ルカ(87) 心の持ち方を問われるイエス

ルカによる福音書16章14〜18節

前回の学び(16章1〜13節)では、主人の財産を不正に運用・利用していた不忠実な管理人の譬えを通して、「小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」と言う弟子たちに対するイエス様の教えに聴きました。現在、アメリカで活躍する日本人大リーガーの通訳をしていた人の不誠実さ、彼が選手の財産を盗み出し、借金の穴埋めをしていた犯罪が大きなニュースになっていますが、このニュースはイエス様の言葉が正しいことを証明しています。すなわち、16章13節ですが、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とイエス様は弟子たちに教えられたのです。

 

富やお金は、わたしたちの心を惑わせます。大金を手にすると力を得たかのような錯覚に陥り、自分の思い通りに何でもできると思い込むことがあります。富を持つことは、神様やイエス様から心が離れる原因になるのです。富の惑わしについて、テモテへの手紙一の6章9節と10節(p389)には、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまなひどい苦しみで突き刺された者もいます」という使徒パウロの言葉があります。ヘブライ人への手紙13章5節(p419)には、「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」というアドバイスもあります。金銭に執着すると、常に欲求不満になり、絶えず物欲・金欲で心が支配され、心がいつも不安定な状態になり、もっと熟考して判断すべき事柄をあまり考えないで安易に決断してしまうという間違いを犯してしまう事が起こります。

 

さて、弟子たちに対するイエス様の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」という言葉の一部始終を聞いていたファリサイ派の人々は、イエス様をあざ笑ったと14節にあります。ルカはこのファリサイ派の人々のことを、ここでは「金に執着するファリサイ派の人々」と記録しています。口語訳聖書では、「欲の深いパリサイ人」と訳され、新改訳聖書では、「お金の好きなパリサイ人」と訳されています。ルカはここでファリサイ派の人々を皮肉っています。神を愛し、神の律法を守っていると常に豪語し続ける彼らを、神に執着する者ではなく、「金に執着している者」としてここに記し、彼らは口と行いだけは立派だが、その心は神様に対して不忠実だと、ここではっきりと記すのです。

 

では、ファリサイ派の人々は、何故イエス様をあざ笑ったのでしょうか。彼らは何を思って笑ったのでしょうか。例えば、「イエスよ、お前は神と富とに仕えることはできないと言うが、そんなことはない。実際に、わたしたちは神と富、どちらにもちゃんと仕えている」という思いから笑ったのでしょうか。そうも考えられますが、彼らは、金や権力に執着し過ぎているので、彼らの心には神様は存在しません。ですので、イエス様を神の子、神様から遣わされた救い主・メシアであること認めることができず、最終的にはイエス・キリストを十字架に架けて殺すのです。

 

今回の14節から18節は、この「お金の好きな人々」、神と富に仕えることは可能だというダブルスタンダードを持つ人々に対して言われたイエス様の言葉であることをしっかりと覚えておきたいと思います。そして、わたしたち自身も、神様とイエス様を愛し、信じていると言いつつも、お金を愛し、お金の力に頼って生きている事が非常に多い、そういうお金に執着する者でもわけです。ファリサイ派の人々だけではありません。お金がないと幸せに生きてゆけないと思い込んでいる部分があるわけです。

 

しかし、先ほども第一テモテの6章を引用してお話ししたように、使徒パウロは弟子のテモテに対して「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます」と言って、「お金持ちになろう、なりたい」という思いは、「心」が神様から離れてしまう原因となり、誘惑や罠に陥って完全に神様から離れてしまう結果になるから、十分に気をつけてあなたの「心」をしっかり守りなさいと言っている訳です。

 

もう一つ踏まえておくべき事は、お金自体は悪ではないという事です。お金をどのように用いるべきかと考えるその心が常に問われているわけです。例えば、手元にある数億円を自分の至福のためだけに使うか、それとも母子家庭・父子家庭や交通事故で親を亡くした遺児たちを支援するための基金として用いるか、そこに大きな差が出てくるわけです。お金に執着する「心」が問題なのです。その欲望が「人を滅亡と破滅に陥れます」と神様はパウロを通して言っておられます。

 

さて、続く15節には、「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ』」とのイエス様の言葉があります。これは旧約聖書のサムエル記上16章7節(p453)の「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という言葉にもつながります。

 

