御心に従って執り成すお方

「御心に従って執り成すお方」 六月第三主日礼拝 宣教 2024年6月16日

 ローマの信徒への手紙 8章26〜27節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝も、皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。しかし、正直に言います。確かに感謝で嬉しいのですが、それでも1週間が経つのは早すぎます。皆さんの感覚は、どうでしょうか。二日程前が日曜日であったかのような錯覚に陥るのはわたしだけでしょうか。瞬く間に次の日曜日が巡ってきます。あっという間に1週間が過ぎるというだけでなく、時間がいくらあっても足らない、そういうおかしな状態です。毎日時間に追われて、気持ちに余裕がない。皆さんはどうでしょうか。

 

4月以降、まだ2ヶ月半しか経っていませんが、わたしは過去13年間、とても甘やかされていたと痛感しています。副牧師が第3日曜日のメッセージを13年間ずっと担ってくださいました。第二日曜日の朝の礼拝と夕礼拝が終われば、その週はメッセージの準備もなく、祈祷会の奨励と月報の準備だけですので、ガーデニングをしたり、溜まっていた課題に取り組み、それらを完成させる時間と余裕がありましたが、今はそのような余裕はありません。月曜日から、毎日優先順位を定めて、日曜日に向けて順序よく取り組むようにしてはいますが、連盟の仕事や他教会の訪問があったりして、牧師としての仕事がなかなか捗りません。

 

先日、F市にある教会を午前中に訪問し、13時頃には教会に戻って日曜日の礼拝の準備をしようと計画して出かけたのですが、行きの電車に乗っている時に人身事故が発生し、それから約2時間、車内と暑いホームの上でずっと待たされました。わたしだけでなく、何万人という乗客が影響を受けたと思います。時間がかなりかかると車内放送で聞いた人たちは諦めて新宿方面の電車で都心に戻りましたが、わたしは教会を訪問しなければなりません。すぐにメールで人身事故のことを知らせ、待っていただくようにお願いをし、2時間遅れでミーティングをし、教会に帰宅したのはもう16時手前でした。とても疲れました。人は疲れていると、事柄を前向きに捉えること、感謝するのは難しいです。神様の御心はどこにあるのか、何であるのか、分からなくなります。皆さんは、そのようなご経験ないでしょうか。

 

疲れてしまいますと仕事が捗りませんから、そのしわ寄せが教会の皆さんへ行ってしまいます。そうなっていることに申し訳なさを感じつつも、神様に憐れみと助けを日々祈り求めながら仕事をしています。しかし、心に余裕がなくなると不平不満だらけになり、神様の御心を求めることなく、自分の気持ちが優先されてしまうようになります。宣教の最初から愚痴のような内容になってしまいましたが、牧師も「うめいている」ことを覚えていただければ幸いです。あと9ヶ月で連盟の責任から解かれることが、わたしの唯一の希望となっていますが、お忙しい皆さんの抱く希望はどのようなものでしょうか。色々とあるかと思います。

 

しかし、そのような希望をわたしたちに与えて前進させてくださるのがイエス・キリストであり、イエス様を死より甦らせた神様であることを先週のメッセージでご一緒に聴きました。救い主イエス・キリストが神様の愛と憐れみの表れであり、希望であることを聴きました。先週の聖書箇所は、ローマの信徒への手紙8章18節から25節でしたが、そこには人間の罪が生じさせる苦しみによって被造物はうめき、クリスチャンもうめくことを聴きました。しかし、そのうめきからわたしたちを解放するために神様は救い主をお送りくださり、イエス様を「霊の初穂」としてくださったことを聴きました。

 

わたしたちの罪の贖いのためにイエス様は十字架に死なれ、わたしたちを永遠の命に生かすために神様はイエス様を三日後に甦らせました。そこにわたしたちに対する神様の愛があることを聴きました。わたしたちがうめきから解放され、希望の中に生きるために必要なのは、十字架にしなれ、三日後に甦られたイエス様を信じることです。イエス様を信じて、イエス様につながることによって、たとえ苦しみの只中にあっても、希望を持ちつつ耐えることができる、そのように神様が助けてくださることを共に聴きました。

 

さて、今朝の聖書箇所は、先週の箇所に続くローマ書8章26節から27節ですが、その26節の最初に、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」とあります。この「霊」とは、聖霊を指しています。そこで今朝のメッセージは、聖霊は苦しみ悩むわたしたちに寄り添い、わたしたちと共にうめいてくださるということを聴き、また同時に、わたしたちのために神様に執り成してくださるお方であることを聴きたいと願っています。聖霊は、わたしたちが神様の御心を知ることができ、ただ知るだけでなく、その御心を信じて、その御心に従って生きてゆくことができるようにわたしたちを助け、励まし、導いてくださる神であることを共に聴いてゆきたいと願っています。

