ルカ(48) 十字架を背負って従えと招くイエス

ルカによる福音書9章23〜27節

最初に少しだけ前回の9章18節から22節の学びの振り返りをさせていただきたいと思います。18節から20節には、イエス様が弟子たちに対して「あなたがたはわたしを何者だというのか」という重要な問いかけがあります。その質問に対してシモン・ペトロが弟子たちを代表して、あなたは「神からのメシア(キリスト)です」とイエス様への信仰を表明したことが記されています。他の人々がイエス様のことを何と言おうと、あなたにとってイエス様は何者であるのかということをしっかり知り、しっかり告白することが重要です。

 

しかし、前回の学びの中では、弟子たちの信仰の表明の背後には、イエス様の執りなしの祈りがあったことを聴きました。すなわち、弟子たちが主の御心にそってイエス様を神様から遣わされた救い主であると正確に告白できるように、イエス様が先んじて神様に祈り、聖霊の伴いと励ましを求めていたことを18節の「イエスがひとりで祈っておられたとき」という言葉から聴きました。イエス様はわたしたちの先を常に歩まれ、従いなさいと招かれます。イエス様は、愛と配慮に富まれたお方であることがよく分かります。

 

さて、福音書の記者ルカが何故イエス様の祈りを記録したのかという理由として、弟子たちがいつも謙遜でいるためであったことを聴きました。前回お話しした言葉をそのまま引用しますが、つまり「弟子たちが傲慢にならないようにするためであったと考えられます。すなわち、弟子たちが自分から救いを求め、自分の決断でイエス様を信じるようになって、自分の意思でイエス様に従っていると言う傲慢な思いにならず、いつもイエス様の祈りが自分の信仰生活の背後にあるという真実を覚えさせて、いつも謙虚に歩ませるためであったと考えられます。」いつも低姿勢で、控えめで、謙虚に生きることの大切さがわたしたちにも指摘されています。

 

わたしたちの信仰生活・教会生活の背後には、いつもイエス様の祈りと数えきれないほど多くの信仰者・信仰の友、教会の家族の祈りがあることを覚えつつ、感謝しながら歩みたいと願います。自分の努力だけで生きているのではありません。常に神様の愛の力が働いています。想像も出来ないほどの細やかな配慮があります。謙遜になって、お互いのことを覚えて祈り、祝福を熱心に祈る者とされてゆきたいと願います。そして、キリストにあって、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する生活を送らせていただきましょう。

 

さて、イエス様への信仰を言い表した弟子たち、「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じ」た、と21節にあります。その理由は、実に単純明快です。すなわち、信仰は神様からいただく恵みであり、信仰の告白もイエス様の祈りと聖霊の励ましがあって初めてできる恵みであるので、イエス様を救い主と信じない人たちに話しても、まだ理解力がないからです。信仰を告白するにも、神様の時があるのです。

 

さて、続く22節には、「神から遣わされたメシア・キリスト」は、どのような目的を持ってこの地上に神から派遣されたのかが記されています。イエス様は次のように弟子たちにおっしゃいます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と。ここにある「必ず」という言葉と最後の「ことになっている」という言葉は、これが神様のご計画であり、神様のご意志は必ず実現するということであり、イエス様はすでにこれらすべてを受け入れているという証拠です。父なる神様への全幅の信頼があったことが表れていますが、人として肉体をもった生身のイエス様です。激しい葛藤もあったと想像します。

 

しかし、イエス様は同時に「三日目に復活することになっている」と言われます。先ほど申しましたように、イエス様の十字架の死が神様のご計画であると同様に、イエス様のご復活も神様のご計画にあるということをイエス様はわきまえています。父なる神様が御子であるイエス様を確実に甦らせられるという神様への信頼がここで述べられています。この神様への信頼が、希望を生み出し、平安が与えられるのです。わたしたちの人生もどのようになるのか分かりません。しかし、神様に信頼して歩む時に、希望と平安が与えられ、神様から委ねられた地上での使命に生き、使命を果たす力が与えられるのです。

 

さて、それでは23節から27節の箇所に聴いて行きましょう。23節には、「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」とあります。

 

「イエスは皆に言われた」とあります。「皆」とは、弟子たちだけでなく、誰にでも、という意味です。つまりイエス様を信じている人も、信じようと心が動いている人も、イエス様にまったく興味のない人にも、すべての人に言われたということです。すべての人は、聞くべきという意味であると思われますが、イエス様は何と言われたのでしょうか。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。

 

