ルカ(92) 祈り続ける信仰の必要性を語るイエス

ルカによる福音書18章1〜8節

ルカによる福音書の学びも18章に入ります。今回ご一緒に聴く1節から8節は、ルカ福音書のみに記録されているイエス様の譬えです。イエス様が譬えを用いて教えられる今回の目的が1節に明記されています。すなわち「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」ということです。

 

口語訳聖書では、「失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬えで教えられた」と訳されていて、新改訳聖書では、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」と訳されています。新共同訳では「弟子たち」という言葉になっていますが、ギリシャ語原文には「彼らに」という言葉が用いられているだけで、「弟子たち」とはありませんので、弟子たちを含めた「人々」に教えられたと理解することが良いと思います。

 

しかしながら、「祈る」という行為の基礎には、神という大いなる力ある存在への「信仰・信頼」が必要ですので、新共同訳聖書を訳した翻訳チームは、信仰者=イエスの弟子たちという捉え方をしたのだと思います。

 

イエス様が譬えを用いて「気を落とさずに絶えず祈る」ことの大切さを弟子たち・人々に教える理由は、17章22節から37節にあった「神の国の到来」、すなわち「終末の裁き」の時が近づいているという警告があったからと理解することが良いと思います。

 

この譬えに出てくる「やもめ」という存在は、社会の中で弱い立場に置かれている人々、圧迫されている人々の筆頭に挙げられる存在です。そのやもめの叫び・祈りを憐れみの神は終末の裁きの前に必ず聞き入れてくださるということを教え、どのようなことがあっても神様に信頼し、祈り続けるように励ます目的があります。

 

「気を落とさずに絶えず祈る」こと、「失望せずに常に祈る」理由は何でしょうか。わたしたちは、とても身勝手な人間で、順風満帆な時は神様に「祈らなくなり」、苦境に置かれる時は目の前に押し迫ってくる様々な困難さに心が激しく揺さぶられると、神様に「祈れなくなる」からです。

 

この「祈らなくなる」と「祈れなくなる」の違いをよく考えてみましょう。自分の思い通りに物事が進んでいる時、わたしたちの心は成功の喜びに酔いしれてしまい、神様への「感謝の祈り」すら忘れてしまいます。しかし、物事がすべて悪い方向へ向かっているように感じる時、わたしたちの心は不安や恐れに押し潰されそうになって、翻弄され、失望しすぎて、神様に祈れなくなることがあります。

 

イエス様から祈ることについて直に教えられた弟子たちですら、イエス様が十字架の死を前にしてゲッセマネの園で祈っておられる時、まだイエス様が共におられたので、安心して「祈りません」でした。その後、イエス様が裏切られ、祭司長たちに捕えられ、不当な裁判を受けるとき、兵士たちから暴力を受けているとき、イエス様が十字架に架けられ苦しみを負っている時、悲しみと混乱の中で「祈れません」でした。

 

わたしたちも同じなのです。わたしたちの多くは、自分の都合の良い時だけ、さらっと祈り、苦境な時は苦しみ悩むだけで祈ることも忘れてしまう者です。わたしたちは、いつもどれだけ真剣に神様に祈っているでしょうか。感謝も、悩みも、苦しみも、神様にどれだけ絶えず祈っているでしょうか。

 

「気を落とさずに・失望せずに」という言葉には、気が滅入ってしまうような逆境の時、人生最悪と思える時を指しています。そして、人生最悪と思えることをわたしたちは経験するのです。社会の中で非人道的で絶望的な扱いを常に受けている典型として挙げられるのが夫や家族がいない「やもめ」であったり、まだ社会的な力が備わっていない「子ども」であったり、異国で頼るべき人も地位もない「寄留者」なのです。今の時代、高齢者たちも入ると思います。

 

主イエス様は、目の前に立ちはだかる大きな問題、次から次へと向かってくる課題に気を落とす人たち、失望せずにはいられないと感じながら生きる人たちに対して、「それでも神を信じて助けを祈り続けなさい、困難に直面して祈れなくなる前から常に真剣に祈りなさい、神は必ずあなたの祈りを聞いてくださる」と励ますのです。

 

さて、2節から5節を読みます。「2ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」という譬えが語られます。

 

