「神の意志に従う中で得る希望」 六月第二主日礼拝 宣教 2024年6月9日
ローマの信徒への手紙 8章18〜25節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も、皆さんとご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。今朝のこどもメッセージでは、M宣教師が子どもたちに神が天地万物を創造されたことをお話ししてくださいました。すべてのすべては、神の御心に従って、綿密なご計画の中で、父なる神と御子と聖霊によって造られ、祝福されました。わたしたちが経験したこともないほどの、完璧なまでに美しい光景であったことでしょう。それを破壊しているのは、わたしたちの罪であります。そういうことを踏まえて、今朝のメッセージを皆さんに分かち合わせていただきたいと思います。
先週もお話しさせていただきましたが、「神の御心を求める」というテーマをシリーズ化して、メッセージをさせていただきます。大久保教会の年間聖句であるヘブライ人への手紙11章6節の後半に、「神はご自分を求める人たちに報いてくださるお方であることを、信じていなければならないからです」とあります。わたしは、「神様を求める」とは、イエス・キリストを通して、神様の御心を知ることだと思います。そして、「求める」とは、御心に沿って生きるということであると思います。わたしたちがどのように生きたいと願っているかではなく、わたしたちを創造し、その豊かな愛の中で生かしてくださっている神様がわたしたちにどのように生きてほしいと願っておられるのかを知ることが重要であると信じます。
「御心」という言葉は、他に「御旨」、「意志」、「願い」とも聖書の中で訳されています。英語では、「will」という言葉に集約されてしまいますが、今朝の聖書箇所であるローマの信徒への手紙8章20節には、「自分の意思によるものではなく、服従させた方の意志によるものである」という言葉があります。漢字の「意」とは、「心、心の動き、考え、気持ち」という意味もありますが、「物事の意味、わけ、内容」という意味もあります。神様のご意志というのは、一時的な考えとか心の動きではなく、わたしたちの想像力を遥かに超える壮大なご計画の中に真意と目的と理由があることを覚えることが必要だと感じます。
わたしたち人間が志す「意志」と、すべてのすべてを創造し、祝福される神様が志される「意志」は、人間の「罪」によって大きな隔たり、違いがあるのは確かです。疑う余地はありません。しかし、それがずっと違うままが良いのではなく、救い主イエス・キリストによって、神様の心とわたしたちの心を一つにしてゆくことが神様の御心であるということをご一緒に聴いて、悔い改めさせられて、神様の御心に沿って共に生きてゆきたいと願います。すべての人が自分の罪、間違い、的外れの生き方をしていることに気付かされ、悔い改めないと、このままでは破滅してしまうことになるでしょう。それは神様の御心ではないと聖書にははっきり記されています。神様の御心は、わたしたちが神様の愛と憐れみをイエス・キリストを通して知り、間違いを悔い改め、神様に立ち帰ることです。
ローマ書8章18節で、この手紙を記した使徒パウロは、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と言っています。彼の言う「現在の苦しみ」とは何なのか、イエス様を信じる人たちに差し迫っている迫害なのか、何なのかわかりませんが、現代に生きるわたしたちにもそれぞれに「苦しみ」や悩みがあります。皆さんの心には、今どのような苦しみ、悩みがあるでしょうか。
使徒パウロは、各地の教会に書き送った手紙の中で、自分が体験した苦難を繰り返し語っています。例えば、第二コリント6章4節5節を見ると、彼の受けた苦難というのは、「欠乏、行き詰まり、むち打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」などであったと記されています。同じ第二コリントの11章にはもっと具体的な苦難が記されていますが、皆さんにも具体的な苦難があるのではないでしょうか。しかし、その苦しみを外側に出すことをわたしたちは嫌います。恥ずかしいことだと思い込んで、内側にしまい込んで、独りで苦しみます。しかし、自分独りで問題や課題を抱え込んで、苦しむことが神様の御心でしょうか。
使徒パウロの素晴らしいところは、自分の苦しみを教会の兄弟姉妹たちと分かち合っていることです。パウロは、「わたしの苦しみを分かち合うことで、幾分かでもあなたがたの慰めに、励ましになるように、あなたがたがイエス様から離れず、神様からいただいた信仰を捨てないようにするために」という強い思いがありました。自慢話など何の益にもなりません。失敗したこと、苦しんだこと、悩んだことを分かち合う事は、お互いの益になります。
