万事を益へと導く神の霊

「万事を益へと導く神の霊」 五月第四主日・ペンテコステ礼拝 宣教 2023年5月28日

 ローマの信徒への手紙 8章26〜30節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。神様のお導きの中で、このように皆さんとご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。オンラインで礼拝に出席くださっている皆さんも感謝いたします。14時間半後にビデオで宣教を聞いてくださるアメリカの教会の皆さんも感謝いたします。今朝は、皆さんと分かち合いたいことがたくさんあるので、まずお祈りの必要なことから四つ短くお話しいたします。皆さんのお祈りが必要です。

 まず、ご一緒に礼拝をささげて来られたC伝道師が日本での25年の働きを終えて、今週韓国に帰国されます。C伝道師が心を注いで神様に祈り、祝福を望んできたことは、ご家族との死別、自転車事故による大怪我と長期入院とリハビリ、そしてコロナパンデミックの中で幾度も挫折を味わったと思います。この大久保教会を愛して、祝福をずっと祈り続けてくださいました。韓国で彼女の帰りを待っている娘さん家族のもとへ行かれますので、主の顧みとこれからの韓国での生活が祝福されますようにどうぞ心を注いでお祈りください。

 次、約4年ぶりの教会ピクニックが来週6月4日の礼拝後に計画されていますが、今週火曜日頃から梅雨に入るという報道を見ました。天気予報も、来週の日曜日は降水確率40%ということです。ピクニックはちょっと難しいかなぁとも思うのですが、まず神様の祝福を祈りましょう。神様の御心がなりますようにと祈りましょう。そして委ねましょう。

 三つ目の祈りのお願いは、N教会のことです。先週、説教者として派遣されましたが、牧師招聘に現実味が出てきた模様です。先週は、礼拝後に臨時の信徒会が開かれていました。教会の雰囲気も明るいです。新しく教会員になられた方や新来者の方々も教会につながり続けているとのことで、その方々にもお目にかかることができて感謝でした。この調子で行くと、説教の支援も先週が最後であったかもしれません。とても感謝で、喜ばしいことです。N教会に牧師が与えられますように、どうぞ覚えてお祈りください。

 最後は連盟のことです。今年3月まで、牧師の不在な教会、いわゆる無牧師の教会は全国に35あったのですが、4月に入って一挙に50教会に膨れ上がりました。様々な原因、背景、事情があるのだと思いますが、過去最大の数です。この数は今後も増加すると予測され、一人の牧師が複数の教会を牧会するか、複数の教会が合併するか、教会がその役目を終えて消滅する時代になると思います。気を引き締めて、どうぞお祈りください。

 さて、今度は感謝なご報告です。週報の献金報告欄を見ていただければ一目瞭然ですが、皆さんにお祈りと献金のお願いをしてまいりました屋根と正面壁の修繕工事資金の不足分を補う特別献金が目標の160万円に達しました。1月8日の総会で修繕工事が承認されてから、19週間、約4ヶ月半で達成したのです。教会員の皆さん、客員の皆さん、アメリカの教会の皆さんから合わせて52口の献金がありました。心からありがとうございました。こんなにも早くに達成されて、本当にすごいなぁと正直驚いています。わたしは、目標金額達成までに1年以上必要だと思っていました。神様と大久保教会を愛する皆さんの愛の強さを、わたしは過小評価していました。本当にごめんなさい。わたしの不信仰さを認め、神様と皆さんに心からお詫びいたします。神様の霊が皆さんの心に働きかけて、教会のために心からささげる思いを与えてくださったと信じ、神様に感謝いたします。献金してくださった方々へは、後日、教会から感謝のご報告を個別にお送り致します。心から感謝いたします。

