ルカによる福音書12章1〜12節
ルカによる福音書の学びも12章に入りますが、基本的テーマは11章から続いています。11章で、イエス様は弟子たちに聖霊を祈り求めなさいと言って、霊の神を受けることの重要性を教えられました。イエス・キリストを救い主と信じる者たちになぜ聖霊が必要であるのか。悪霊というわたしたちをイエス様から引き離す存在・力が存在して、その悪霊と日々戦わなければならず、悪霊に勝利するため、イエス様につながり続けるためには、聖霊の助けが絶対的に必要であるからです。わたしたち人間の力だけでは悪霊に太刀打ちできないから、聖霊を受けなさいとイエス様は教えられます。
聖霊が必要なもう一つの理由は、弟子たち、つまりわたしたちの信仰生活が、信仰そのものが、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちのように形式的、祭儀的、律法主義的にならないためです。形式的、祭儀的、律法主義的とは、今日においては、神様に愛され、イエス様によって罪赦され、救われ、恵みの中に生かされているのに、その恵みを喜び、感謝しないで、心の伴わない礼拝をささげ、ただなんとなく奉仕をしているという事です。
11章37節から52節で、イエス様は彼らの信仰とそのような心が無い歩みを、痛烈に非難します。人々に律法を守れと強いておきながら、自分たちは表面的には律法を守っているように見せかけて、実は律法を守っていない。神様に関心を常に寄せ、忠実に仕えていかなければならないのに、ただただ人々の関心集め、常に祝宴の上座に座る事を喜びとし、優越感に浸ることだけに心を割いている状態です。
イエス様はそのような行為を「偽善」と呼ばれ、彼らを「偽善者」とはっきりと呼びます。彼らの行為が、何も分からない人々を神様の方へ導くのではなく、間違った方向へ導き、偽善という罪を犯させ、神様から遠ざけているからです。また、彼らを「愚か者」と呼ばれ、彼らは「不幸」だとも言われます。真の幸いは神様から与えられる祝福であるのに、祝福を人々に求め、神様の存在を忘れ去っているから「不幸者」と呼ばれます。
このように非難されたファリサイ派の人々と律法の専門家たちは、プライドを傷つけられ、侮辱されたとイエス様に対して激しい敵意を抱き、イエス様を陥れる計画を練り始めたことが11章53節と54節に記されていますが、そういう神の御心に反することをするので、神様の祝福からさらに遠ざかり、その不幸はさらなる深みへと沈んでゆきます。
さて、今回の学びを進めてゆく前に、「偽善」とは何かを考えたいと思います。辞書を調べますと、偽善とは「見せかけの態度」、「うわべを繕ってする善行」とありました。また、偽善者というギリシャ語は「役者」という意味だそうです。何かの役を演じるのが役者で、その役になり切ると、その役の表情や言葉使いになります。内側には本当の自分がいるけれど、外側は演じている他の人。それが偽善ということになります。
それでは、なぜ「偽善」という行為がそもそも起こるのでしょうか。理由は聖書からいくつか考えられます。一つ目は、人からよく思われたいという欲望からくる偽善です。役者は別の誰かを演じることで演技を見る人々の関心を集めて、人気を博したいと考えます。二つ目は、その裏返しといいましょうか、自分のことを悪く思われたくないという人に対する恐れです。そのために無理をして、偽りの自分を演じ続けるということです。しかし、そういう行為は自分を苦しめるだけで、いつか窒息状態に陥るでしょう。三つ目の理由、これが最も注目すべきものですが、神様を恐れないということです。偽善者は、人を恐れますが、神様を恐れないという特徴があります。
神様を恐れるとは、神様を「怖がる」ことではなく、神様を「敬う」ことです。ですので、最近の聖書では「畏れ」という漢字を用います。神様を「畏れ敬う」、これがイエス様がわたしたちに教え、神様が求めておられることです。自分に何か負い目があると、神様の裁き、俗に言う「バチ・罰」を恐れます。正義の神を恐れるからです。しかし、自分のような者さえも愛してくださる愛の神様を喜ぶ時、神様を畏れ敬うのです。
これらの三つの理由は、ファリサイ派の人々、律法の専門家たちが偽善に走った理由であると考えられます。何故ならば、前回の学びで「愚か者とは、神を忘れた者という意味」と申しましたが、神様を軽んじ、その存在を忘れるので、自分を愛する思いが強くなり、人から愛されたい、アテンションが欲しいと感じ、求めてしまうから、本当の自分を消し、人が喜ぶ誰かを演じてしまう、偽善に走ってしまう。これら偽善に走る理由をテーマに、イエス様は12章で弟子たちに重要なことを教えているように思えます。
さて、12章1節の前半に、「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた」とあります。「とかくするうちに」とは、律法の専門家たちがイエス様を罪に陥れようと隠れて話し合っている時ということで、イエス様はそれらすべてを分かっていました。
ですから、群衆が集まってきても、イエス様は弟子たちに大切なことを教えることを優先的にし、次のように教えられます。1節後半から、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。2覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。3だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」と。
2節と3節の言葉は、ファリサイ派と律法の専門家たちが隠れて話し合っていたことですが、わたしたちにも同じようなこと、噂話や人を傷つけるような話や計画をしないようにとの警告です。悪意をもって故意に隠すものは必ず明るみに出て、囁く声は必ず他の人たちの耳に入り、明るみにさらされるということです。イエス様は、この偽善の罠に陥らないで、常に愛と誠実さに生きることを教えられます。11章42節でイエス様が言われた「正義の実行と神への愛」を行うことだけに集中しなさいと教えられます。