「自分の正しさ」とは人によく思われたいがために行う表面的な行い・偽善です。「人に尊ばれる」イコール「人に良く思われる、尊敬される、慕われる」ということだと思いますが、ファリサイ派の人々の成すことの大半は、偽善的な見せびらかしであったわけで、神様はその偽善を忌み嫌われると言われるのです。その理由は、そこに心が、愛がないからです。行いと心が完全に分裂しているから、心にアンバランスさがあるからです。

 

このイエス様の言葉は、わたしたちに対して、「あなたは外面をよく見せようとするが、神はあなたの内面・心をしっかり見て知っておられるよ。人からよく思われたいと思うよりも、まず神からどのように見られているかにもっと心を使いなさい、偽善的行為は即刻止めて、心からの寛容さを人々に示して生きなさい」と言われているように聞こえます。皆さんは、イエス様の言葉をどのように聞かれるでしょうか。神様の嫌われるダブルスタンダード、虚栄心、富への執着心、偽善行為、嘘、不誠実さは自分にないでしょうか。

 

16節の最初に、「律法と預言者は、ヨハネの時までである」とあります。「律法と預言者」とは旧約の時代を指し、律法と神の言葉を守り、行うということが重要視されてきた時代です。「ヨハネの時まで」とは、バプテスマのヨハネの働きを指します。このヨハネは、ユダヤ人に対して、アブラハムの子孫であることにあぐらをかかず、偽善的な信仰心を悔い改めて神に立ち返りなさいと叫び、悔い改める人々にバプテスマを施した人です。律法を守る・行う時代から、本当に悔い改めて、「心を新しくされて生きる時代」が始まると、旧約の時代から新約の時代への転換期を宣言しました。

 

福音書の記者ルカは、イエス・キリストによる福音の時代が始まったことを示そうとしています。「それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」とは、イエス・キリストによって神の国の福音が宣言され、多くの人々が救いを求めてイエス様のもとへと押し寄せる時代が始まったというのです。

 

しかし、わたしたちは「力ずく」では神の国には入ることはできません。ファリサイ派の人々などユダヤ人たちは律法を守ることによって神の国へ入れると思い込んでいます。しかし、神の国というのは、わたしたちの努力・行い・力・知恵によって入れるところではなく、ただ神様の憐れみ・恵みによって招かれているところです。ただ神様の愛と憐れみを信じて、今までの自己中心的な生き方を悔い改めて、新しい生き方を喜び、神様の思いを大切しつつ、神様に感謝して歩む中で招かれるところです。大切なのは、神様に喜ばれる「心」をもって日々生きることであり、その延長上に神の国で永遠に生きる命が与えられる、そのように信じて、先取りの感謝と喜びを神様にささげながら、希望をもって日々を生きることです。

 

17節に、「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」というイエス様の言葉があります。ここで注意しなければならないのは、イエス様は律法を「否定」していないということです。イエス様が「非難」したのは、ファリサイ派の人々のような愛のない律法遵守(じゅんしゅ)であって、律法を守れない人々を社会から追い出そうとしたことです。イエス様は、「神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合いなさい」と律法の土台を重視されました。この三つの愛に生きることがわたしたちに対する神様の願いであり、御心であることを覚えたいと思いますし、この神様の思いがなくなることは決してないと心することが大切です。

 

18節のイエス様の言葉、「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」とあります。ここで離縁ということを例としてあげていますが、申命記24章などにもあるように、旧約時代の律法は、男が妻を離婚させることを場合によって許しますが、その反対に女が夫から離婚できることは許されませんでした。男性は自分たちの都合の良いように律法を解釈して、女性たちをさらに弱い立場に追いやりました。それは神様の御心ではありません。

 

ファリサイ派の人々・ユダヤ人男性たちは、律法を遵守していると言いつつも、先ほど言いました「三つの愛」に生きてはおらず、自分だけを愛する愛に生きていました。それはすべて自分を神とする偶像の罪からくるものです。自分の思いを優先させることは、自分を愛するということであり、神様を愛さないということです。それは、姦通の罪に等しい死に値する重大な罪です。神様の言葉を自分の都合の良い部分だけ切り取って聴いて、都合の悪い部分は無視して読まない、また神様の言葉を自分の都合の良いように解釈したりすることなく、厳しい言葉にも心を傾けてゆくように、心の柔軟さ、素直さ、謙遜さを常にもって歩んで行けるように神様の助けを祈り求めながら歩ませていただきましょう。