「キリストの受けた傷によって救われる」 三月第一主日礼拝 宣教 2024年3月3日
ペトロの手紙一 2章21〜25節 牧師 河野信一郎
おはようございます。3月の最初の日曜日の朝を迎えました。今朝も礼拝堂に集われている皆さん、そしてオンラインで礼拝に参加されている方々とご一緒に賛美と祈りと礼拝を神様におささげできる幸いを嬉しく思い、神様に感謝します。わたしたちは今、イエス様の十字架の道に思いを馳せる期間、受難節を過ごしていますが、まだ4週間あります。神様に礼拝をおささげする日曜日を除く平日の24日間をどのように過ごすことが神様の御心に沿った歩みとなるでしょうか。皆さんは、どのように今年のレントを過ごしておられますか。
ある本を先日読んでいましたら、神様がわたしを憐れんでくださったように、憐れみの心をもって、周囲の人々、日々出会ってゆく人たちに優しく接して、心から仕えることが神様の御心ではないかと書かれていて、そうだなぁと思いました。わたしたちの周りに神様の愛、配慮やお世話が必要な人たちがどれほどおられるでしょうか。自分には誰かに与えるものは何もないと思う前に、誰かの慰めや励ましや救いのために神様にお祈りをするという時間を使うことが仕えることになり、その祈りから何か新しいことが始まるのではないでしょうか。お祈りの中で、神様と相談するのです。神様、この人のためにどのようなことをしたら、彼は笑顔になるでしょうか。どんなことをしてあげたら、彼女の悲しみは少しでも楽になるでしょうか。どのような言葉をかけたら、この子は喜ぶでしょうかと相談するのです。
以前にも紹介したと思いますが、星野富弘さんの作品の中に「菊」という名の作品がありますが、とても素敵な詩があります。「よろこびが集まったよりも、悲しみが集まった方がしあわせに近いような気がする。強いものが集まったよりも、弱いものが集まった方が真実に近いような気がする。しあわせが集まったよりも、ふしあわせが集まった方が愛に近いような気がする」という詩です。
この詩を読んでいると、わたしたちに対する神様の御心は、この世の中で孤独や悲しみや痛みを抱えている人たち、そのような思いと日々戦っている人たちと共に生きることではないかと思わされるのです。イエス様はわたしたちの弱さや苦悩や絶望に寄り添い、わたしたちの心に喜びと感謝と平安と希望という力を与えるために十字架への道を歩んでくださいました。わたしたちもイエス様の弟子であるならば、イエス様の歩まれた道に近い生き方をすることが神様とイエス様の御心ではないでしょうか。イエス様だけにその道を歩ませて、自分は傍観者のままでいて、本当に良いのだろうかと思わされます。
先日、寒い日でしたが、ひとりで散歩していましたら、目の前をきれいな緑色のウグイス2羽がサッと飛び抜けてゆきました。あちらこちらで梅の花がきれいに咲いています。教会の椿もたくさんの蕾を付け、少しずつ咲き始めています。桜の木を見上げると、たくさんの蕾が日に日に大きくなっているように見えます。空気はまだ冷たいのですが、春の訪れがすぐ近くにまできているのだなぁと思ったのですが、そのような時、わたしはふと東日本大震災の大きな津波に耐え、仙台・石巻市に一本だけ残った「奇跡の一本桜」と、同じく7万本中一本だけ残った陸前高田市の「奇跡の一本松」のことを思い出しました。
東日本大震災は、もう13年も前のことです。しかし、「もう13年」と感じるのはわたしたちだけであって、現地に今も生きる人たち、特に掛け替えのない家族を失った遺族にとって、「まだ13年」も前のことなのです。どんなに辛い日々を過ごされてきたでしょうか。「奇跡の一本松」と「奇跡の一本桜」は数年後に枯れてしまい、伐採されました。松のほうは、モニュメントが設置されたそうですが、桜のほうは枯れる前に接ぎ木して苗木を育てて、もとあった所に植樹され、「希望の象徴」となっているそうです。また、それ以外にも多くの桜の木が植林されていて、それらの桜が津波の避難誘導目印となっているそうです。
これらの桜が被災地周辺に生きる人々の心を日々励ましているそうですが、桜だけが被災地に生きる人たちを支えているのではありません。被災地に多くのキリスト教会が立てられ、人々に寄り添って仕えておられます。その一つ一つの教会を覚えて支援することはできませんので、わたしたち大久保教会では三つの教会を覚えて祈り、お手紙を添えて支援献金を年に一度送っています。わたしたちにできることは本当に僅かですが、息の長い祈りと支援、寄り添いが必要であると感じています。これも神様が示してくださっている大久保教会への御心だと信じます。次の日曜日の礼拝は、「3.11を覚える礼拝」としてささげます。癒し主であり、希望と復興の力を与えてくださる主に信頼し、賛美と祈りと礼拝をささげます。
さて、今朝のメッセージのテーマは、罪に支配されているわたしたちを罪から救い出すため、イエス様がわたしたちの身代わりとなって罰を受けてくださったというイエス様と神様の愛です。この身代わりがあったから、今わたしたちは救われ、希望の中で生きていられるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあるように、イエス様は、父なる神の愛をわたしたちにはっきり示すため、暴力、鞭打ち、侮辱を受け、嘲弄されること、呪いの木と言われた十字架に架けられることをすべて無言のうちにお受けになりました。
イザヤ書53章は、「主の僕の受難と死」に関する預言が記されている箇所ですが、今朝の礼拝への招きの言葉として読みました53章5節に、「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とありますが、この「彼」とは、他でもないイエス・キリストです。このイエス様が受けた傷によって、わたしたちの罪の代償はすべて支払われ、わたしたちは贖われた、そのことをお伝えし、受難節を歩んでもらいたいと願い、そして祈ります。
