神の愛を身に着けよう

「神の愛を身に着けよう」 四月第四主日礼拝 宣教 2023年4月23日

 コロサイの信徒への手紙 3章12〜17節     牧師 河野信一郎

 礼拝堂におられる皆さん、そしてオンラインで礼拝を共にされている皆さん、おはようございます。今朝も皆さんと共に賛美と礼拝をおささげすることができて心から感謝です。先週は、肌寒い日と真夏のような日が交互に来て、体調管理が難しかったのではないでしょうか。そう云うわたしも、金曜日に体調を崩し始め、最悪の場合、日曜日に宣教できなくなるかもしれないと云う思いが頭をよぎりました。しかし、憐れみの主は、祈りに応えて下さり、土曜日の朝から徐々に回復を与えて下さいました。今朝このようにして皆さんの前に立つ事が出来ています。神様の憐れみと皆さんのお祈りに心から感謝いたします。

 さて、皆さんの前では笑顔を絶やさないように心がけてはいますが、わたしも人間です。正直申しまして、ここ数ヶ月間、わたしは心にストレスを抱える事が連続して起こりました。ストレスの原因は、教会のことだけではなく、健康のこと、家族のこと、連盟のこと、連合のことなど多種多様です。皆さんの生活にも様々な心配事、ストレスがあると思います。

 今まで、何か大きい課題が一つ押し迫っても、あまりストレスなく対応できていましたが、ここ最近は、小さな課題が一度にたくさん押し寄せて来ると、それらを余裕をもって的確に処理できなくなってきました。すぐにイラッとしたり、物事を悲観したり、忍耐することが難しくなってきました。以前は、一晩寝て、翌朝にはリセットできるような性格でしたが、ここ最近は様々なことにストレスを感じるようになり、不安を抱えるようになりました。

 時同じくして、新年度が今月から始まりました。皆さんの生活においても、多少なりとも日常生活に変化があり、ストレスを感じる事がないでしょうか。大久保教会の2023年度の年間標語は、「神の愛を身に着けよう」です。年間聖句は、コロサイの信徒への手紙3章14節が与えられました。「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」という言葉です。今朝のメッセージのタイトルと聖書箇所は、今年度の年間聖句と標語です。

 昨年の終わり頃から、大久保教会の皆さんのこと、オンラインで礼拝をささげておられる皆さんのこと、大久保教会に関わりのある方々のことを覚えながら、新年度の歩みに相応しい御言葉と標語を求めて祈り続けました。どのような歩みを神様はわたしたちに歩ませてくださるだろうかと期待を膨らませながら、一年の指針となる御言葉を祈り求めたのです。

 過ぎ去った一年を振り返ることは実に容易い事です。しかし、皆さんもご承知のように、未来を見通すのはとても難しいことです。どのような一年になるのか、明日の我が身も分からない状態です。しかし、わたしには確信があります。たとえわたしが明日いなくなったとしても、この大久保教会を神様は必ず守ってくださり、その恵みのうちに教会は立ち続けさせてくださる。神様を礼拝することを喜びとし、キリストの福音を発信し続けるこの信仰共同体を神様は祝福し続けてくださる。わたしは、そのように確信しています。

 何故そのような確信を持つことができるのかと云うと、この教会が過去に何度も大きな試練に直面した時も、礼拝出席者が著しく激減した時も、教会の財政が赤字続きでいた期間も、神様はこの教会を守り続けてくださったことを体験しているからです。神様と主イエス様を愛し、この教会を愛し、この教会で主と隣人に仕えてゆくことを選びとり、この教会から離れないで、教会のために主の祝福を祈り続け、共に歩んでくださった方々がおられたし、今も支え続けてくださっています。58年に亘る教会の歴史の中で、その都度、神様は予想を遥かに超えた強力な助け手をいつも備えて送ってくださいました。主は生きておられます。

