ルカによる福音書15章25〜32節
今回の学びは、いわゆる「放蕩息子の譬え」として有名な譬えの後半の部分となります。この譬えがイエス様によって語られたことの発端は、15章1節から2節に記されている出来事です。
すなわち、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」ということです。こういう批判がある中、イエス様は三つ(見失った羊、無くした銀貨、放蕩息子)の譬えを話し始めるのです。
この譬えの登場人物は、父親、上の息子である兄、そして下の息子である弟となり、父親は神様、兄はユダヤ人(ファリサイ派や律法の専門家たち)、弟は徴税人・罪人(律法を守れない人たち)、そして異邦人であるわたしたちも含まれます。
この譬えは二部構成となっていて、第一部は前回聴きました11節から24節に記されている放蕩に身を持ち崩して父の許に帰ってきた弟と彼を迎え入れる父親のやりとりです。今回の第二部は、下の息子が帰ってきたことを喜んで宴会を催す父親と弟の帰りと父親の寛大さに不満を爆発させる兄のやりとりが記されています。
この譬えを通してイエス様がファリサイ人たちを中心としたユダヤ人と徴税人や罪人としてカテゴライズされる人々・異邦人に直接伝えたかったこと、それは父なる神はユダヤ人も異邦人も、義人も罪人も、どちらも等しく愛しておられ、神の切なる願いは、ユダヤ人と異邦人が神の主催する宴会の食卓に共につき、一緒に食事をして神様の愛を喜び合うということです。この目的のためにイエス・キリストをこの世に派遣されたと言っても過言ではありません。しかし、この神様の願いが現実となるためには、弟だけが悔い改めるのではなく、兄も悔い改めて父なる神に立ち帰らなければならないと云うことが語られます。
放蕩に身を持ち崩した弟・罪人は、自分の愚かな判断と自然災害の影響によって悲惨な状況に置かれます。そのような中で、自分の罪・間違いを認め、悔い改める必要があることに初めて気付かされます。そして父の許に帰って赦しを請いました。しかし、第二部に登場する兄・ユダヤ人は、自分は律法厳守、常に神の御心を行っているという強い自負がありましたので、自分に間違い・罪があることを認めることもなく、それゆえ悔い改めることもありませんでした。それでは、なぜユダヤ人たちは自分の間違いに気づくことがなかったのでしょうか。また、彼らの間違い・罪とはいったい何であったのでしょうか、ご一緒に探ってゆきたいと思います。
さて、23節と24節に、死んでいた息子が生き返り、いなくなっていた息子が見つかったことを喜んだ父は、肥えた子牛を屠らせ、ご馳走を振る舞う祝宴を開催し、その喜びを表したということが記されています。「死んでいた」とは、罪の中に生きていたということであり、「いなくなっていた」とは、神から遠く離れて生きていたということです。つまり自分の喜び・幸せのためだけに生きていたということです。「生き返った」とは、悔い改めて罪から離れたということであり、「見つかった」とは、神様の許に立ち返ったということです。失われた息子が帰ってきたと喜ぶ父・神様がおられる傍ら、弟の帰還を喜ばず、反対に不満と怒りを表すもう一人の息子・兄がいるというのが第二部の内容です。
さて、25節から27節に、「25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』」とあります。それを聞いた兄は怒り、祝宴の開かれている家に入ろうとしません。僕からそのことを聞いたのでしょう、父親は出て来て上の息子をなだめます(28節)。
けれども29節と30節に、「29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』」とあります。
この父親に対する兄の言葉、神様に対するファリサイ派を筆頭としたユダヤ人の言葉から、わたしたちは何を読み取ることができるでしょうか。それは兄・ユダヤ人の強い主張と不満です。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています」とは、長年忠実に働いてきた、奴隷のようにお父さんに仕えてきたという主張です。「言いつけに背いたことは一度もありません」とは、律法を固く守ってきたという主張、律法主義を貫いてきたという自負の表れです。「それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」とは、奴隷のように真面目に仕えて来たのに褒美の一つもくれなかった、快楽を得ることはなかったという不満をあらわにしています。不真面目な弟が自由と快楽を味わい、ずっと忠実に生きてきた自分が報われないとは、なんたる不平等さかと怒りをあらわにしています。