 さて、本日は「聖霊降臨日・ペンテコステ」です。今朝は、週報にこのようなB5の紙をはさんでおります。宣教の中で、ペンテコステについてお話ししようと考えてはおりましたが、わたしの牧師仲間で、FS教会の牧師であるM先生が週報の巻頭言でペンテコステについて見事なほどまでに詳しく書いておられたので、大久保教会の皆さんにもぜひ読んでもらおうと思い、M先生からご了承いただき、皆さんに配布いたしました。すでに礼拝前にお読みくださった方もおられるかもしれませんが、まだの方は帰宅される電車の中かバスの中でお読みいただいたり、ご自宅に帰ってからお読みいただきたいと思います。どうしても今読みたいという衝動に駆られているかもしれませんが、今は宣教の時間ですので自制していただき、後でお読みいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

 さて、今朝の御言葉の分かち合いをする前に、個人的な思いをお伝えします。2020年から今年までのコロナパンデミックの中、大久保教会の兄弟姉妹の中には、大切なお父様かお母様を亡くされた方が8名おられます。病院や高齢者施設に入院された親御さんと窓越しにしか会えない、声を直接かけれない、その手を握ったり、背中をさすったり、抱きしめることもできない。さぞかし大変悲しく、辛い思いをされたことと思います。わたしは、どなたの葬儀にも教会を代表して参列し、兄弟姉妹とそのご遺族を慰めることができませんでした。ただ兄弟姉妹にメールやお手紙を差し上げるだけでした。大久保教会の牧師として、こんなに無力感を味わったことは過去にありませんでした。多くの場合、葬儀は近親者のみの家族葬であったとお聞きしましたが、それぞれの葬儀は守られて執り行われたと後でお聞きすることができ、わたしの悼んだ心は神様によって宥められました。どのように宥められたのか。それは神様の霊によって宥められたとの実感です。今まで経験した事のない感覚です。

 そのような、コロナパンデミックの渦中でお父様やお母様を亡くされた皆さんには申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが、今月のゴールデンウィーク中には義理の母の家を訪れ、元気な義母と和やかな時間を過ごす幸いを得ました。そして今月11日からは5年ぶりにアメリカから一時帰国しました母と時間を過ごす幸いが与えられています。しかし、元気な母も今年は86歳です。頭はまだしっかりしていますが、5年ぶりの日本は、彼女ひとりでは対応できないほど複雑に変わりすぎています。わたしは、ほぼ毎日が心配でした。

 先週木曜日、たまプラーザ駅で古くからの友人たちと会う約束をしていた母のことが心配で、わたしは渋谷まで一緒に出かけました。副都心線から田園都市線へ乗り換えるのが難しいだろうと判断した結果です。案の定、大勢の乗客が行き交う渋谷駅の中を独りで行かせなくて良かったとすぐに感じました。人にぶつかって転倒し、怪我でもしたら大変なことになります。できるだけゆっくり歩いて、田園都市線の普通列車に乗せることができました。

 しかし、わたしの心は不安でした。たまプラーザ駅でちゃんと下車して、中央改札口で待ってくれている友人たちと再会を果たせるかと。車内に座っている母をホームから見ていて、わたしにできたことは神様に祈ることでした。「神様、母を守って、たまプラーザ駅で降ろしてください。友人たちと再会して楽しい時間を過ごせるようにお願いします」と心の中で祈りました。翌日の早朝、新幹線で大阪へ向かう母を車で東京駅まで連れてゆき、八重洲口で下ろす時も一緒です。「主なる神様、母はこれから大阪に向かいます。守ってください。」と祈りました。皆さんは、大げさだと思われるかもしれません。しかし、息子は真剣です。

 わたしは、母と時間を過ごす中で、今朝の聖書箇所を自分への言葉として、実体的と言いましょうか、感覚として、初めてはっきりと理解することができました。特に28節の「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように(神が)共に働くということを、わたしたちは知っています」という言葉です。シンプルにすると、「神様は、万事を益となるように働いてくださる」ということです。