 しかし、不信仰からでは決してありませんが、今月からスタートした新年度は、今までにないようなチャレンジがあるだろうと感じました。予測可能な事もあれば、予測できない事もあります。そういう事に備えていく年が今年度なのだろうとわたしは感じました。そういう中でわたしたち一人ひとりにさらに必要なのは、神様の愛だと感じました。わたしたちに愛が足りないと言っているのではありません。神様から日毎に頂戴している愛の上に、さらなる愛を求めてゆく必要がわたしたちにはあると感じ、それを教会の年間標語としました。

 今年度の前半には、大久保教会を長年支えてくださった方々が韓国やアメリカに帰国されます。これまで祈りを通して教会を支えてくださった方、奏楽や配信や夕礼拝のメッセージなど主要な働きを担ってくださった方々を送り出します。また、石垣副牧師の任期もあと一年ですので、石垣先生がこれまで担ってきてくださった役割をわたしたちで分散して共に担ってゆく備えが必要となります。まだ一年の猶予はありますが、一年などあっという間です。

 ある方は今まで月に一度担ってきた奉仕が二度になったり、ある方は新しい奉仕にチャレンジすることになったり、ある方はもっと祈りに専念することになるでしょう。今まで成してきたことを断念しなければならなくなるかも知れません。集会出席者数も、献金額も、教会の勢いもある程度減少するでしょう。しかし、そういう予測可能な事柄よりも、予想しなかった事や細々とした課題が3月4月と不思議なほどまでに続発しています。先週の月曜日には、長年使用してきた印刷機が寿命を迎えたと修理に来てくれた業者から言われました。おそらく、そのような予期しないことが、これから先も色々と起こって来ると思いますが、どうでしょう。ここまでのわたしの話を聞いて、居心地が悪くなって、来週から大久保教会の礼拝へ来るのをやめようと思われる方も、もしかしたらおられるかもしれません。

 しかし、憐れみの神様は確かに生きて、常に配慮をもって働いておられます。わたしたちが悲観的になったり、絶望的と思える中でも、万事を益としてくださるのが神なのです。ピンチはチャンスとよく聞きますが、信仰のピンチは、信仰が成長するチャンスです。多少のストレスがなくては、わたしたちの信仰は成長しないのです。そのようなストレスと思える中でも、わたしたちに何より大切なのは、主なる神様と救い主イエス様を常に見上げて、この主から目を離さないということです。先日、うつむき加減なわたしに、神様は憐れみを与えてくださり、主を常に見上げ、主に信頼して生きることの大切さを教えてくださいました。

 わたしの日課の一つに教会前を掃くということがあります。落ち葉やタバコの吸い殻を集めて捨てるのですが、下ばかりながめて落ち葉を集めていたら、小さな白い花びらが落ちていることに気付きました。そうして何気なく上を見上げると、みかんの木にたくさんの白い花が咲いていました。可愛い小さな蕾がたくさんありました。昨年は、まったく花が付きませんでした。しかし、今年は驚くほどたくさん花が咲いています。つまり、実を結ぶチャンスがたくさんあるということです。大きな希望を神様からいただきました。

 この礼拝の後、教会を後にする時にみかんの木を見上げて観察してみてください。他にも、可愛いスズランが咲いています。紫陽花やミニバラも蕾をたくさん付けはじめています。日々の思い悩みや苦しいことで頭が垂れ、下を向いて歩んでばかりいるわたしたちの視線の先に、神様は恵みのひとかけらを用意してくださり、それを通して主を見上げて生きる恵みを与えてくださり、主なる神を見上げて歩むように励ましを与え続けてくださるのです。

 わたしたちの心が不安やストレスでいっぱいになると、心はどのような状態に陥ってしまうでしょうか。心が硬くなり、柔軟性がなくなります。自分のことばかりで、他の人のことを思いやれなくなったり、いつもイラついたり、マイナス思考になり、情緒不安定になります。そのような心になったら、わたしたちはどうしたら良いのでしょうか。いえ、そのような状態になったらまともな思考能力を失いますから、そのような状態になる前に対処法を見出しておく必要があります。祈りを通して、聖書を読むことを通して、礼拝をささげることを通して、主なる神様と救い主イエス・キリストを見上げるのです。「平安を得よ」と招いてくださる復活の主イエス・キリストに信頼して歩むしか、他に方法はないのです。