 

話しが前後してしまい申し訳ないですが、日頃から親切にしていただいている方のお兄様が10日ほど前に血液のご病気でお亡くなりになられました。68歳の若さです。わたしの知り合いは、お兄様を通して多くを学んだそうです。若い頃にお兄様を通してイエス様と出会い、それからずっとイエス様に従うことができているのも、すべてお兄様の良い影響があったからと言っておられましたが、その方と今週金曜日にお目にかかることになっています。どのような言葉で慰めの言葉をお伝えしようかとここ数日、気持ちに余裕のある時に考えたりしていますが、聖霊が助けてくださると信じています。

 

また、先日の牧師会で、90歳を超えられた大先輩牧師が、健康上の理由で、協力牧師として長年仕えておられた教会をお辞めになられたという寂しい報告を受けました。その先輩牧師にお手紙をお送りしようと思って、25年のお付き合いの中から色々な出来事を思い巡らしているのですが、どのような言葉を紡いでゆけるか正直分かりませんが、感謝をひたすら記すつもりではいます。しかし、それも聖霊が助けてくださると信じています。

 

今日の午後3時から、S教会の副牧師就任・按手礼式がありますので出席しますが、西地区の牧師会の幹事として、20教会を代表して式の最後で祝辞を述べることになっています。就任される牧師に対して、どのような言葉で励ましと祝福の言葉をお伝えできるか、これも正直分からないのですが、聖霊がその時に力強く導いてくださると信じて感謝しています。たぶん19時前には帰宅できると思いますが、その後、夕食を食べ、少し仮眠をとり、午前1時半からGT教会の礼拝で、ライブでメッセージをさせていただきます。聖霊が助けてくださると信じています。皆さんの祈りのサポートもお願いいたします。

 

さて、今朝はわたしがじたばたもがいている事ばかりをお話ししていますが、皆さんにも悩み苦しんだり、もがいたり、あがいたり、奮闘していることが日々の生活の中であるのではないでしょうか。苦労されていることもたくさんあるのではないでしょうか。神様が与えてくださるイエス・キリストの福音に希望があり、希望を抱くことを通して耐え忍ぶ力が得られるということも事実であり、恵みでありますが、今朝の聖書箇所には、聖霊がわたしたちに苦しみを耐え忍ぶ力を与えてくださるということが記されています。

 

「弱いわたしたち」とありますが、わたしたちの弱さとはいったい何でしょうか。それはわたしたちには限界があるということです。どんなに努力しても、自分の思いとは裏腹に真逆の方向に物事がゆくことがあるのです。どんなに知恵を絞っても、自分の思い通りにことが進まないことがあるわけです。どんなにお金を注ぎ込んでも、お金では解決できないことがたくさんあるわけです。どんなに元気な生活を送ろうとしても、身体に衰えが生じて来るわけです。どんなに幸せに生きようと思っても、次から次へと問題が生じるわけです。平安が欲しいと願いつつも、心はいつも悩みや不満や怒りで満ちてしまいます。

 

調子が良い時は、鼻歌で主を賛美したりしますが、調子が悪い時こそ神様に祈るべきですが、わたしたちは悩むことで忙しくなり、神様に祈ることをしなくなります。そのように、わたしたちには本当に多くの弱さがあり、日々弱さの中を歩まされます。しかし、そのようなわたしたちの近くに共にいまし、わたしたちと共にうめいてくださるのが聖霊です。

 

27節に「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」とあります。神様は、この地上のすべてのことを知っておられ、わたしたちの心も完全に知っておられるお方です。何も隠し立てすることはできません。しかし、聖霊が、神様の御心に従って、わたしたちのために執り成してくださると使徒パウロは言います。

 

わたしたちのうめきというのは、完全にわたしたちの気持ち・感情・願いが中心となっていますが、聖霊のうめきは、神様の御心に沿ったうめき、神様の御心を第一にするうめきです。聖霊はその狭間で共に苦しんでくれるのですが、と同時に、聖霊はわたしたちの心を神様にぐっと引き寄せてくださり、神様の御心がもっと分かるようにしてくださる。それが聖霊の働きであります。聖霊は、わたしたちの心を神様に近づけてくれるだけでなく、わたしたちが神様の御心に従って歩んで行けるように助け、励まし、導いてくださる神なのです。神様の御心を知り、御心に従って生きるためには、イエス様と聖霊の助けが必要なのです。この助けを日々求めてゆきましょう。