さて、わたしは韓国の時代劇ドラマを見るのが好きなのですが、劇中には必ずと言ってよいほど刑罰のシーンがあります。人が罪を犯すと、鞭や細い枝のようなもので足やお尻を何度も打たれる笞刑(ちけい)、太い棒で腰やお尻を打たれる杖刑(じょうけい)、そして重労働、流刑、死刑とレベルアップしてゆくのですが、庶民が盗みなど殺人未満の犯罪を犯しますと、まず牢獄に入れられ、有罪の判決が出た場合、大概は杖刑(じょうけい)という大きな棒、ボートを漕ぐ時の櫂(パドル・オール)のような棒でお尻を20回から100回叩かれるのですが、下手したら下半身付随になったり、死に至るような恐れられた刑です。
この大きな痛みと苦しみを回避するため、役人に賄賂を渡して叩かれる回数を減らしてもらうとか、棒で叩く係りの者に賄賂を渡して軽めに叩いてもらうとか、挙げ句の果てには、罰を受ける者の替え玉を雇うということをするのです。昔も今も変わらないのは、ある程度のことならば、すべてお金で解決しようという考えですが、そのような考えは刑罰を受ける時だけではありません。様々な場面にあります。しかし、そのように替え玉を雇ったり、お金を握らせることができるのは、金や富を持つ者だけです。貧しい人は罰を受けなければなりません。そこには不平等があります。その不平等さは、今も何ら変わりはないと思います。
神様は、ある意味、この不平等さを無くすために御子をこの地上に送られたのだと思います。イエス様も、ある意味、この不平等さを完全に打ち砕き、すべての人に対して平等に裁き、すべての人に神様の愛を届けるために、十字架への道を歩んでくださったのだと強く感じます。わたしたちの責任は、その神様の愛をしっかり受け取ることです。この神様の愛を受け取ると、どういうことがあるのか。それは「滅びないで、永遠の命を得る」ということに尽きると思います。永遠の命を信じるか、信じないかも、わたしたちが決めて良いという自由が神様から与えられています。しかし、わたしたちは選択ミスをする場合もあります。
けれども、ペトロの手紙一の2章の16節に「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」とあります。また、神の僕として生きることは、「神の御心に適うことなのです」と同じ19節と20節にもあります。この「神の御心に適うこと」とは、他の聖書では「神に喜ばれること」と訳されていました。神様に喜ばれること、それが4月から始まる新年度の目標として提案していることなのですが、神様に喜ばれる人生を送るためには、イエス・キリストを救い主と信じて従う信仰が必要なのです。イエス様を模範に生きる必要があるのです。この地上を歩んだ人間の中で、イエス様以上に神様に喜ばれた人生を歩んだ人は、後にも先にも存在しません。
このイエス様の道は苦難の道でした。わたしたちを救うための道でした。21節の最初に、「あなたがたが召されたのはこのためです」とありますが、「このために召された」というのは、イエス様のように愛に生きて、イエス様のように人を愛して、イエス様のように人々に仕えてゆくためという意味です。それは決して楽な道ではありません。ですから、イエス様は「いつもあなたと共にいる」と言って万全なサポートをしてくださると約束をくださっています。人を愛し、人々に仕えるというのは、その人たちの救いのために生きるということです。21節の後半に「というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」と続きますが、どのように神様に喜ばれた人生を歩むかのわたしたちの模範は、イエス・キリストなのです。
しかし、わたしたちの心の中には、「いやいや、自分と家族のためだけに生きるのに余裕がなく、必死なのに、誰かのために生きることなどできない」という思いが込み上げてくるかもしれません。人と関わることは面倒だし、ストレスフルだし、傷つくことも多い、自分のためだけに生きるのはダメなのか、静かに、穏便に暮らすのはダメなのかという思いも湧き出てくるかもしれません。そういう思いを抱くのがわたしたちであり、わたしたちが日々向き合ってゆかなければならない信仰のチャレンジなのです。
こういう霊的なチャレンジを受ける時に、わたしたち各自がまずすべきことは何でしょうか。確かに聖書を読むとか、神様に祈るとか、そういうことも大切ですが、最も必要なアクション、それはイエス様を見るということです。もう少し具体的に云うと、十字架上のイエス様を見上げることです。イエス様は、わたしをどのように愛してくださったか、どのように救ってくださったか、どのような犠牲を支払ってくださったかを再確認することです。
22節から24節をもう一度読みましょう。「21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。22『この方は、罪を犯したことがなく、 その口には偽りがなかった。』23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」とあります。
わたしたちは、イエス様が身代わりとなって受けてくださった傷・死によって救われたのです。救われているのです。そして救われるのです。イエス様が十字架に死んでくださったのは、他でもないわたしのため、あなたのため、わたしたちの救いのため、神様の目に正しい者とされるだけでなく、御心に適った正しいことをして神様の栄光のため、人々の救いのため、共に喜びと平安のうちに生きるためです。わたしたちは、救い主イエス様と出会うまで、「羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方(イエス様)のところへ戻って来たのです」とペトロは言います。戻ってきたと云うよりも、イエス様が闇の中を彷徨っているわたしたちを探し出して、「わたしに聞き従いなさい」と招かれるのです。この愛と憐れみ、恵み、幸いを感謝して受け取り、イエス様に従いましょう。