神の愛を身に着ける目的

「神の愛を身に着ける目的」 四月第五主日礼拝 宣教 2023年4月30日

 コロサイの信徒への手紙 3章23〜24節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。皆さんのお顔を拝見できて感謝です。皆さんの笑顔、感謝です。ゴールデンウィークの連休に入りましたが、神様は恵みの雨を今朝わたしたちに与えてくださっています。感謝です。教会に来られる時、雨の中の移動は大変であったかもしれませんが、この礼拝堂に集められ、礼拝者とされ、共に礼拝をおささげすることができて感謝です。

 さて、先週は、わたしたち牧師家族がコロナウイルスに感染してしまい、ご心配をおかけしました。お詫びします。日曜日の朝に急遽オンラインでの礼拝に切り替えましたので、連絡が取れずに来会くださった方々には一階ホールで礼拝をさせてしまいました事、ご迷惑とご不便をおかけしましたこと、心からお詫びいたします。申し訳ございませんでした。

 神様の憐れみと癒しの中で、そして皆さんの熱心なお祈りのお陰様で、ウイルスから解放され、皆さんと共に今朝礼拝をおささげできます幸いを神様に感謝いたします。牧師がコロナに感染したという緊急事態下でしたが、そのような日に限って、新しい来会者が来られたことに、神様の御心はどこに?と最初は驚きましたが、その日の聖書箇所から、すべてを主に委ね、すべてを主に感謝すること、忍耐することを聞く事ができて、心から感謝でした。

 2020年1月から3年と4ヶ月でしょうか、よくぞここまで神様は牧師家族を守り導いてくださったと驚き、感謝しています。「この期に及んで感染してしまった」という衝撃と悔しさも確かにありました。しかし、感染しないことを心の奥底で誇っていた自分もいましたので、もっと謙遜になって心から人々に仕えなさいということを神様は教えてくださったのだと思います。この3年と4ヶ月の間、I兄をはじめ、コロナ感染の脅威の最前線に立ち続けてずっと医療に従事されてこられた方々もおられますし、大切な家族やご友人を失った方や、職を失った方もおられますので、軽はずみなことは言うつもりはありませんが、家族で今回コロナに感染して感じたこと、感謝したことを少しだけ分かち合いたいと思います。

 まず何よりも重症化しなかったことが感謝です。そして家族全員がほぼ同時に感染したことも感謝です。感染源が誰かと一人を責める必要もありませんでしたし、誰かを隔離する必要もありませんでした。牧師家族の5人が時期もまばらで個別に感染していたら、礼拝堂での礼拝は相当の期間無理であったことでしょう。みんな一緒で感謝でした。家族は、アルバイトも大学も休み、課題を提出する以外は何もせずにゆっくり過ごすことができました。わたしは、教会の庭の裏側をひとり静かにきれいにすることができて感謝でした。

 この間、妻の職場のパン屋さんから美味しいパンの配達が何度もありましたが、添えられた優しいメッセージを読みますと、妻が職場で地の塩として誠実に働いている証しを知ることができて感謝でした。日曜日の夜には、パイロットの友から、キャプテンの昇格試験に合格したという嬉しい報告があり、感動しました。彼は、わたしよりもずっと若いのですが、律儀に報告のメールと写真を送ってくれましたので、心が喜びで満たされ、返信のメールを書くのに夢中になりました。神様は、本当に素晴らしいと感じ、平安で満たされました。

 さて、先週の礼拝は、誰一人いない空っぽの礼拝堂で、わたし一人だけがカメラに向かってメッセージしました。祈りながら、心を込めて、カメラの向こう側におられる方々にメッセージをお伝えしたのですが、実を言うと、その日のメッセージは、大久保教会にとって非常に重要なものでした。大久保教会の2023年度の年間聖句であるコロサイの信徒への手紙3章14節を中心に、12節から17節に聴きました。主題は、年間標語である「神の愛を身に着けよう」にしました。大久保教会に連なるお一人ひとり、礼拝に出席されている方々に、どうしても聞いてほしいメッセージでした。しかし、礼拝堂はわたし以外誰もいない。ですから、カメラに向かって語りました。神様にすべてを委ねながら、大久保教会の歩みのオーバービューを語り、どのように共に歩んでゆくことが神様の御心であるのかを語りました。

 先週のメッセージを簡単に要約しますと、何故にわたしたちは神様の愛を身に着ける必要があるのかという「理由」をお話ししました。大久保教会の2023年度の歩みはチャレンジの多い歩みになるだろうという予測を牧師であるわたし自身が持っていることをお話しし、その背景も少し分かち合わせていただきました。信仰のチャレンジが多い年であるからこそ、神様の愛が必要、神様の愛を身に着ける必要があるという事をお話ししました。もし聞いておられないならば、教会のホームページで先週のメッセージをお読みいただくか、一階ホールに原稿が数部ありますので、お持ち帰りになってお読みいただきたいと思います。

 わたしたちには、神様の愛を身に着ける必要があります。それは義務とか、命令ではありません。偶然でもなく、とても必然的なことです。イエス・キリストを救い主と信じて、このイエス様に従って生きると決心した人は、今までの「古い人」を自分の意思で脱ぎ捨て、神様から与えられた信仰をもってイエス様に似た「新しい人」を身に着けているからです。使徒パウロは、これを「キリストに結ばれている状態」と言います。イエス様を信じる人は、カジュアルに結ばれているのではなく、しっかりとイエス様に結ばれている人なのです。