 このイエス・キリストに目を注ぐと、わたしたちの心にどのようなことが起こるでしょうか。イエス・キリストを通して信仰が与えられ、わたしたちはイエス様の十字架の死によって罪赦され、信仰によって義とされ、神の子とされ、神様に愛されている存在であることを体験することができるのです。この救いの体験を通して、心が不安やストレスから解放され、心が柔らかくなり、柔軟性を持つことができるようになります。

 コロサイの信徒への手紙3章12節に「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」とあります。神様の愛に生かされている者として、イエス様を通して恵みを受けている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさいと励まされています。これらは、イエス様を信じる者たちの心に神の霊であるご聖霊が内住して初めて結べる実です。神様の霊とわたしたち一人ひとりの心が信仰によって結合する時に与えられる聖霊の実です。

 わたしたちの日常生活の中で発生するストレスやフラストレーション、怒りや憎しみの原因は、人間関係に結びついています。関係性が良好であればお互いは幸せですが、何らかの理由でその関係性に亀裂が入ると関係性を修復するのは至難の業です。一番簡単な問題の解決方法は、関係性を修復することを諦めて、それぞれ別の道を行くことです。しかし、同じ間違いを繰り返すのがわたしたちの弱さでもあります。前回はうまくいったけれども、今度もうまくいくとは限りません。その傲慢さが関係性の悪化につながります。

 では、ベストな解決方法はないのでしょうか。聖書によれば、解決方法はあります。13節に、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」とあります。「主があなたがたを赦してくださったように」、これが鍵となります。許し合うことにも、イエス様への信仰が必要です。人を完全に許す力は、イエス・キリストを通して受けなければ受けることはできません。イエス様とご聖霊に助けていただかなければ、わたしたちは相手を完全に許すことはできず、つまりわたしたちは人間関係の中で平和に生きることはできないのです。

 わたしたち大久保教会の今年度の歩みは、どのような歩みになるかは、わたしたち一人ひとりがイエス・キリストを見上げて歩み、イエス様の言葉にどれだけ忠実に生き、教会と兄弟姉妹と出会ってゆく人々に対してどれだけ誠実に生きるかにかかっています。わたしたちの罪の贖いのために十字架に死なれ、三日後に勝利をもって復活されたイエス・キリストを信じる信仰と、この救い主につながり続ける事なしに、恐れや不安や怒りといったストレスから解放されて平安と喜びと感謝、希望のうちに生きる事は決してできません。なぜそのように言い切れるのか。イエス・キリストが平安と喜びと感謝と希望の源であるからです。

 14節に「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」とあります。わたしたちが信仰をもって神様に仕え、教会に仕え、真心から人々に仕えてゆく時に、神様の愛の力がわたしたちと共に働いて、すべてのもの、思いや働きを結び合わせ、一つの教会として完成してくださるのです。ですから、将来のことを思い煩ったり、悩んだり、悲観的に見ることは止めて、主に信頼して、共に歩んでまいりましょう。

 15節に「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と励まされています。キリスト・イエスをわたしたちの心の中心に据えてゆくこと、教会の中心に置くことが教会内の平和を保ち、一つの教会とされる唯一の道です。

 使徒パウロは続けて、「いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」とこう励ましてくれています。神様の愛を身に着けると、神様の愛につつみ込まれると、わたしたちの心は言葉では言い表せない平安に満たされ、神様に対する感謝と賛美しか心に湧き上がってきません。この素晴らしい経験をこの2023年度の歩みの中で皆さんと共に体験してゆきたいと心から願いつつ、祝福の源である神様に祈っています。皆さんも共に祈ってください。