この29節の「仕える」と訳されているギリシャ語は、ドゥーリュオーという言葉で、奴隷のように仕えるという意味の言葉が用いられています。奴隷のように仕えることに喜びなどありません。あるのは不満だけです。しかし、ギリシャ語には仕えるということを表すもう一つの言葉があります。それはディアコネオーという言葉で、その意味は喜びをもって仕えるという意味の言葉です。そこには大きな差があります。
わたしたちは、礼拝するとき、賛美するとき、献金するとき、奉仕するとき、喜びと感謝をもってささげているでしょうか。それとも、責任・義務だから、致し方ないからと渋々、嫌々ながらささげているでしょうか。神様に仕えることが義務であれば、兄のようなメンタリティーをもって生きることになります。そういう誘惑に陥る危険性もありますので、いつもイエス様に心を向ける必要があります。
さて、この譬えでイエス様がわたしたちに伝えたいのは、喜びをもって心から神に仕える人を神様は望まれていて、自分の虚栄心や自己満足や権威や名声のために生きる人、自分に仕える人を望んではおられないということが一点。もう一点は、そのような人々・わたしたちが悔い改めて立ち返って、神様に愛され、罪が赦され、恵みの中を生かされていることを心から喜び、感謝し、心から仕える人になってほしいと願っておられるということです。自分の満足の奴隷になって奉仕しても、喜びはありません。神様の愛に生かされていることを喜ぶ奉仕・働きにはさらなる喜びが神様から与えられます。
兄の足りない部分は何であったのか。それは父親・神様と同じような憐れみの心がないということに尽きると思います。30節で、兄は「ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」と、「あなたのあの息子」と弟のことを呼びます。兄弟だと思っていない、自分とは関係ない、むしろ関係を持ちたくないという、愛がまったくないことの表れです。
なぜ愛がないのか。父親がすぐ近くにいつも共にいて、父親に愛されていることを知らない、認めない、喜んでいないから、その反対に不利益を被っていると感じているからです。自分は快楽を求めず、ずっと我慢して父親のいうことを守り、奴隷のように仕えてきた、それなのに顧みられない。父親は罪人を愛し、自分を愛さないと苦々しい思いを心に抱いて生きてきたことがうかがえます。しかし、事実は異なります。
31節と32節で、父親は息子に対して、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言います。
父親は、上の息子といつも一緒にいて、愛しているし、いつも交わりをしていると言います。わたしのものはすべてお前の物だと。しかし、「お前の弟・罪人や異邦人」もわたしは愛している。お前と弟を愛する思いは同じだ。お前の弟は死んでいたのに生き返った。遠く離れていたのに帰ってきた。彼の帰りを一緒に喜ぶのは当たり前だというのです。一緒に喜んでくれ、一緒に祝おうと励まし、招くのです。
15章にあるイエス様の三つの譬えをこれまで聴いて来ました。最初の二つの譬えのテーマは、失ったもの(羊、銀貨)を積極的に捜す神様がおられると云うことでした。最後の譬えのテーマは、失った子の帰りを待つ神様がおられると云うことです。父親が失った息子は下の息子だけでなく、実は嫌々ながら生きていた上の息子も同じであったのです。兄弟共々、父なる神様から彼らの心は遠く離れていました。神様は、そのような息子たちの帰りを積極的に待ちます。そこには神様の忍耐と憐れむ御心があったと思います。
神様が積極的に待つということを表すのが、20節の「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」という言葉と、28節の「兄は怒って家に入ろうとせず、父親が出て来てなだめた」という言葉です。
神様が積極的になられるのは、わたしたちを愛してくださっているからであり、わたしたちが神様に立ち返って、神様との親しい交わりの中に加えられることを望んでおられるからです。この神様との交わりがあると、喜びも悲しみも、平安も恐れも、すべて分かち合うことができる関係性が神様から与えられ、神様への信頼をもって喜びに日々生きる者とされるということをイエス様はわたしたちに教えたかったのだと思います。わたしたち一人ひとりは、神様に強く、深く愛されている存在です。