちはだかる自然の力、悪霊の力、病や死の力に恐れおののくのではなく、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、救われる」という主イエス様の言葉と救いへの招き、信仰への招きに応えることが重要であって、この信仰を神様から頂くことによって、徐々にイエス様という救い主が分かってくると言いましょうか、イエス様を「あなたは私の主、神様から遣わされた救い主です」と告白することができるように神様がしてくださる、その約束があるのだと思います。

 

それでは、9章に入ってゆきたいと思いますが、この9章全体には「イエス様と弟子たち」という大きなテーマがあります。イエス様の宣教、神の国の福音は日々拡大してゆきます。また、人々のニーズ、救いを必要としている人々に出会ってゆく必要性が日に日に拡大しています。生身の肉体を持つイエス様お一人で働かれるには限界が出てきました。さらに福音宣教を拡大させるために、イエス様はこの9章から十二人の弟子たちを町々へ、村々へと派遣し、神の国の福音を宣べ伝えさせ始めます。

 

その最初の派遣が1節から6節に記されています。1節に、「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」とあります。イエス様は十二人の弟子たちを信頼し、宣教の働きを委託し、宣教が滞りなくできるように力と権能をお授けになります。もう一度言います。イエス様は十二人の弟子たちを信頼し、派遣する前に力と権能を授けるのです。

 

このイエス様の信頼に応え、宣教の働きを全うするために必要なのが「信仰」であり、「主イエス様の力と権威に服従する」という事です。これは、弟子だけでなく、今日を恵みのうちに生かされているわたしたちに言われている事です。イエス様に信頼され、宣教の働きが委託され、その働きを担うために必要な力が主イエス様から与えられている。

 

ルカは、イエス様は「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」を弟子たちに授けたと記します。悪霊に打ち勝つことと病気をいやすことがセットになっています。つまり、神の国の宣教は、病人をいやす行いと切り離せないという事です。これは、「神の国」、つまり神のご支配という概念には、弱者への救いということがあるという事です。

 

世の中では、社会的弱者(貧しい人々、配偶者に先立たれた人、身寄りのない子ども)、宗教的弱者(病いを汚れと捉えられて排除された人々など)が生活の片隅に追いやられて小さくされています。そのような人々に寄り添い、神の国の福音を宣べ伝えてゆくことが重要であるという事です。そのような働きがイエス様から委託され、それを忠実に行う力が主から弟子たちに与えられていることを「権能」という言葉で表します。

 

イエス様はそのような働きと力を弟子たちに授けますが、弟子たちに必要なのはイエス様への「信頼・信仰」です。悪霊に打ち勝つためにも、病気を癒すためにも、信仰がないと何もできないからです。わたしたち各自が、神様に愛されている、イエス様を通して信仰が与えられ、担うべき働きが委ねられているという恵みを喜び、感謝して生きること、主イエス様に信頼されていることを喜び、それを力としてゆくことが大切だと示されます。

 

さて、イエス様を信頼し、主と人々に仕えてゆく訓練を弟子たちは受けてゆきますが、その訓練が3節から6節にある「派遣」です。この時にイエス様から3つの指示が出されます。3節から5節を読みましょう。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」とあります。

 

イエス様からの3つの指示とは、1)「旅には何も持って行ってはならない」、2)「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」、そして3)「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」というものです。

 

まず3節。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」という、とても極端な指示です。マルコ福音書では、「杖一本のほかに何も持たず」とありますが、ルカは「杖一本も持ってはならない」とイエス様は言ったと記録します。「杖一本か。あるいは無しか」という論議は重要ではありません。また、パンを持たずに出て行ったら飢えるではないかという考えも、下着を持っていなければ身だしなみが悪いと言われるではないかと心配する必要もない。

 

大切なのは、弟子たち自らが神様にだけ信頼し、すべては神様が備えてくださると信じてゆく重要性がここに記されています。その理由は、何も持っていない、あるいは必要最低限の物しか持っていない社会的・宗教的弱者に寄り添い、そのような人々に仕え、神の国の福音を分かち合うためです。そのために弟子たちも手に何も持たないで出てゆくことが指示されるのです。主なる神様にだけに信頼するという事が重要なのです。

 

次に4節です。「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」とあります。皆さんはどうか分かりませんが、大部分の人は、どこかに行ったら手厚くもてなされたいと思うわけです。しかし、人々に仕えるために派遣されているのに、歓待を受けて、人々に仕えさせてしまっては本末転倒です。より良い歓待を得られる家を求めて、家から家に移動してはならないという事です。

 

5節には、「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」とのイエス様の言葉があります。イエス様は、ここで弟子たちが拒絶される、福音が拒否されて受け入れない場合があるという厳しい現実を知っておきなさいと警告されます。イエス様が拒否されたように、弟子たちも同じ扱いを受ける、それは避けて通れないことなのです。

 

「その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」というのは、「元来ユダヤ人が異邦人の地方を去るときに、『異邦人の汚れ』を払い落とし、自分たちと異邦人とは何の関係もないという断絶を示す行為であった」と注解書にありました。しかし、イエス様がここで弟子たちに指示しているのは、福音を拒否する人たちは救いを受けるチャンスを失うことになるという警告でもあります。

 

このような力と指示をイエス様から受けた後、「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」のです。そこには弟子たちへのイエス様の信頼と弟子たちのイエス様への信仰があり、そこに一致がある時に、弟子たちが赴く所々で福音を告げ知らされ、病気をいやしがあったのです。興味深いのは、10節には「使徒たちは帰って来て」とあり、弟子たちは使徒と呼ばれている点です。イエス様を信じ、主の言葉に従って派遣され、主と人々に仕える忠実な者は「主の使徒」と呼ばれます。

 

さて、イエス様はわたしたちにも弟子たちと同じ働きを委ねておられます。そこに主の信頼があります。この福音宣教という業に励む教会となってゆくために、共に主の言葉に聴き、共に従い、祈りによって一致し、神様からイエス様を通して愛と憐れみを受けて、愛を身に着けて歩んでゆきましょう。愛はすべてを完成させるからです。

 

さて、7節から9節には領主ヘロデのことが記されています。このような位置になぜヘロデが出てくるのでしょうか。それはヘロデのような権力者が人々の噂を聞いて戸惑い、不安を抱いて生きていたからです。人々から聞こえてくるイエス様に関する噂は、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」とか、「エリヤが現れたのだ」とか、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」というものでした。しかし、ヘロデには一つだけ揺るがない確信がありました。それは「ヨハネなら、わたしが首をはねた」という確信です。

 

イエス様の噂をヘロデが耳にするということは、ヘロデが実質支配している地方全体にもこの不都合な噂が広がっているということであり、イエス様の影響力を強く感じ、恐れと不安を抱くことです。ヘロデは「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」と不安を表します。「そして、イエスに会ってみたいと思った」とも記されています。

 

実際に、ヘロデは後にイエス様に会うことができます。ピラトの裁判の後、イエス様がヘロデのもとへ送られるからです。しかし、イエス様はその時、ヘロデに対して無言を貫かれます。つまり、「この者は何者だろう」という興味本位だけでは、イエス様がキリストであり、メシア・救い主であることは分からないのです。主イエス様を救い主と信じる時に、主がわたしたちの心から不安を取り去ってくださり、主を救い主と告白する力が与えられるのです。