 イエス様に結ばれていると、どのような素晴らしい恵みを日々受けることができるでしょうか。コロサイの信徒への手紙の第1章にその答えが記されていますので、お帰りになってぜひその箇所をお読みいただければと思いますが、イエス様につながると、キリストの福音を通して、神の真理、神の御心を十分に悟ることができ、喜びと感謝と希望に満たされて歩むことができるとパウロは言います。真理の言葉、イエス・キリストを通して、どのように生きるべきかが分かり、ストレスフリーになります。ストレスの原因というのは、関係性の中に起こる摩擦が要素となりますが、イエス様を信じることによって罪が赦され、神様との関係性の中で「和解」が与えられるので、一番大きなストレスから解放されて、心に平安が与えられるのです。

 イエス様につながることで、神様の喜ばれる霊の実を結ぶことができ、神様の平和の中で歩むことができるとも言っています。イエス様に結ばれて歩むと神様をますます深く知るようになるとも言っています。また、神様の力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶことができるようになると言います。何故そのようなことがあり得るのか。使徒パウロは「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださったから」と1章13節で説明しています。ですから、イエス・キリストを救い主と信じ続けて、イエス様に結ばれて生きることがどんなに幸いで、恵みであるかを感謝しましょう。

 さて、今朝のメッセージは、先週のメッセージの続きとなります。先週は、神様の愛を身に着ける「理由を知る」ことがテーマでしたが、今朝のメッセージは、神様の愛を身に着ける「目的を知る」ことがテーマです。真の理由と目的をしっかりと知ることは、わたしたち教会の歩みを支えるバックボーンとなり、常に励ます大きな力になります。

 さてここで、皆さんに質問いたします。神様の愛を身に着ける「理由」は果たして何でしょうか。先週のメッセージの中でも触れましたが、12節から見てゆきましょう。神様の愛であるイエス・キリストを身にまとうことによって、わたしたちは「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を身に着けることができ、13節には「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、許し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」という励ましの言葉がありました。

 14節はメインの御言葉ですが、神様の愛であるイエス・キリストがわたしたちの弱さ、配慮の足りなさ、不完全さを補ってくださり、わたしたちの取り組みや活動を完成させてくださり、一つにしてくださるということを聴きました。15節には「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれ、一つのからだ、一つの教会とされている」とあります。神様の愛であるキリスト・イエスにつながり続けることが、わたしたちの平和のためにもどれほど重要であるかが分かります。

 16節の「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」という言葉も、とても力強く、重要な言葉です。わたしたちの心が弱る時、心にバイタリティーを失う時、それはキリストの言葉が心の外にある時です。目の前の課題や迷いに心が奪われ、イエス様の言葉を忘れてしまっている時に心は弱くなります。確信がないからです。イエス様の言葉を心と生活の中心に据える時、わたしたちは神様から豊かな祝福が注がれます。朝ごとに、夕ごとに、キリストの言葉がわたしたちの内に豊かに宿るように常に祈り求めましょう。

 さて、神様の愛を身に着ける「目的を知る」ことに最後の時間を用いてゆきたいと思います。神様の愛を身に着ける理由はもうお分かりになられたと思います。しかし、その目的をご存知でしょうか。神様の愛を身に着ける、確固たる目的があるのです。大久保教会の年間標語には副題が付いています。その副題が目的・目標であるのです。すなわち、わたしたちの教会には「神と隣人と教会に仕えるために」という神様の愛を身に着ける目的・目標が記されています。神様の愛を必然的に身に着ける理由が、わたしたち一人ひとりにあっても、その目的の中心はわたしたちではありません。神様の御心が中心です。

 救い主イエス・キリストがその尊い命を十字架上でささげてくださった目的は、わたしたちの罪を贖い、わたしたちを罪から解放し、わたしたちが神の子として永遠に生きるためであったと聖書にはっきり記されています。神様から委ねられた使命をイエス様は十字架の死の最後の最後まで従順に果たされました。その従順な姿と尊い犠牲を通して、わたしたちは神様に本気で愛されていることを知りました。このイエス様を救い主、贖い主と信じ、このイエス様につなげられている者として、わたしたちもイエス様のように神様に対しては忠実に、隣人に対しては誠実に生きることがわたしたちの生きる目的であると聖書は語ります。

 今朝、わたしたちが集中して聴くべき御言葉は、コロサイの信徒への手紙3章23節です。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」とあります。22節は読みませんでしたが、そこには「主を畏れつつ、真心を込めて」ともあります。「行いなさい」という言葉は「働きなさい」という意味の言葉です。「何をするにしても、心から働きなさい」という言葉は、「何をするにしても、心から仕えなさい」という意味であると思います。この言葉にアレルギー反応が出る人も今の時代いると思います。

 今の時代は、自分が人に仕えたいと思うよりも、誰かに仕えられたいと願う人が多いです。誰かを愛したいと求めるよりも、誰かから愛されたいと求めます。従うよりも、誰かに従わせたいという欲望を持つ人が多くなっています。多くの人は、持っているものを与える、分かち合う喜びよりも、受けることを当然の権利として主張し、強欲に求めます。ギブアンドテイクの時代から、テイクだけの時代になっています。ですから、人間関係や家庭の問題、社会問題が拡大する一方で、様々な生活の基盤の中で、分断・分裂が激しくなっています。ですから、ストレスフルが日々をわたしたちは歩むことになっています。

 こういう時代であるからこそ、わたしたちには神様とイエス様とご聖霊が必要です。神様の愛を身に着ける必要があります。そうでないと、わたしたちの心に平安はありません。生かされている喜びも、感謝も、希望を持てずに、闇の中をひたすら歩むことになります。しかし、それは神様の御心、願いでは決してありません。神様の御心は、イエス・キリストを通してわたしたちが神様の愛を受け取り、その豊かな愛に勇気づけられて、恵みの中で互いのために生きる、主に信頼して神と隣人と教会に仕える事を選び取って共に生きることです。