ルカ(63) 光が消えていないかと尋ねるイエス

ルカによる福音書11章33〜36節

ルカによる福音書11章をご一緒に読み進めていますが、今回の33節から36節の内容は、14節からずっと続いています。一見、内容に関連性、つながりがないように見えるかもしれませんが、実際はその反対で、関連し、関係性がずっと続いています。

 

また、今回の箇所を読んで、「あれっ、前にも聴いた事のある言葉だなぁ」とすぐにお感じになられたかもしれませんが、まさしくその通りで、前にも聴いたことがあります。それは8章16節から18節です。

 

16節だけを読んでみたいと思いますが、「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」とあり、今回の11章の33節は少しだけ言葉が変えられていますが、基本は同じです。しかし、それ以外の文言・内容はお互いに違います。それでは具体的に何が違うのでしょうか。簡単にお話ししたいと思います。

 

まず8章16節から18節は、「聴く」ということがテーマです。この箇所の前には、「種を蒔く人」のたとえがあります。すなわち、イエス・キリストは神の国の福音を語り、その道を教え、人々の心に福音の種を蒔きますが、蒔かれた人たちの心の状態によって、その福音の受け止め方が変わります。

 

8章のテーマは、その蒔かれた福音、神様の愛をあなたがたはしっかり聴き、そして信仰をもって神様の愛を受け取りなさいということです。18節に「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」という主イエス様の言葉があります。

 

しかしながら、今回の箇所は、「見る」ということがテーマとなります。すなわち、イエス様が人から悪霊を追い出し、病人をいやし、「神の国はあなたたちのところにすでに来ているのだ」と群衆に向かって福音を宣言します。群衆の大多数はイエス様の救いの御業を見て驚嘆するわけです。

 

しかし、群衆の中には、「あの男(イエス)は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」(11:15〜16)のです。実際にその目で救いの御業を見ても信じないで難癖をつける人たちがいたのです。ですから、イエス様はそのような人たちの心を見抜いて、愛と忍耐をもって、11章17節から32節までで説明するのです。

 

わたしたち人間は幸福を常に求めます。そのような中で、すでに神様から幸いを受けている人に憧れたり、羨んだりして、自分も幸いを求めようとします。しかし、悲しいことですが、心のひねくれている人もいて、そのような人を妬み、憎み、悪を行う身勝手で自己中心的な人もいます。

 

そのような中で、イエス様は、「本当に幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と宣言します。つまり、本当に幸いな人、幸いを得る人、それは神の言葉であるイエス・キリストを信じ、このイエス様と共に歩み、主の語りかけに聴き続け、その言葉どおりに生きる人だとイエス様はおっしゃり、その様に生きなさいと招かれます。

 

さて、自分の耳で神様の愛を聴いても、自分の目で神様の愛の業を見てもイエス様を救い主と信じない人も確かにいる一方で、イエス様を信じる人たちも相当な数います。しかし、厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが、真の幸いを得るには、イエス様を信じて歩むしか道はありません。イエス様を救い主と信じるか、信じないか、どちらかしかないのです。

 

そして、信じるか、信じないかの決断に迫られる時、信じたい、従いたいと決心する時にわたしたちを助けてくださるのが、「聖霊」なる神なのです。ですから、イエス様は11章9節から10節で、何をさておいても、あなたに大切な助け主、「聖霊を祈り求めなさい」とおっしゃるのです。

 

イエス様の言葉を聴いて、イエス様の救いの御業を実際に見て、体験してイエス様を救い主と信じた人たちが大勢います。今後もイエス様を信じ、神様の祝福を受ける人の数が増えることをイエス様も、神様も期待をされていますが、主イエス様はいったい誰に期待しておられるのでしょうか。それは、イエス様を信じて従う者たち、クリスチャンです。

 

話が長くなりましたが、今回の33節から36節の箇所にあるイエス様の言葉の対象者は、イエス様の弟子たちであり、イエス様を信じる者たちであることをまず覚えたいと思います。その人たち、わたしたちに対して、イエス様は「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置」きなさいと命じられます。

 

「ともし火」とは、大きな光、たいまつの光のような力のある、命のある光です。この「ともし火を灯す」とは、イエス様を信じて、魂が罪と闇の苦しみから救われ、大きな喜びに満たされていることを表す現在進行形の表現です。

 

その救いを受けた喜び(感謝)を、穴蔵の中や、升の下に置く者はいない、つまり隠す人はいないとイエス様は言います。むしろ、「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置きなさい」と言われて、大っぴらに前面に出しなさいと言われるのです。

 

「あなたがたは神様から恵みを受けて救われている、これからも永遠に救われているのです。だから、その恵みを喜んで、感謝して、分かち合って、『入って来る人たち』に神様の愛とイエス様による救い、平安、希望が見えるようにしなさい」とイエス様は励ますのです。