パウロが「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい」と言うように、嬉しいこと、感謝なこと、感動したことを分かち合うだけではなく、心の中にある痛みや悲しみ、苦悩、辛いことも一緒に分かち合って、祈り合って、支え合って、忍耐しつつ歩むこと、それが教会という信仰のコミュニティの中で、イエス様を救い主と信じる同じ信仰が与えられている神様の家族と共に忍耐し、主に希望をもって生きることが神様の御心ではないでしょうか。
確かに何でもかんでも分かち合って良いというわけではありません。互いに尊重し合いながら、境界線もしっかり引き、関係性の中にも節度を保ってゆくことも重要です。自分勝手に振る舞っては相手を苦しめ、傷つけることにもなりかねません。大切なのは、神の愛です。
さて、心をしっかり持つべきこと、それはこの地上で苦しんでいるのはわたしたち人間だけがではないということです。使徒パウロは19節で、「被造物は神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」と言っています。被造物も私たちの罪ゆえに苦しんでいることを決して忘れてはいけないと釘をさしています。
神様はすべての被造物を治めさせる役目を人間に与えましたが、人間は神様に対して罪を犯し、不従順に生きることによって、すべての被造物に対する治め方を間違えてしまいました。その結果、被造物は「虚無に服し」、「滅びへの隷属」、「産みの苦しみ」を強要され、今うめいているとパウロは言っています。
この被造物のうめきは、人間による自然破壊とそれによって引き起こされているオゾン層の破壊が発端となって気候変動が起こり、地球温暖化によって大きな影響を受けた自然界で引き起こされる災害に現れていますが、この傷つけられ、破壊され続けている被造物は神様の救いの完成を希望をもって待ち望んでいるとパウロは20節で言っています。被造物が持つ希望とは、いったい何でしょうか。それは神の子たちの出現なのです。
パウロは、すべての被造物の救いの完成のためには、神の子たちの出現が必要不可欠だと言います。自分勝手に、自由気ままに罪に生きてきた人々が自分の間違いに気付き、悔い改め、心が新しくされることが求められています。そのように悔い改めた人たちが新しくされ、神様のご意志を尊重する意識改革がされてゆくことが重要であると指摘されています。私たちがイエス様によって罪から救われ、神の子とされているのは、神様から託されている被造物、自然を大切にすると言うことが含まれていることを忘れてはならないのです。
お話が前後しますが、23節に「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」とあります。「“霊”の初穂」とは、キリスト・イエスの甦り、ご復活を意味します。このイエス様の甦り、復活があるからこそ、その福音を信じる恵みに与る私たちは、死の先にある永遠の命に希望を持つことができます。もしイエス様がわたしたちの罪のために十字架に死んで贖いの業を遂げてくださり、神様がイエス様を死から甦らせていなければ、わたしたちは永遠の命を持つ希望と平安を得て生きることはできません。イエス様を通して神様の愛と憐れみを受け取り、恵みのうちに生かされない限り、希望はないのです。
24節から25節で使徒パウロは、「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」と書き送っています。わたしたちは、見えない神とそのご計画、御心に希望を持ち、期待しつつ、その御心に沿って生きて行こうと心から願い求める者です。その願いに寄り添い、励まし、導いてくださるのが聖霊です。
このご聖霊がいつもわたしたちに伴ってくださり、苦難を共に耐え忍ぶ力、神の救いの時を待ち望む信仰と希望を抱く力を与え、神と人を愛する力を備えてくださるのです。この聖霊がわたしたち一人ひとりを集めてくださり、共に主に従う教会というコミュニティ、神の家族に繋げてくださいます。わたしたちはそれぞれに欠けや弱さを持つ者です。主の御心に従いたいという強い思いがあっても、主の助けなしにこの世の中で、また教会の中で愛し合い、支え合い、仕え合うことは至難の業です。しかし、神様に出来ない事は何一つありません。聖霊を通して、必ず一つにしてくださいます。わたしたちに必要なのは、天地万物を造り、すべてのすべてを、愛をもってご支配されている神様に委ねて生きる信仰です。この信仰を持ち続ける中で、主なる神様が共に働いてくださり、万事が益となるのです。