牧師として お恥ずかしいのですが、わたしは56歳になって初めて、この御言葉の真意に気付かされました。すなわち、「神様は万事を益となるように働いてくださる」ということ、頭では分かっているつもりでいました。しかし、わたしは神様が実際にどのように働いてくださるのか、しっかり分かっていなかった。信じていたという言葉もおこがましいほど、ただ漠然と知っていただけであったことに気付かされたのです。わたしが分かったことは、神様は、神様の霊をもって、すべてを、万事を益にしてくださるために働いてくださっているということです。聖霊が働いてくださるということ。そのことを信じることが初めて出来たのです。

 わたしの場合、母を電車に乗せて、見送ったら、わたしには祈ること以外何もできない。しかし、神様の霊が母に伴ってくださって、彼女を守り、導き、そして目的地まで連れて行ってくださる。それだけでなく、大いに祝福もしてくださる、すべてを益としてくださるのは聖霊なのだ、その原動力は神様の愛なのだということをわたしは初めて体験したのです。

 今日はわたしの事ばかりお話ししてすみません。しかし、皆さんの日々の生活の中でも同じような事があるのではないでしょうか。最近ではスマホのLINEやフェイスタイム・ビデオチャットで遠く離れた家族の顔を見て話すことができます。しかし、その会話後は相手のために神様の助けと守りと恵みを祈ることしか出来ません。本当に大丈夫だろうかと不安が残る時もあります。海外や遠方で生活する家族が過ごしている時間、子どもが学校や外で過ごす時間、高齢の家族が病院やデイケアに行っている時間、入院中や手術の時間も、神様が守ってくださるようにとひたすら主なる神様に信頼して祈るしか方法がない時があります。

 しかし、その祈りも、時にはどのように祈ったら良いのか分からなくなることもあります。絡み合った複雑な感情を整理できない時もあります。言葉が見つからない時もあります。祈れないで、ただただ涙することもあります。しかし、それでも神様を見上げて、心を神様に向けて祈る時に、神様の霊が、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる、助けてくださるとの約束、祈りへの励ましが26節に記されています。ご覧ください。「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とあります。

 しかし、そもそも、なぜ神様の霊はわたしたちの事を心にかけてくださり、助けてくださるのでしょうか。27節をご覧ください。「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」とあります。すなわち、神様の霊がわたしたちそれぞれの心を見抜かれ、わたしたちが何を心に思い、何に悩み、何を切に望んでいるのかをすべて知っておられるから、わたしたちを思い煩いの中から解放し、祝福で満たしたいから、神様はご自身の霊をイエス様の代わりに送ってくださったのではないでしょうか。神様がわたしたちを愛してくださっているから、神様の霊がいつもわたしたちと共にいて助けてくださる。

 確かに、日々の生活の中では、わたしたちの思い通り、願い通りにならないことも数え切れないほどあります。すべてが益となっているとは到底思えない、そういう状況の中に置かれることもあります。そのような中で、自分の弱さを責めたり、悔やんだり、時には誰かに責任転換する事もあります。しかし、わたしたちが経験する苦しみには意味があり、痛みや悲しみにも目的があります。神様のご計画があることを覚えましょう。神様の霊には、さまざまな力があります。その力を惜しみなく与えてくださるのが神様です。神様の霊は、わたしたちが神様にすべてを委ねるという力をわたしたちに注いでくださいます。すべてを神様に明け渡し、委ねることができるならば、そのとき初めて真の「平安」が与えられます。

 わたしたちの人生は、神様の霊によって、聖霊によって守られ、導かれ、支えられています。わたしたちの見えない、聞こえない、手の届かない所でも、神様の霊はそこで働いてくださって、万事を益とし、すべてが神様の御心のままに進むように導いておられます。その真実を知り、信じる恵みに与るならば、わたしたちはイエス様によって罪赦され、義とされた者として生きる事ができ、家族や友人だけでなく、すべての人に対してもっと優しく接する事ができ、愛と慰めに満ちた言葉をかけ合い、神様のお守りと祝福を心から祈り合い、神様の愛を日々分かち合い、神様に栄光をお返しする事ができるのではないでしょうか。神様の憐れみに感謝いたします。