 

この「入って来る人」とは、まずユダヤ人の観点から言いますと、それは神様の愛の中に今後招き入れられている「異邦人」のことです。現代の観点から言いますと、それは神様の愛を求めて教会を訪れる人々、神様のことをもっと知りたい、イエス様を信じたいと神様の愛を求めている人たちを指しています。わたしたちも、かつてはその一人でした。

 

さて、イエス様を救い主と信じ、罪の赦し、救いを受け取った人たちの心は、すべての悩みや苦しみ、しがらみから解放されたはずですので、その人の心は大きな喜び、大きな感謝で満たされているはずです。そして救われたことの喜びであるたいまつ・ともし火を掲げ続けていれば、人々の目が届く燭台の上に置いておけば、求めている人々の目に自然と留まるはずで、大勢の人々がイエス様を救い主と信じ、神様の愛を受け取って救いを得ていくはずです。みんなが幸せなはずです。大袈裟なことを言えば、地球上は神様の愛に生かされている幸せな人たちで満たされているはずです。

 

しかし、現実はどうでしょうか。現実はかなり違います。理想と現実に乖離があります。なぜ大きな開きがあるのでしょうか。イエス様は、「神様の愛を受け取っているはずのあなたがたが、つまりわたしが、神様の愛、イエス様から受けた救いの喜びを人々から隠しているからだ」、と明確に言います。

 

多くの日本のクリスチャンたちが、光の中でも闇の中でもなく、どっち付かずの生活をし、人々の前に高く掲げるべき神様の恵みを燭台の下に置いて隠しているからだと言います。いわゆる隠れクリスチャン的生き方をしている人が多い、だから日本のクリスチャン人口は1%未満が続いている、成長がないと言えるのでしょう。すべてのクリスチャンがイエス様の御言葉どおりに生きれば、日本は必ず変わり、世界も変わるはずです。

 

では、なぜわたしたちの多くは自分がクリスチャンであることを世間から隠すのでしょうか。どのような理由が考えられるでしょうか。恥ずかしいと、世間体を気にするというのがあるでしょう。人々からの視線が怖いのでしょうか。人々が自分のことをなんと思っているのかが気になるからでしょうか。迫害がなくても、社会からつまはじきにされることを恐れているからでしょうか。自分の信仰を表すと何かと不利益になる。失うものが多いと感じるからでしょうか。

 

様々な理由・要因があると思われますが、イエス様はわたしたちの弱さをよくご存知です。わたしたちが隠す本当の理由、根本的な間違い、致命的な弱さは他のところにあると言われます。34節に、「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」とあります。

 

あなたがたがともし火を隠すのは、あなたの目が濁っているからだというのです。あなたの目が濁っている、つまり目が澄んでいないとは、どういうことでしょうか。イエス様をちゃんと見ていない、信仰のピントがズレている、見ていたとしても自分の都合の良い部分だけを見て、都合の悪いところはまったく見ようともしないということです。

 

イエス様をしっかり、はっきり見ていない、イエス様を救い主として捉えて信じていないので、その小さな不信仰さが信仰の目を濁らせ、神様の恵みによって救われ、生かされている幸いを心から喜べない、感謝できないということです。

 

メガネをかけている人は、見えにくくなったらメガネのレンズをきれいに拭きます。目の良い人が見えにくくなったら、まず目をこすったり、目薬を数滴さしたりします。それでも改善されない場合は、眼科へ行って診てもらうでしょう。良く見えないと不安になります。

 

わたしは白内障の手術を過去に2度受けましたが、白内障は水晶体・レンズが濁り、目の前のものがすべて薄い霧がかかったようではっきり見えないという目の病気です。すべてがぼやけて見えると気持ちはまったく晴れません。

 

ですから、イエス様は弟子たちに、わたしたちに言うのです。もしわたしを信じてもあなたの心に喜びがないのであれば、それはあなたの信仰の目に問題がある、その目が濁っていると。ですからイエス様は35節で、「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と言われます。

 

あなたが恵みを喜べないのは誰か他の人や取り巻く環境に問題があるのではなく、あなた自身の信仰に、信仰の目が濁っていて、わたしのすべてをしっかりして見ていない、信じていないから、心も暗くなって、救われて恵みのうちに生かされている喜びを周りの人々が見えるように高く掲げることができないのだ、だからまず自分を見つめ直し、自分が神様とイエス様の何を信じているのか、イエス様を通して神様から何を受け取っているのか、その恵みをもう一度捉え直しなさいと招かれるのです。

 

「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」と。主イエス様を救い主と信じる人の心に聖霊が宿り、心の部屋を綺麗にしてくださり、喜びで満たしてくださいます。その喜びが心の中から溢れ出し、燭台の上に置くように、神様の愛を必要としている人々の心を灯すのではないでしょうか。