「わたしについて来たい者は」とは、一時的にイエス様に従うという意味ではなく、永続的に、ずっとイエス様に従いたいという強い思いがあるという意味であり、イエス様の弟子・クリスチャンとなってゆくという意味です。イエス様について行くは、イエス様と同じ道を歩むということです。「同じ道」とは、神様のご意志、ご計画に従う道という意味です。

 

ここに「自分を捨て」、「日々、自分の十字架を背負い」、「わたしに従え」という三つのご命令がありますが、別々のことを言っているのではなく、ただ一つのことを示します。その「ただ一つのこと」とは、繰り返しになりますが、これからの人生、神様のご意志、ご計画に従うということです。「自分を捨てる」とは、これまで自分の思い通りに生きてきたことを止め、これからは神様の御心に従って生きるということです。

 

「日々、自分の十字架を背負い」とあります。この言葉におじける人が非常に多いと思いますが、何故おじけるのでしょうか。それはイエス様と同じように自分も殉教の死を遂げなければならないと思い込むからです。死にたくないと思うからです。その感情はまともだと思います。しかし、イエス様はそのような殉教の死を言っているのではありません。まず「日々」とあることに注目しましょう。「日々」とは日常生活の中でという意味で、日々の営みの中でイエス様の教えを実行して生きなさいという意味です。

 

イエス様は、ここで「『わたし』の十字架を背負いなさい」とはおっしゃいません。「自分の十字架を」と言われます。イエス様の背負われた十字架は、わたしたちの罪を贖うための「死」でした。それがイエス様に対する神様の御心でした。

 

それでは、「わたしの十字架」とはいったい何になるのでしょうか。それを知るためには、イエス様に日々従うしか方法はないのです。イエス様から聞いてゆくしかないのです。イエス様がどのように生きなさいと教えてくださるから、その示された生き方をなしてゆく、それが神様の御心であり、自分が背負うべき十字架であると思います。

 

人生の折々、その時に応じて果たすべき責任が変わってきます。子ども期、青年期、成人期、高齢期、その時期の役割や責任は変わってゆきます。それぞれの時期に、果たすべき責任をしっかり担えるように、その力が神様から与えられるように、「わたしに従いなさい」と招かれるイエス様に日々従えば良いのです。

 

24節には、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」とのイエス様の言葉があります。イエス様に出会うまでの弟子たちは、自分たちのために生きていました。わたしたちも同じです。しかし、イエス様に出会って、神様の御心に生きる者とされてゆく中で、本当の自分を知り、人生の目的と生きがいを知ることができ、人生が真の喜びと感謝で満たされます。それが、神様がイエス・キリストを通して与えてくださる救いなのです。

 

しかし、自分のためだけに生きる人は、最終的には挫折を味わいます。人には決して越えられない「死」というこの世からの断絶があるからです。死の先には何も持って行けません。ですから25節にあるように、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」とイエス様は言われるのです。

 

この主イエスの言葉の内容は、ルカ6章24節にある「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう(地上で)慰めを受けている」という言葉に該当します。この世の富によってすでに心が満たされているが、それは主の目から見たら不幸なことだというのです。

 

どうしてでしょうか。それは、自分の幸せのためだけに生きる人は、頑張って集めてきたものすべてを手放さなければならない時が必ずきます。死が必ずきます。しかし、神様の御心に従って、イエス様のために生きる人は、永遠の命、永遠の祝福がイエス様を通して神様から与えられるのです。

 

地上での限定的なものに心を注ぐか、御国での永遠のもののために心を用いるか。限定的なものはきらびやかで美しく見え、永遠のものは十字架の苦しみのように見えます。その狭間でわたしたちは大いに迷います。そういうわたしたちにイエス様は「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とイエス様の近くへと招かれるのです。イエス様に従う道が、永遠の祝福につながっている救いの道であるからです。

 

26節に、「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」というイエス様の言葉があります。「恥じる」とは、イエス様とその言葉を拒否・否定することです。イエス様を救い主として認めない、イエスなど必要ないとして、自分の意思と決断だけで生きてゆくことを選びとってゆくことです。その態度が、イエス様が再び来られる終末の時に、その人の運命を決定するということです。イエス様はわたしたち一人ひとりを深く愛し、それぞれを神様に造られ、生かされ、愛されている存在であることを認めてくださっています。そのために十字架上で贖いの死を遂げてくださいました。イエス様に従う者を主は祝福し、従わない者を拒否されます。

 

使徒パウロは、「わたしは福音を恥としない」と宣言しました。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」とローマ書1章16節で力強く言いました。イエス・キリストの言葉・福音は、わたしたちを救う神の力なのです。この主の言葉に聴き続けましょう。