「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」、すごいですね。「自分が神、自分が法律!」みたいな裁判官、どこかの国の独裁者みたいです。このような傲慢で不正に満ちた裁判官は、旧約聖書では、貧しい人や孤児ややもめに対して暴虐を振るう者とされています。

 

例えば、イザヤ書10章1節と2節(旧p1075)に、「災いだ、偽りの判決を下す者、労苦を負わせる宣告文を記す者は。彼らは弱い者の訴えを退け、わたしの民の貧しい者から権利を奪い、やもめを餌食とし、みなしごを略奪する」とあります。ここに「彼らは」と複数形になっていますので、そのようなひどい裁判官が当時から多くいたこと、それらの不正にまみれた裁判官に苦しめられていた人々が大勢いたということを読み取れると思います。

 

さて、3節に「その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた」とあります。これは譬えですから、彼女が何を求めての訴えであったのか分かりませんが、女性たちが日々受けている不当な扱いを思い起こせば良いでしょう。誰かから不当な言い掛かりを付けられていたのかもしれませんし、死別した夫の負債を負わされそうになっていたり、子どもを誰かに取られようとしていたのかもしれません。彼女に暴虐を加えようとする者(たち)からの保護を求めた訴訟であったと考えられます。女性は、いつの時代も甘く見られ、不当な扱いを受けます。

 

「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」という傲慢な裁判官は、当初この女性の訴えに耳を貸そうとしませんが、彼女があまりにもしつこく言ってくるので、「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」(4・5節)と言って、裁きを行うというのです。裁判官は、根負けするのです。

 

この裁判官の言いぐさを「聞きなさい」とイエス様は6節で弟子たちや人々を促し、7節では、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」と言われます。意地悪で不正に満ちた裁判官でもひたすら食い付いてくる者に根負けして裁きを行うのだから、愛と憐れみに満ち満ちた神様が祈りを聞かれないはずがない」という意味です。

 

詩編146編の6節後半から10節までを読みますと、「とこしえにまことを守られる主は虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。主は捕らわれ人を解き放ち、主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる」とあり、神様は小さくされている人たちを助け、保護してくださいます。

 

7節に「選ばれた人たち」とありますが、これは神様への信頼・信仰を守り通す人たちです。苦しい立場に置かれても、悲しみが身に降りかかってきても、絶望的に思えるような状況に置かれても、神様とイエス様を信じて、聖霊の助けを受けて祈り続ける人たちが神様の御国へと招かれる選ばれた人たちということができます。

 

この「選ばれた人」(エクレクトス)という言葉が次にルカ福音書で出てくるのは、イエス様が十字架に架けられた時です。十字架上のイエス様をあざ笑って人々が言った言葉です。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23:34)と言いました。しかし、イエス様はご自分を救いませんでした。わたしたち罪人に代わって罪の代償をその身に負い、贖いの死をもってわたしたちを救い、イエス様を救い主と信じるすべての人を神の国へ招かれる「選ばれた人たち」とするためでした。

 

この18章前半の譬えだけを読みますと、わたしたちの祈りに応えてくださるのが非常に遅い神様がいるように感じてしまいますが、この譬えではわたしたちに祈り続けること、絶えず祈ることの重要性を教えています。そして8節では、「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」、つまり御心に適った人たちの祈りに対しては、速やかに聞いてくださるということが言われています。

 

もう少し角度を変えて言いますと、信仰のないとき、信仰が弱いときは、神様への信頼レベルは低く、忍耐力がありませんから祈りがなかなか応えられないと感じてしまいます。しかし、信仰が成長して行く中で、神様への信頼と忍耐力が大きくなりますので、神様が祈りに応えてくださらなくても焦らなくなるのです。神様の時を信じて待つことができるような霊的成長が与えられているからです。イエス様が8節で「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と言われるのは、どのような苦境に立たされても、絶望的と思えるような状況に置かれても、まず神様に信頼し、イエス・キリストの御名によって祈り続けること、「絶えず祈って、待ち望む」信仰を持つことなのです。

 

おまけ:ルカ11章5〜8節の譬えと18章の譬えの比較をしてみましょう。11章では祈る時の聖霊の必要性が語られ、18章では信仰の必要性が語られています。