「ファリサイ派の人々のパン種に注意せよ」との「パン種」とは、人々を神様から遠ざけ、無意識のうちに罪を犯させ、腐敗させてしまう種・菌です。その種・菌が少しでも入るとその人の信仰は腐り、形骸化するのです。彼らのように神様を畏れ敬うことなく、人々の関心だけを求め、チヤホヤされることを求める偽善を止めなさいと言うことです。
次に4節から5節を見てゆきましょう。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。5だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」とあります。イエス様は弟子たちを「友人」と呼びます。かけがえのない存在という意味であると思います。
さて、4節から7節には「恐れ」という言葉が4回も出てきます。最初の恐れは、わたしたちの心を傷つけ、体を殺すことのできる「人」に向かっています。しかし、殺す以上のことは何もできない人を恐れるのではなく、罪を犯す者を「地獄に投げ込む権威を持っている方」、正義の神を恐れなさいとイエス様は言われます。神様を畏れ敬って生きてゆくことが本当の幸いだと弟子たちに教えられるのです。その理由は、これから弟子たちがサタンからの誘惑に遭い、悪霊との戦いに立ち向かい、厳しい迫害に直面することになるからであり、勝利と救いは正義の神と聖霊にあるからです。
続く6節から7節で、イエス様は「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と言われます。
アサリオンとは、当時のユダヤの価値が低い貨幣単位です。マタイ福音書10章29節では、二羽で一アサリオンとありますので、二アサリオンだと四羽の計算です。ここに五羽の雀とありますから、一羽は「おまけ」ということでしょう。しかし、そのおまけの一羽さえ、神はお忘れにならない。ましてや、雀より優っているあなたがたを、弟子たちの髪の毛一本すら残らず神様は配慮されるとイエス様は弟子たちを励まします。神を畏れる者たちを絶えず愛し、決して忘れることはないと言われます。
ここでイエス様が弟子たちに、そしてわたしたちに教えていることは、迫害や困難の中に置かれても、時が良くても悪くても、大いなる正義と愛を持たれた神様をいつも意識しながら歩みなさいということです。
神様を信じて、神様の愛の中に生き、神様を常に意識して歩んでゆくと、人からどう思われようが関係なくなります。つまり、人に良く思われようと思う必要も、人の思いを「恐れる」必要もなくなり、自分を偽り、偽善的に生きる必要がなくなります。そうなると人にも誠実になれますし、神様に忠実になれます。
人々に誠実に生き、神様に忠実に生きる道について、続く8節から12節に記されています。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。9しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。10人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。11会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。12言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」と。
イエス様の弟子たちのなすべき事は、イエス様を救い主と信じ、従っていることを公に言い表す事だとイエス様はここではっきりと言われます。しかし、イエス様を知らない、自分とは関係がないという人は神様もその人を知らない、何ら関係ないと言われるのです。
10節に、イエス様の悪口を言う者は赦されるが、聖霊を冒涜する者は赦されないとあります。「イエス様の悪口を言う」とは、イエス様を救い主と知らないで批判的なことを言う人が自分の間違いに気付いて悔い改めれば赦されると言う意味です。
「聖霊を冒涜する」ことには二つの理解があるかも知れません。一つは、ファリサイ派の人たちと同じように、最初から悪意をもってイエス様の救いの言葉を聞き、その言葉を故意、自分勝手にねじ曲げて解釈し、最終的に拒絶することです。そういう人の心には改心の余地がないと見なされ、赦されることはありません。
もう一つは、イエス様を一旦は信じて従った人が信仰を捨てるということです。ヘブライ人への手紙6章4節から6節にこうあります。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神を子を自分の手であらためて十字架につけ、侮辱する者だからです」とあります。
ペトロの手紙二2章20節では、「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりもずっと悪くなります」とあり、ルカ11章24節から26節を思い出します。
11節から12節は、弟子たちが迫害や厳しい状況下に置かれることが想定されて言われている言葉です。「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」とあります。イエス様の霊・聖霊がいつも共にいてその心を守り、イエス・キリストが神様から遣わされた救い主であることを告白できる勇気と言葉を与えてくださると言うことです。権力者や命を奪う人を恐れるのではなく、永遠の命を与えてくださる主なる神様を畏れ敬いなさいと主は言われます。
箴言1章7節(p991)に「主を畏れることは知恵の初め」とあります。イザヤ書11章1節から3節(p1078)には、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」とイエス様のことが預言されています。
イザヤ書57章11節(p1155)には、「誰におびえ、誰を恐れて、お前は欺くのか。お前はわたしを心に留めず、心にかけることもしなかった。わたしがとこしえに沈黙していると思ってわたしを畏れないのか」と言う言葉があります。神様はイエス様を通して愛の言葉を語り続け、愛し続け、導き続けてくださいます。この主なる神様と救い主イエス・キリストを畏れ敬う者となりましょう。